第四十一服 思いのまま
「先にやりたいやつ、おる?」
銀次郎が三人に目を向けた。
碧は、膝の上で握った手の内側がじんわりと熱を帯びていくのを感じていた。
「あー俺は、ちょっと自信ないかも〜」
光瑠は後頭部を掻きながら、悄々と身を縮めた。
茉莉を見てもモジモジとしている。
その様子を見て、碧は一つ息を吸ってからそっと拳を握り直した。
「先輩。俺、やってみてもいいですか?」
──連休中、あの人のお点前を思い浮かべながら、何度か自分でエア手前をやってみた。
YouTuboで検索して見てみたりもしたけれど、あの人のそれがあまりに美しすぎたのが脳裏に焼きついて、手順を説明するだけの動画は見ていて眠くなるほどつまらなかった。
実際の道具を使ってやってみたかった。
すぐに揃えられる道具を一式買ってみようかとも思ったが、amazanや楽金で見た茶道セットみたいなものがひどくお粗末そうで、そんな間に合わせのものを買うくらいなら、ちゃんと一つ一つのものを自分が理解した後に買うべきだと思った。
「やる気満々じゃねぇか!碧! いっちょかましたれぇ!」
光瑠が助かったと言わんばかりに碧の背中をパンと叩いた。
腰に帛紗を仕込み、点前座に膝をついた。
すぅ…と一つ深呼吸をする。
頭に思い浮かぶのは、あの、舞のような、息を呑む瞬間。
──俺も、あんな風に、舞ってみたい。
帛紗をするりと外す。
掌で弄ばれる蝶のように、それは軽々と碧の思いの通りに従った。
棗は碧を求めて恥ずかしそうに小さくなってその手中に収まり、茶杓は指の上をするりと滑りながら、帛紗に自ら身を投じた。
釜の蓋を外すと、ゆるりと幻のように立ち上がる湯気は、碧が意図して放ったものに見えた。
茶筅を湯に通すと、穂先は喜んで花開いた。
一つ一つが、碧の思いのままだった。
茶碗に抹茶を入れ、柄杓から湯を入れる。
ここまでは脳内演習の通りにできていた。
しかし、実際に茶を点てるのはこれが初めてだ。
──目の前にある、緑色をした存在が放つ音を聞きたい。
──親父のように、目の前にあるその魂の一瞬の輝きを、言語化されない想いを、茶の中に見たい。
自分の意識はただその目の前の一椀の中にだけあった。
茶筅をゆっくりと抜き取り、茶碗を自分の右側に置いた。
「碧…お前…」
銀次郎が金魚か鯉のように口をパクパクとさせる。
「すごいな、ほんまに。もう一回聞くけど、茶道、初めてやんな…?」
「家で、ちょいちょいエアで練習したんすよ!手順、間違ってなかったですか? 」
碧は自分の呼吸が止まっていたような感覚になり、息を大きく吸い込んでそう答えた。
「あぁ、まあ、ほぼ…というか、完璧やったわ…」
銀次郎はそう言いながら千歳と雪乃の顔をちらっと窺った。
「あおっち!すご!!!なんやそれ!! めっちゃコソ練しとるやん! 先輩、うちも完璧になるように教えてください〜!!」
茉莉は、悔しいのか感動しているのかわからない動揺を抑えようと、千歳に抱きついた。
光瑠は、何も言わずにじっと碧の顔を見ていた。
その表情から感情を読み解くことができなかった。
その後、茉莉・光瑠の稽古を終えて、下校の時刻を迎えた。
* * *
一通り片付けを終えて早々と浴衣から制服に着替え終えた千歳が、縁側にいる『何もしない顧問』の元へやってきた。
ちいさな鉄瓶から、煎茶のおかわりを注ごうとしている。
「先生が、なんであの子を気に入ったんか、なんとなくわかりましたわ」
千歳は、透と目を合わせずに、遠くの方を見やりながらこうつぶやいた。
透の手が湯呑みのうえで一瞬止まる。
「さあねぇ」
そう言いながらゆっくりと鉄瓶を傾けて、煎茶を注いだ。
「形がなぞれるのと、その所作で人をもてなせるのとは違う。
あの子はまだ『その入り口』にも立っていないよ」
透の目の奥が一瞬深くなった。
「入り口…」
千歳は透の言葉を繰り返して、しばらく無言になった。
「まぁこの道に、きっと出口なんてないんでしょうけどね…」
千歳は軽い嫌味みたいなものを言うと、頭を下げてみんなの元へ戻っていった。
「出口かぁ」
透は、縁側から見える西の空が染まっていくのを眺めながら呟いた。
* * *
下校のチャイムを後ろ手に聞きながら、茶道部員一行は校舎を出て正門へ向かった。
女子三人、男子三人がそれぞれ前方後方に自然と別れて歩き始めた。
前方の女子組では、茉莉と雪乃が闘茶のことで盛り上がっている。
「茉莉ちゃんに負けへんように、うちもがんばらな〜」
「ゆきちゃん先輩!残念ながら、闘茶はうち譲る気ないんで、諦めてくださいっ!」
「え〜なんやの〜じゃあ闘茶はええから、おっぱいちょっとわけてぇな〜」
「雪!それはあかんやろ!闘茶もちゃんとやりぃ」
千歳が雪乃の頭に手刀を入れて突っ込んでいる。
「あー!やっぱ碧は、ほんと身体能力高いよなー」
光瑠が碧の腕に自分の腕を絡ませ、ズルズルと体重をかけて駄々っ子のような体勢になって言った。
「いや、光瑠も聞いてただろ? あのあと先生からめっちゃダメ出しくらったんだぜ? つぅか重いよ光瑠。自分でしっかり歩けっ」
「それだけ期待されてるってことだろー! あー!俺も負けねぇから!」
「勝ち負けじゃねーだろ、茶はぁ」
碧は余計に腕に体重をかけてくる光瑠を押しのけようとしたが、銀次郎が茶化しに加わろうと二人の後ろから覆い被さってきた。
「お、なんや一丁前なこと言うやないか〜」
大きな体から伸びた腕はあっという間に碧と光瑠の頭に届き、髪の毛をくしゃっとした。
頭をくしゃくしゃにされながら碧はふっと自分の手のひらを見おろした。
あの人は、今日の俺のお点前を、冷たい目で一蹴した。
夕暮れの正門前。
言いようもない気持ちが、嘆息となって伸びる影の上に落ちた。




