第三十八服 戯れ合い
「ささささ茶道部ぅーー!?!?」
五月六日 木曜日。
連休が明けた京絹学院の校舎に、一人の絶叫が部活へ行こうとする生徒たちの合間を縫って響き渡った。
八十八夜の新茶摘みの余韻がまだ残る碧は、はやく放課後にならないかとうずうずしていた。
普段、木曜は茶道部の活動日ではないが、今日は連休の振替で活動するとの連絡があったのだ。
── 早くみんなと話したい。
いそいそと教科書やノートをカバンに突っ込んで教室を出ようとしたそのとき
「たーいらっ! 」
勢いよく肩を掴まれた。
碧より少し背が高くスポーツマンらしい白い歯をキラリとさせて神谷が立っていた。
サッカー部の二年の先輩。
「神谷先輩。この間はすみません。なんかぼーっとしちゃってて」
「いや、俺のほうこそすまんかったわ。もうアタマ大丈夫か?」
「はい。もうなんともありません」
「そか、よかったわ〜。あの日、お前の幼馴染いうやつが、俺がついてるんで言うから帰ってもうて。んで、次の日とか何度も来てんけど、お前放課後いっつもおらんかったやん!ほいで、そのまま連休入ったやろ? ほんま堪忍なぁ。」
「それにしてもあの日のお前の動き、ほんまに中等部の頃から変わらず神がかってたよな〜。あのゴール決めた時も…」
神谷は漫画からそのまま飛び出してきたのではないかと思うようなコミカルな動きでペラペラと話し続けたと思うと、碧の首に太い腕をガシッと絡ませた。
「ほんじゃ!部室いこか! 今日はツーマンセルでトレーニングや」
「すみません、神谷先輩。俺、もうこれから部活なんで」
「はっ!? お前部活入ったんかいな! いつのまに! なに部や?」
「茶道部です」
神谷の動きがぴたりと止まった。
「……は?」
「茶道部です」
「ささささ…茶道部ぅーー!?!?」
神谷の声が教室を突き抜けて一年生のフロア中に響き渡った。通りすがりの生徒がいっせいに振り返る。
「はい。同じクラスのサッカー部の奴らから聞いてませんか」
「いや〜!ないない〜! てか、なんでお前が茶道部やねん! このあいだの脳天ヒットでネジ三本くらい外れてしもたんちゃうか!? 保健室もう一回行くか!!?」
慌てふためく神谷の前で碧は、すっとまっすぐな顔を向けた。
「神谷先輩」
「お、おう」
「茶って面白いですよ」
迷いなく、そう言えた気がした。
「たまに、サッカーしに遊びに行きますから」
神谷がぱちぱちと目を瞬いた。
「お前…ほんまに…」
「はい」
碧はにっと笑って軽く片手を上げた。
「ほな、また」
碧は不意に慣れない関西弁で返してみた。
くるりと体を翻して歩く碧の背中を、神谷はしばらくぽかんとしながら見送っていた。
* * *
旧校舎の第二棟、三階に上がると、茶道部がある奥の襖の前で銀次郎が腕組みをして、なんだかきまりが悪そうに佇んでいる。
「銀次郎先輩、おつかれさまです!どうかしたんですか?」
銀次郎は碧の方を向き、襖の向こう側に対して目配せをした。
襖の前にたつと、女性陣の戯れ合う声が聞こえた。
「茉莉ちゃん〜!何食べたらこんなにおっぱい大きくなるーん!!」
雪乃の声だった。
「ゆきちゃん先輩、くすぐったいですって!そんな揉んだらおっぱいとれますやん!」
「こら二人とも、男子たちがくる前にはよ着替え終わらしいな〜まったく〜!」
「ちー先輩もなんでこんな細いのにFカップあるん〜!私なんて中二の頃から全く大きくなってへんねんで〜」
「ちょい!こら、ゆき!揉むな!」
「茉莉ちゃんとこのお抹茶飲み続けたら大きくなるんかな〜」
「ゆきちゃん先輩!おっぱいなんて大きくても太って見えるだけやって。ゆきちゃん先輩くらいがちょうどええて!」
「茉莉ちゃん、それぜんぜんなぐさめになってへんてぇ〜」
…。
確かに、この領域に踏み込むことはさすがに勇気がなくてできない…。
騒ぎが落ち着くまで、しばらく銀次郎と一緒に待つしかなかった。
(銀次郎先輩、こういうとき男らしく踏み込んだりしないんだな…。意外だ…)
ほどなくして、光瑠と透が揃って来た。
透が躊躇いもなく襖を開けると、三人は今ほどの騒ぎはどこへやら、何事もなかったかのようにすっかり着替え終わっていた。
「お、先生、今日は単衣ですやん」
千歳がぱっと振り向く。
「うん。まだ時期は早いけど、もう今日は暑くてさ〜着て来ちゃった。三人も、今日の練習は浴衣でやるの?いいね〜」
「茉莉が着替えたい言うんで、着物やと時間かかるし浴衣持ってきました」
「しかし…」
千歳の目がまた呉服屋の娘モードになった。
「ええ仕立てやわぁ。袖の仕事も丁寧で、淡い夏鶯色に、しかも帯はこれ、栄順先生の紅型染めやろ…ええなぁ。」
そうポツリポツリと呟いてから、思い出したように「ところで…」と続けた。
「連休中はみんなどないしてたん?茉莉は、宇治やろ?」
「はい! お父ちゃん言うてたように、新茶のシーズンど真ん中なもんで。ひたすら摘んで刈って蒸して〜を繰り返しとりました」
「うちも!」
続けて雪乃が挙手して答えた。
「実家の白扇堂で店の手伝いしとりました。GW中は観光客わんさか来やはるさかい。和菓子の包みっぱなしでもう指紋がなくなるかと思ったわぁ〜」
「うちかて似たようなもんや。松葉屋は観光のお客さんで満席続きやって。仕込みばっかしとったわ」
と銀次郎が続く。
「うちも家の手伝いしかしとらんかったわ。薄物の仕立て注文が仰山入っとるのをひたすら捌いとったら、あっちゅうまに休みが終わっとったわ。まあ、ええもんたくさん見れて勉強になったけどなぁ」
千歳は嬉しそうな口調だった。
「薄物ってなんですか?」
季節の移ろいの何かだろうと、茶碗の夏支度が佳境を迎えた光瑠から質問が飛びでた。
着物に興味を持ってもらえたのが嬉しかったらしく、千歳の目がぱっと明るくなった。
薄物っちゅうのはな──と千歳の説明を要約すると、
着物には季節があり、
十月から五月の終わりまでが袷
六月と九月が単衣。
七月と八月の盛夏が薄物といって、軽くて透けのある着物のこと。
季節に合わせて着分ける"衣替え"という作法なのだとか。
今日先生が単衣を着て来たと言ったのは、最近の温暖化によって厳密に何月と決めなくても、気温によって着分けても良いと言う考え方が広がっていることかららしい。
「薄物と一言にいうてもな、絽、紗、上布って織り方や素材も違うて、透け感も風合いもぜんぜん変わってくる」
「もっと本格的な勉強会も、今度やれたらええね。茶会の服装のマナーも色々あるさかいな」
「で、光瑠くんはぁ?」
熱のこもった千歳に対して、これくらいにしときましょう。と言うように、雪乃が光瑠に目線を向けた。
「俺はじいちゃんの作業につきっきりでした! 夏茶碗の卸先がたくさんあるらしくって。今度、ここにも持ってきますね!」
連休中の土いじりを満喫したようだった。
みんなの視線が、最後に碧へ向いた。
「碧くんは?」
雪乃が催促するように聞いた。
「俺は、その…」
すこし口籠った。すると碧が答えるよりも先に、縁側から声がした。
「── 碧、ちゃんと宿題こなしてくれた?」
「えっ?」
その場にいる全員の声が見事に重なった。




