第三十五服 一芯二葉
宇治駅から歩くこと十分。
宇治川からほど近い傾斜地に、奥乃瀬茶園はつつましく佇んでいた。
「うわぁ…」
広大とまではいえないが、明らかに人の手によって大切に守られてきた、その風情の漂う場所に、皆そろって声を漏らした。
畝が連なったその景色は、音楽の教科書に載っていたままだった。
こんなふうにじっくり見るのは初めてのはずなのに、碧には既視感のようなものがあった。
子供の頃に茶畑なんて親父ときたことなんてなかったはずだけれど...。
既視感もぼやけた記憶も特に気にすることはないと思い、入り口まで進むと古い石柱が立っていた。
かなり昔に彫られたものだろうが、綺麗に手入れされ、奥乃瀬茶園という文字がくっきりと浮いて見えた。
その隣には、『日本遺産構成文化財認定』と書かれた標札が掲げられていた。
「ここが、うち奥乃瀬茶園でっす! 日本遺産に認定されておりまして〜、こちらにある石柱は、足利将軍によって設置されたとか、されんかったとか!」
新人ツアーガイドのように茉莉は楽しそうに続けた。
「そしてぇ、後ろに目を向けるとその眼下には…!」
「はい!じゃじゃーん! 世界遺産『平等院』を見下ろすことができるのです!」
「おお!マジか! 平等院とか小学校のときのバス遠足でしか来たことなかったから、位置関係とか全然アタマん中なかったわ!」
銀次郎はそのバス遠足で来た小学生のようにはしゃいでいた。
碧自身も、京都中に現存する歴史的な建築物について、これまで自ら足を伸ばしてこなかったことを少々反省し、これからはいろんなところに足を運ぼうと改めて誓った。
それにしても…。
六百年。
この茶園が持つ歴史と、ピンク頭のツアーガイドとのギャップが相変わらずちょっとおかしかった。
「こんにちは。どうも、おこしやす」
長身の男性がゆっくりと歩いてきた。
茉莉が小走りに駆け寄ってぐるりと一同に紹介した。
「うちのお父ちゃん。福瀬 晴哉です」
「福瀬晴哉、と申します。奥乃瀬茶園 十一代目を継いどります。今日は茉莉のためにお越しいただいて」
ゆっくりと丁寧に頭を下げていった。
澄んだ目元、職人の顔だった。
「あらまぁ。若い人がいっぱいで、にぎやかやでええねぇ」
その後から白い割烹着に、首に手ぬぐいをかけた小柄なお婆さんが現れた。
もう九十歳を超えているだろうか…。その燻んだ肌と深く刻まれた皺が、長い間この茶畑と過ごしてきたのが見て取れる。
「うちのキミ子おばあちゃん! 茶のことならお父ちゃんよりよう知ってるいう人」
「茉莉、ええかげんなことお言いでないよ」
ふふと笑いながら、お婆さんはなにか査定でもするようにひとりひとりを足元から顔までゆっくりと眺めていった。
透の前でその目を止めると、
「こんにちは透ちゃん、おおきくなったんやねぇ」
「ええキミ子さん。いつもご贔屓にしていただいて…僕も最近は茶師会から足が遠のいてもうて…久しぶりに元気なお顔見られて、嬉しいです」
透ちゃんと呼ばれて…。それに、また京言葉。
この人は、あの太田さんと言い、歴史ある茶園との縁といい…
(さすが妖怪…)
(じゃなくて…そろそろ”藤露透”が 何者なのか、今度先輩にちゃんと質問してみないと)
「いんやぁ、透ちゃんのその麗しの顔を見られただけで、あと百年生きられそうやわ〜」
「ばぁちゃんはほんまにイケメン好きやんねぇ。まあうちのタイプちゃうけど」
「茉莉!ひとこと余計や。そらイケメンの俺を毎日みとったら、透くんの顔も霞むやろけどなぁ〜」
剽軽に笑う父親に
「はぁ〜きっしょぉ〜。どの口がゆうとるん〜」
と、すかさず茉莉がツッコむ。
このトリオ漫才のようなやりとりに、茉莉のノリは血筋なんだな…とみんなが確信したところで
「じゃ、せっかく来てもろたし、早速、茶葉の手摘みしてもらおか!」
と晴哉が切り出した。
「茶摘みの基本はな、”一芯二葉”(いっしんによう)言うてな」
晴哉がよく通る静かな声で言った。
「いっしんにようっ?」
雪乃が聞きなれない言葉に、たまらず聞き返す。
「そや、いちばん先っぽにまだクルッと巻いたままの若い芽があるやろ。これが芯。その下に開いたばかりの葉が二枚。芯とその葉だけ摘む。これがいちばんええお茶になる部分や」
試しに近場の葉を取って見せた。
「これや。下のごつい葉までいかんようにな。まったく茶の味が変わってまう」
「大きな茶畑は、今はほとんどが大型の機械で上の方を刈り取るんよ。
そうするとな、雑味がどんどん増えていく。
うちらも一部はちいさな機械使うてるけど、やっぱりいい茶にするんは、こうやって一つ一つ、手摘みてでやるんが一番や」
この仕事を、誇りに思っているんだな…。
それが伝わる眼差しだった。
「やから、この新茶のシーズンは、人手が百人あっても足りん。みんないつでもきてもらってもええからな!」
* * *
今日の手摘みをするエリアだといって連れてこられたのは、茶の木の畝の上に、竹で作られた藤棚のような骨組みに藁が被せられていた。
遠目にはそこに茶畑があるとは気づかないほどひっそりとしており、地形的にも、少し太陽の影になりそうな場所にあった
「この棚はな、本ず覆下いうて、葦簀と稲藁でできとる。日陰をわざと作っとるんや。茉莉、なんでなんか、みんなに教えてはって」
「はい!抹茶の原料になる碾茶や玉露は、新芽が出る前に陽の光を遮るんです! 大体一ヶ月前くらいですね! 理由は…」
茉莉が得意げに言おうとすると
「あ、俺知ってんで!日光を遮ると、カテキンの分泌を抑えて渋み成分が少なくなるんと、テアニンいう旨みや甘みの成分が凝縮されて、かつめちゃ鮮やかな緑色になる!」
「さすがやな〜ぎんちゃん先輩!いよ!料亭の息子ぉ〜!」
茉莉がパチパチと拍手した。
「おう! ”料理は科学”やからな!」
「その通りや。でも、科学がなかった室町時代から、それらを確立したご先祖様、すごいと思わん?」
晴哉の言葉に再び熱がこもった。
「美味しいもんを、より美味しく。 もうこれは日本人の徹底した美の感性と、あくなき追求の魂や思うんよ」
* * *
各人に茶入れ用の笊が渡され、それぞれの畝へ散らばっていく。
「これ楽しすぎひん? 止まら〜ん!」
と言いながら、雪乃はおしゃべりで手が止まっている。
銀次郎は
「料理人の手、見せたるわ〜」
と妙に張り切った様子だったが、案外ひとつひとつ丁寧にしっかり見て摘んでいた。
千歳は無言だった。動きの少ない手で確実に一芯二葉だけを正確にぱさりと笊へ落としていく。
みんな性格でるなぁ、と眺めていると
光瑠が初めてとは思えないほど慣れた手つきに見えた。
「お、光瑠くんいうたか? 慣れた手つきやな」
晴哉が声をかける。
「うちの親戚の家がでっかい畑持ってて、休みにたまに手伝いにいくんです。うちは京焼の窯元なんですけど、焼き物の土だけじゃなくて、いろんな土見とけって言われて」
「それはええ勉強やったなぁ。うちにも毎日手伝いに来てくれてもええんやで」
「あ、それは流石に...」
二人のやりとりの横で、碧は戸惑っていた。
なんだかあまり手が思うように動かない。
芯と葉の区別がつくのに、摘み取る作業が頭の中で、そのイメージと結びつかないのだ。
こんな柔らかいものを手折る作業なんてしたことない。
(あ、やべ、またちぎれた…)
「あおっち! 力入りすぎやでぇ〜!」
茉莉がぱっと寄ってきた。
(おれ、いつのまにあおっちになったんだ?)
茉莉は碧の目の前で、さらっと一気に芯と二葉だけを摘み取って見せた。
ほとんど力が入っていなかった。 人差し指と中指、親指を使い、葉と芯だけがほろりと外された。
「こうやで。引っ張らんとな、ヒョイっと外すんよ」
その所作を碧は目で追った。
葉のあいだ、指のあいだ空気の流れまで、見えた気がした。
もう一度、手を伸ばす。
すんっ。
じぶんの指の言いなりになるように、一芯と二葉は、あっけなく収まって外れた。
「お、ええやん〜! パーフェクト〜!」
その瞬間ふいにキミ子おばあちゃんが碧の後ろに来てぽんと背中を叩いた。
「あおくん、いうたな」
「は、はい」
「目の使い方がおもしろいなぁ」
「ふつう芯と葉だけ見て摘むんやけどな。あんたその先のなにか別のもんまで見てる気ぃがするわぁ」
よく、言っている意味がわからなかった。
* * *
しばらく一心不乱に手を動かしているうちに碧はふと顔を上げた。
区画は小さいとはいえ、まだ畝の一割も摘み終わっていない。
「……福瀬さん、まさかこれぜんぶ手で摘むの?」
隣で軽快に手を動かしていた茉莉がぱっとこちらを向いて笑った。
「あたりまえやん! さっきお父ちゃんが言った通り、特にここは、ぜったいに機械なんて使わへんよ」
「ロイヤルファミリーに献上せなあかんからなぁ」
え…まじ!? 俺が摘んでいるこの茶葉、天皇家への献上品になっちゃうの?
それを聞いて、碧の指先は一瞬ぴたりと止まった。
茉莉がいたずらっぽく笑って碧の笊を覗き込む。
「やからな、丁寧に摘んでな、あおっち!というか、『茉莉』でええてばぁ!」
「あ、ああ」
碧はこくりとひとつ唾を呑みこんで、手のなかの一芯二葉と奥乃瀬と言う名前に、再び畏怖を感じた気がした。




