第四十服 ふつうの抹茶
「そいじゃ、まず入室からやな!」
「茶室の入り方は色々あるんやけど、ご正客がいっちゃん先。
正面向いて入る。
振り返って靴の向きを直し、次の客の邪魔にならんよう揃えて寄せる。
そしたら床の間の拝見や」
すると銀次郎が小さな扇子を出した。
「あ、今度これ、茶事用の扇子買うてきてな。 お茶会の時は必ず必要やねん。
床の間の拝見の時、最初の挨拶の時のお作法やから。
今度の休みにでも、ちーの店にでも行って教えてもらい。いろんな小物がある」
水屋にいる千歳に聞こえるように銀次郎が言った。
「こうして、扇子を自分の膝の前に置いて、両手の指先を畳につける。
軸物、花入、花。すでに置いてある場合は香合を見て、その日の亭主のメッセージを読み解く」
「ちなみに、俺はな、お軸になんで書いてあるか読めん事がほとんどや!! こんな達筆、わかるかい!」
「つーことで、せんせ、今日のお軸なんですか?」
「『和敬清寂』(わけいせいじゃく) 。利休が唱えた、茶の精神の集大成だよ。
賀茂御祖神社 *5 の先先代の宮司の鳥居清吾郎さんに書いて頂いた書だ」
「そろそろ、その意匠と雰囲気でわかって欲しいけど…銀次郎。まさか意味まで、忘れてないよね?」
「あーえーっと…なんでしたっけねぇ〜」
銀次郎が頭をポリポリと掻きながら恥ずかしそうに照れた。
「じゃあ、これはみんなも宿題ね」
透はため息混じりにそう言った。
「銀〜情けないなぁ〜…!」
呆れたと言った具合で水屋から聞こえてきたのは間違いなく千歳の声だった。
「あ、そういえばすっかり言い忘れとった」
千歳は水屋からひょこっと顔を出して、三人に声をかけた。
「お道具やお軸は先生が替えてくれるんやけど、お花は部員の持ち回り制にしとるんよ」
「四月は銀やったから、五月はうちになっとる。六月は雪やから、七月以降、三人で順番を話し合って毎月の当番決めてもろてええ?」
「部活やるたびに毎回花持ってくるんすか?」
光瑠が慌てて質問した。
「ほんまはそうしたいところやけど、部費の中で賄うから、毎週月曜か、持つ花なら月二回でもかまへん」
そう言うと二人を見て千歳はふふっと笑った。
「そない高い花にする必要はあらへん。なんなら、校舎ん中にある植物でもええ。その場合はちゃんと事務局に言って、施設課の職員の人に許可もらってきてな」
少々不安な表情を浮かべた二人の一年坊主に助け舟を出してくれた。
「今日うちが生けたんは花菖蒲や。昨日から暦では二十四節気の『立夏』や。初夏の花はいくつかあるけど、端午の節句やし、やっぱりこの時期はこの花を飾りたくなる。
旧校舎の裏にあるもんもらってきてん。今がほんまに見頃やで、むちゃ綺麗な群生エリアがあるから、時間を見つけて見てくるとええ」
「はーい!うち今度行ってきます!」
茉莉が声を上げた。
「あ、菖蒲湯も入っとくとええよ。邪気が払われる」
千歳は床の間に生けてある、スッと美しく伸びた葉と、床の間で一際鮮やかに菖蒲色を放つその花弁にそっと触れた。
その雰囲気はどことなく千歳の容姿と重なった。
「要は、お花を選ぶ勉強や。どんな気持ちでこの花を選ぶんか、今の季節にどんな花が咲くんか」
銀次郎が先輩風を吹かせてそう言った。
「銀。軸物も、勉強してきてね」
透から、愛情と皮肉を込めて『銀』と放たれた声を背中に受けて、銀次郎はゔぅっと言葉を詰まらせ、少し顔を赤らめた。
「花を知ることは、いま千歳や銀次郎が言ったように、暦や祝い事の勉強にもなるよ。花が持つ意味を茶会のメッセージに変えることもできる」
そう語る透の肩に、計ったかのように白い花が風に踊りながら落ちた。
「ちなみにこれは、花水木 花言葉は『華やかな恋』」
おそらく語尾にハートマークをつけたであろう。
透はニコッと笑って手に持った花水木の花を束ねた髪に差した。
(このキラキラ妖怪…。今日は王子キャラかよ)
白い花の似合う美男子の表情には、揺るぎない知識の深さが滲んでいた。
碧は、ただのキラキラ王子ではないその青年の奥にある知識や経験を前に、憧憬にも似た嫉妬のようなものを感じた気がした。
「あれ、そういや今日は菓子はないんですか?」
ここに来る目的の半分は美味しいお菓子…と顔に書かれた光瑠はキョロキョロと周りを見回した。
「菓子は、毎月最終日だけ頂くことにしてるんよ。たまに雪とか先生が差し入れてくれるけどな。差し入れてくれてもええんやで、光瑠くん。 菓子屋に行くんも、勉強になる。」
千歳は、あえて光瑠『くん』とつけたようだ。
「そや、菓子食べたいんねやったら、今度うちにきて買うてってな!お友達割引きしたる!」
雪乃は光瑠に有無を言わせず約束させた。
* * *
雪乃のお点前は繊細で可憐だった。小さな手はふわりと柔らかな羽のようで、一つ一つの所作に丁寧な想いの灯火がほう…と見て取れた気がした。千歳の優雅な動きとも違う。
点前座にいるその少女は、小さな妖精が花の蜜で何かをこしらえているような、そんなイメージと重なった。
(いや妖精って…)
頭に浮かんだ感覚にセルフツッコミを入れながら、改めて点前の手順を追った。
(こうして見ると、あの時の先生の点前と、全然違うように見えるんだよなぁ)
千歳が茶を運んできた。
「御相伴いたします」
ご正客は『お先に』と言って次客”行”の挨拶をした後に、『お点前頂戴いたします』と亭主に向けて『真』のお辞儀を行う。
次客以降は『御相伴=つまりお供いたします』と言って、『行』のお辞儀でお点前をいただくのだと、先ほど銀次郎から習った。
口に運ぶ。
…? 抹茶だ。
でも、なんだろう…ふつうだ。
というか変に苦い。
いつもみたいに、不思議な感覚にならない。
頭の中がぼんやりとした緑色だ。
「碧くん、どないした?」
碧の不思議そうな顔を見た雪乃が心配そうに聞いた。
「あ、いや、なんでもないです…」
「いや…すみません、やっぱ聞いてもいいですか? この抹茶、どこの茶葉なんですか?」
雪乃が少しハッとした表情を見せた。
「あ〜この茶葉なぁ…今年卒業してった先輩が置いていったお稽古用の茶葉やねん。
なんや仰山あるから、はよ使ってまお〜思うて。
そんな等級の低いやつやないらしいんやけど、やっぱイマイチに感じたん?」
「あぁ!なんや苦味強いなぁおもったらそういうことやんな!」
さすがに良い茶葉にいつも触れている茉莉にも違和感があったらしい。
「お、碧、茉莉!わかるんか。このびみょ〜な感じ。今年の春戦の闘茶、いけんのちゃう〜?」
銀次郎が隣の碧の頬を突っつきながら嬉しそうにした。
「え〜マジか!俺、普通に雪先輩のお点前めっちゃかっけ〜って思って、うま〜って飲んじゃった!」
光瑠が焦って空になった茶碗を覗き込んだ。
「光瑠、初めての人らは普通そんなもんや。
これから色んなん味わってちょっとずつ違いがわかるようになる」
あたふたする光瑠を千歳が優しく宥めるように言った。
「こいつらが、なんやちょい感度高めなだけや!光瑠、焦らんでぇぇ、俺も最初はそやったし、いっしょに特訓しよな!」
銀次郎のこの無邪気で逞しい振る舞いは、相変わらず見ていて心地よい。
「それじゃぁ、来週からの活動内容は決まりだね」
縁側から聞こえた声に、一同振り返った。
「来週からの部活は、闘茶の特訓」
語尾に星をつけて、うれしそうな声を放った。
「たしかに、もう大会まで三週間ちょっとしかないことやし」
「うちも賛成でぇっす!」
千歳、茉莉が揃って頷いた。
「では、お茶は僕の独断と偏見で選ぶから、みんな期待しておいてね」
透はお決まりのウィンクを飛ばした。
(なんでこのひとは、毎回ムダにキラキラしてるんだろ…)
『独断と偏見』… 透のこの言葉には明らかにイタズラっこの語調が感じられた。
「よっしゃ!俺の実力みせたるで!」
「楽しみやぁ!うちの実力もみせたります〜」
茉莉と銀次郎がテンション高めにはしゃいだ。
その横で、光瑠は少し不安そうにしていた。
「いうても、毎回闘茶やとあれやし、特訓は月曜と第二・第四の金曜にして、水曜はちゃんとお点前と作法の稽古にしよな。先生、ええですよね?」
千歳が興奮した空気を締めるように言った。
透は親指と人差し指でOKのサインを示した。
「さぁて、まだ最終下校まで少し時間あるかなぁ」
千歳が帯の内側に仕込んだスマートフォンを少しだけ抜いて、時間を確認した。
「三人とも、一回ずつお点前実践やってみいひん?」
どきっとしたのと同時に、やりたい…!その衝動を抑えられない自分があることを、もう隠すこともしなかった。
*5 下鴨神社のこと




