第三十二服 帛紗
千歳、銀次郎、雪乃が交代に茶を点て、全員が茉莉の茶を飲み終えた。
そうこうしているうちに、春の日差しはあっという間に西に傾き、和室を夕焼け色に染め初めていた。
「ほんなら実践やってみよか、と言いたいところやったけど、最初からお点前を通しでやるんは難儀やろうし、もうこんな時間になってしまったし。とりあえず、 帛紗の扱いかただけでも、ちょこっとやろか」
と言って、千歳は自分の帛紗を腰元から外して見せた。柔らかな緋色。
「いろんな考え方あるけど、うちは、このちっちゃい布が自分の手ぇの一部や思とる。
すべての所作には、客のことを想っての意味がある。 帛紗は、その所作で、その時の茶人の心の状態が感じ取れたり、お点前の在り方まで左右する存在や。やから、帛紗は茶人の本質を表す、一番大切な道具やと…」
千歳の目は、強く静かな熱を帯びていた。そこから千歳の指先は緋の布の角をふっと持ち上げた。
「あとな、帛紗の扱いも流派によって違わはるんやけど、この茶道部は一応フジ先生が顧問やし、その流派でやるさかい」
「一応って〜ひどいなぁ千歳は」
いつの間にか縁側に出ていた透から声が飛んできたが、千歳はスルーした。
「ちなみに女性はこの緋色で、男性は紫色を使う。 ほな、よう見といてな」
千歳の背筋がすっと伸び、視線が一段静かになった。
「まず帯に着けた帛紗を、左手で下から三分の二ほど折り上げる。ほんで、それを半分に折り下げて帯からそっと抜き取る」
緋色の絹が、千歳の指のあいだを絹糸のように滑った。
「次に、右手で上の端を持って、左手はいっぺん離す。帛紗をすーっと垂らして、左手を右手の近くに持ち直して、滑らせて、左端を取る。帛紗の真ん中が、ちょうど左膝の外れに来るように、水平にかまえる」
「…ほんで、ここがいっとう大事なとこやで」
千歳の目が、ふっと一段深くなった。
「 帛紗をゆるめて、軽く引っ張る」
ぱんっ、と乾いた音が和室にひとつ落ちる。
「これは『ちり打ち』いうて、茶人の心を整える音や」
千歳が再び帛紗を構え直す。
「ほんで、右手を上にして、左膝のはずれ近くに垂らして持つ…そこから…」
碧は息をつめてその指先を見ていた。そこから千歳の言葉がほとんど入ってこなくなった。あの人の、あの動きと目の前の指とを重ねていた。
『すべての所作には、客のことを想っての意味がある』 その言葉が、目の前の指先の動きと共に綺麗なメロディのように心地よく碧の耳元をかすめた。
「…最後に、 こうして右手に持つ。この状態にして棗と茶杓を清めるんや」
ぱさりと絹が落ち着く音がした。
ふと我に返ると、緋色の絹は千歳の右の手の中に小さくなって収まっていた。
「お道具清めるんは、とりあえず帛紗の捌きが一通りできるようになってからやな。ほな、ちょうど三人やし、一対一で帛紗捌き練習しよ」
千歳はそう言うと、三人それぞれの手のひらの上に帛紗をひとつずつ乗せた。
絹の感触はあっという間に碧の手の中に溶け込んでいった。
碧には銀次郎がついた。
「じゃあ碧、まずは…」
銀次郎が手解きしようとする前に、碧の頭の中ではすでに風にゆらめく木漏れ日のような帛紗の感触が、形を成して流れていた。
それを追うように、帛紗は碧の手のなかで形を結んだ。
銀次郎はギョッとした。
「碧…お前…」
左手でこうして〜…と言葉に出しながら雪乃・千歳の手解きで手順を追っていた光瑠と茉莉も、ふと顔を上げて碧を見た。
「え? 俺、やり方間違ってました…?」
碧は、自分が何か変なことをしたのかと焦ってぽりぽりと頬を掻いた。
「いや…碧、一応聞くけど、コレやんのはじめてやんな?」
「はい…!すみません。ちり打ちは先輩みたいに綺麗に音出すの、むずいっすね」
「いや、そういうことやなくて…」
碧は気づいていなかった。どんなに覚えがよくても、一度見ただけで帛紗捌きを当たり前のように滑らかにできる人が、異色であることを。
雪乃も千歳も言葉を詰まらせた。透は遠くからその様子を見守っていた。
その時、下校時間を知らせるチャイムが校舎の中に響いた。
「じゃ、今日は終わりにしよか。三人とも、帛紗持って帰ってええから家で練習してきてな」
鐘の音で戸惑いから我に返ったように、千歳がそう言った
「あっせや! みなさん!」
微妙な空気の余韻が続く隙間に、茉莉の声がぱちんと両手を合わせた音と一緒に飛び込んできた。
「来週の五月二日、八十八夜の日、よかったらうちの実家に新茶を摘みに来まへんか?」
「えっ行きたい行きたい!」
雪乃がいの一番に手を上げ、銀次郎も賛成!とそれに続いた。
「それは勉強になるええ機会やね。 先生、部活動として行ってもええですか?」
千歳が念の為、目の前にいる顧問に確認した。
「顧問として、僕も賛成ですっ。 新茶楽しみだなぁ〜」
「ということで茉莉、お家におねがいしてもろてもええ?」
「やったーもちろんです!お父ちゃんにメッセしときまーす」
(親父さんと、仲がいいんだな…)
碧はふとそう思った。 光瑠の方を見ると少し羨ましそうにしていた気がした。気のせいかもしれない。




