第三十七服 身土不二と諸行無常
晴哉が加工場から、紙包を大事そうに持って戻ってきた。
「これ、二年間じーっくりと室で熟成させとったやつを、今日の君たちだけのために合組して、たった今碾いてきたやつや! うまいぞぉ〜」
鮮やかな緑色のきめ細やかな粉末がみんなの前に現れた。
「せっかくやし、ここで一服透くんに点ててもらおやないの!濃茶で!」
「きゃーめちゃ贅沢やんそれぇ!」
再び雪乃が踊るようにして言った。
(濃茶は、そういえば飲むの初めてだ…)
「今日はええ天気やから、せっかくやし縁側に風炉を持って来るんでええ?」
そう言う晴哉に、千歳、銀次郎、雪乃が揃って軽く眉を顰め、透の顔色を伺ったのを、碧は見逃さなかった。
「もちろん、いいですよ」
透は朗らかな顔で答えた。
(先輩たちの反応…いったいどうしたんだろう…)
なんでそんな表情したんですか?と聞くに聞けず、碧は透のお点前と濃茶の体験に集中することにした。
透はいつものように、優雅に点前に入った。
しかし、何かこれまで見てきたものよりも、普通…?と表現するのが正しいかわからないが…。
確かにいつも通り美しい、惹きつける所作。
しかし、人間離れしたようなあの感覚はそこにはなかった。
(この人の妖術に慣れただけかな…)←しつこい
最初に、千歳に茶が渡される。
千歳が、念の為…というふうに、説明を付け加えた。
「濃茶は、薄茶の”一客一碗” とちがってな、みんなで同じ茶碗を回して飲むんよ」
「この作法は、客同士が心を一つにする、という考え方や」
「まあ最近は、衛生面の観点からあんまやらんほうがええいう流派もあるようやけど」
「飲み方はな、
──正面から直接飲まないように、茶碗を時計回りに少しずつ二回に分けて回して正面をズラす。
──薄茶と同じ挨拶をしたら、飲む。
──飲み終わったら、指先と懐紙を使って茶碗の飲み口を拭き取る。
──茶碗を反時計回りに回して、正面を元の位置に戻す。
──次の客に回す…。 や」
碧は回し飲みに変わっただけで、余計に緊張しているような気がした。
縁側に座っている順で、自然と碧の元に回って来るのは最後になった。
茶碗の中にあった液体は、薄茶の何倍も濃い緑色で、茶碗を回すと、ねっとりとした動きを見せた。
(すごい…濃茶はこんなにドロっとしているんだ…!)
うまく飲めるのだろうかとハラハラしながら口元に運ぶ。
(!)
確かに口当たりはどろっとしている。なのに、喉を通る液体は滑らかな旋律と共に脳内へ何かを伝えている。
茶の複雑な味わいが、何かによって、それが持つ魅力を昇華させている。
まるで…そう、協奏曲。
茶というソリストの演奏を、オーケストラのようなあらゆる要素が調和しながら押し上げている。
「碧、どうかしたのか?」
光瑠が不思議そうに、固まって考え込む碧の顔をツンと突いた。
碧は晴哉の顔を見上げて言った。
「これって…濃茶って、こんな感じなんですか? なんていうか…濃いだけじゃなくて。
茶だけじゃない、何か違う旨みが、全体から湧き上がってくる感じがするんです…オーケストラを聴いているみたいに」
その場にいた全員が碧の言葉に目をパチクリとさせた。
「あ…!すみません…変なこと言って…」
碧は急に恥ずかしくなった。
でもそれ以外の言葉で、自分が感じたことの表現の仕方がわからなかった。
晴哉が目を見張って言った。
「オーケストラ…か。いい表現だな」
「あおくん、やったな。君はおそらく、合組のことをそう感じたんやろね…あとは
茶のうまさを決めるんは、他にもある」
そう言って、晴哉は水指を持ち上げた。
「これはな、宇治の湧き水や」
「宇治の湧き水はな、琵琶湖を源流とした宇治川の豊富な水源から湧いとるもんで、足利将軍がここの水がうまいから良い茶が育ついうて、わざわざ茶園を定めたくらいなんや」
晴哉は水指を碧に渡し、茶畑を指差しながら続けた。
「碧くん。身土不二ちゅう言葉を知っとるか?」
「身と土、二つにあらず。つまり、その土地で育ったもんは全部繋がっとる。分つことはできんちゅう意味や」
「うちの茶も、宇治の湧き水で育っとる。そして、今日の茶は、この水で点てとる」
「あ…」
「君が感じたんは、きっと、この身土不二が作ったハーモニーや」
しん…となった。
「はぁもにぃ…て!おとうちゃん、ぜんっぜん似合わん〜!!
あおっちのボキャブラリーに無理やり合わせんでええて!」
茉莉の大爆笑によって、一種の緊張のような静寂が瓦解した。
「あ、そやそや、ききたかってん!
おばあちゃん、なんや”たいらさん”て、よう言うてはったよな?
あおっち、”たいら”いう苗字やねん。親戚かなんか知り合いなん?」
碧の言葉を後からじっくり聞いていたキミ子が、目を見開いた。
「あんた、たいらはんの血筋なん?! 」
「え?たいらの血筋と言われましても」
碧はなんのことだかさっぱり見当もつかない。
「やから、たいら家や!平家さんの!」
「へ、へいけ…。 すみません、俺の苗字、一文字で平じゃなくて、多い・比べる・良い、で多比良なんですよ…」
「めっちゃうける!!”たいら違い”やった〜!」
自身の早合点に爆笑を止められない茉莉はその場でしばらく笑い転げていた。
(お箸がころがっても面白い年頃ってやつなのか…)
自分が悪いわけではないのに、釣られて笑っているみんなを見て、若干微妙な気分だった。
「やけどな、碧くんはさておき、平家は、茶の湯の精神に、深く関わっとるんよ」
キミ子は続けた。
(さて置かれた…)
「平家物語。あれは平家の栄枯盛衰を書き記した書やさかい。
その中で書かれてる盛者必衰・諸行無常という言葉は、利休はんが大成させた侘びの精神の根幹となる思想や。
万物は留まることはない、朽ちていくその移り変わりの中に、ほんまの美しさがある。
やから、一期一会いう言葉を大切にしとる」
それを聞いて、碧の頭の中に平家物語の冒頭が響いた。
気づいた時には独りでにその言葉が声となっていた。
「──祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
──沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
──驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし…」
「うんうん、それや」
キミ子が、ニコッとして言った。
「すごいなぁ、碧くん! ほんまに古文得意なんやな! 茶もオーケストラに例えるなんて、教養高いわぁ〜」
雪乃がしみじみと感心して言った。
「いや、そんな…こと、ないんですけど」
(大抵家にいない親父との父子家庭だしな)
確かに、親父に連れられてコンサートやらいろんなものを見せてもらったことはあるけれど、ちゃんと楽器を習ったこともないしな…。
自分でもなぜあんな感覚になるのか…。
そのあと、二時間ほど再度茶摘みの手伝いをして、お開きとなった。
* * *
帰りのJRの電車内。
疲れと満足とで、皆それぞれの船を漕ぎはじめた。
銀次郎は腕組みのまま天を仰いで眠り、千歳は窓に頬をつけて目を閉じている。
雪乃と光瑠はスマートフォンでなにかの動画を見ながらずっと笑っていた。光瑠は女の子の調子に合わせるのが昔から得意だった。
透は本を一冊取り出して読んでいる。
傾き始めた夕日が、車内に長い影を落とし始めた。電車が進む毎に影の角度が変わり、車窓から見える景色も、あっという間に田畑から市内のビル群に変わっていった。
"今日のために合組した"と言った茶葉を手に持って見つめた。
(あんだけたくさん摘んでも、たった三百グラム。そして長い熟成期間を経てやっと抹茶として出せるようになる…か)
(あんなに美味しい茶を飲んだら、この茶葉、宇治の水以外で点てられねぇじゃん…)
一杯のお茶の向こうに存在している、長い時間と多くの人の手。
そしてすべては繋がっている。歴史も、思想も、土も、水も…。
全ては無常、一期一会、身土不二…。
今日聞いた言葉を頭の中でぐるぐると巡らせながら、碧はふと、千歳がたまに出す”流派”という言葉を思い出した。
そういや、ちゃんと調べてなかったな…と思いながらスマートフォンで検索した。
(流派って百以上あるのか…!)
(有名なのは…利休の三千家…)
(…?!)
碧は自分の手元に映った文字に、これから見るであろう様々なものを想像し、
また新たな期待と、落ち着かない気持ちを同時に抱えた。




