第四十二服 いつもみたいに
その夜碧は、なかなか寝付けずにいた。
のそりと起き上がり、台所の脇にある冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出した。
喉が渇いていないのに、何か飲まないと落ち着かなかった。
冷蔵庫には、父親が夕飯用に作って置いてくれていた焼きそばと卵焼きが、手付かずのままラップがかけられてしんみりとしていた。
何だか食欲がなかった。
今日の部活であの人が碧に放った言葉が、耳元で繰り返し再生される。
「碧は、お点前というものを何もわかっていないね」
父親の仕事部屋からは、まだ明かりが漏れていた。
時計を見ると午前一時を回っていた。
部屋に戻ると、空気が重たい。堪らず窓を開けると、雨蛙の大合唱が聞こえてくる。
(確か同期現象っていうんだよな。もう少ししたらホタルも見えるかな…)
碧の家は北野天満宮の近くにあり、毎年五月下旬から六月上旬までホタルを見ることができる。
紙屋川沿いにかかる青紅葉の影から儚げな光を灯す姿は幻想的で、誰もいない深夜に訪れるのが好きだった。
碧にとってそこは、この時期のちょっとした秘密基地のようなものだ。
それにしても、外が妙に暗い。
窓から顔を出すと、そういえば今日は新月だったことに気づく。
月明かりがない分、星がいつもより幾分輝いて見えた。
微量な星明かりが落ちる部屋の中で、碧の微睡はまだ訪れない。
やっと視界が狭くなってきた頃には辺りが白んできて、窓もカーテンも開けっぱなしだったことに気づいた。
* * *
金曜の朝、いつも通り朝食を作る。
親父との旅をやめた中学二年生の秋からは、一人暮らしのようなものだったので、碧は大抵のものは自分で作れるようになっていた。
たまに近所に住む親戚の人がおかずを届けたりしてくれていた。
昨日の焼きそばが残ってる。
(今日は購買じゃなくて、弁当に詰めていこう)
碧は朝食に、土鍋でご飯を炊くのが好きだった。
今は施設に入っているじいちゃんが教えてくれたいくつかのことのひとつだ。
たっぷり浸水の時間をとって、火にかける。すると五、六分でしゅんしゅんといい匂いと共に蒸気穴から蒸気が立ち上り、カタカタっと蓋が踊る。
少し火を弱めて、そこからまた五分。火を止めたら十分ほど蒸らす。
鍋底にはすこしおコゲが出来上がって、米のなんともいえない甘い香りとおコゲの香ばしさが鼻をくすぐる。
ご飯を炊いている間に、何かしらの青菜と、お揚げもしくは豆腐を切って味噌汁を作る。
大抵はそこに、卵焼きか目玉焼き、そして親父が仕事先から送ってくれる海産物や干物が冷凍庫に入りきらないほどあるので、それをグリルで焼く。
それが普段の朝食の献立である。
(俺っていつでも嫁入りできるよな…)
そんなこと思いながら、二人分の朝食が出来上がった。
親父が帰ってきている時は、『朝食くらいは一緒に食べようか』と言われたので、碧が作ることにしている。
匂いに誘われたのか、親父は、ふあぁ〜と大きなあくびをして食卓のいつもの場所に座った。
「おはよう、碧。早いな。あ〜醤油、とって」
「おはよ。醤油、目の前にあるけど」
「あ、ほんとだ、ボケてんな。昨日寝たの三時頃だったんだよ」
時計の針は七時ちょうどを指していた。
「お前も昨日、なんか遅くまで起きていたな。学校でなんかあったか?」
米を口に運ぼうとした碧は不意打ちをくらい、箸をぴたりと止めた。
何も言わないでいると、親父はいつもの通り、それより先を聞こうとしなかった。
「…そういやさ、明後日の日曜から、また俺居ないから」
「そうなんだ。今回はどれくらい居ないの?」
「今回も三ヶ月くらいかな。香川の醤油蔵撮るんだよ。
お前も昔五歳位ん時、香川行ったの覚えてんだろ? またあそこに行くんだよ。
今回ドキュメンタリー映画の制作チームで行くんだけど、俺、スチルも撮るけど助監もやってくれって。ウケるよな」
「そうなんだ…楽しそうじゃん」
親父が珍しく、自分の仕事の内容を話すので、もっと色々質問したい気がした。
それなのに、なぜか親父と一緒にいると、気恥ずかしさなのかそれ以上言葉が出てこない。
碧の頭の中には、五歳の時に見たであろう醤油蔵の大きな木桶と発酵の匂いがうっすらと浮かんだ。
「…碧、明日さ、ちょっと出かけねぇか?」
「…? なんだよ急に、珍しいじゃん」
「いいじゃねぇか、たまには。付き合えよ」
「…わかった」
親父はそのまま新聞を広げて、朝食を食べ始めた。
テレビをつけると、特にニュースでもない情報が朝のニュース番組を埋めていた。
テレビの雑音は何も考えたくない時にちょうどいい。
気づくと時計は七時半を過ぎていた。
急いで片付けて、昨日の焼きそばと卵焼きが入った弁当をカバンに入れる。
教室につくと、朝礼が始まる五分前だった。
ほとんど寝られなかったからか、朝の珍しい出来事のせいか、いつもより教室に差し込む光が眩しくて、窓側の席に座る碧にはなかなか堪えた。
* * *
午前中の授業は、寝不足の頭にはほとんど入ってこなかった。
昼休みに紙パックのコーヒー牛乳のストローを銜えながら寺崎が碧の元にきた。
「あーお! なんや、今日は購買行かへんの? 弁当珍しいやんか!」
「あー、親父の作った余りもの」
「えー親父さん、帰ってきてんのやっけ!
俺さ〜お前の親父みたいな生き方めちゃ憧れてん!なんかええよな〜自由で、縛られない生き方!しかも売れっ子カメラマンなんてかっこよすぎやろ」
たしかに、自由で、縛られない、売れっ子カメラマンだ。
自分の父親が良いように言われるのは、悪い気分じゃない。
「うちの家なんてよ〜しがない小料理屋やし、店が休み以外の日は俺、ずーっと手伝いやし」
「でも、お前んち仲良いじゃん。うちなんて家にいてもほとんど会話ねぇよ?」
「別に仲良くねぇよ。あのババァが俺がいねぇと困る言うから、出てやってんの!
つうことで、来週月曜また店休みやから、俺んちでゲームしよや」
「あー月曜は毎週部活なんだよ」
「は?お前まだ茶道ってやつ続いてるん?」
「まだっつうか、この前基本教えてもらったばっかだよ」
「なんや〜茶道ほんまにやる気なん?
うちの店の休みだいたい月曜やのに、その月曜にお前が部活やっとったら全然遊べへんやないか」
「あーごめん。また休みの日が被ったらあそぼ。店にも顔出しに行くからさ」
「なんや、つまらんやつやな…わかったわ。もう誘わん」
寺崎の言葉に寂しさとイラつきが混じっていたのを、碧はわかっていた。
いつもみたいに、笑って誤魔化せなかった。
昼休みの終わりを告げるチャイムは、その後なかなか鳴らなかった。
二人は向かい合って席に座っているのに、スマートフォンをいじったり、イヤフォンで音楽を聴いたり、チャイムが鳴るまで何かを共有することはしなかった。




