第三十一服 基本の”き”
「ほんじゃ、雪んちのお菓子を美味しくいただいたところで、あらためて、基本の "き"から行こか」
先ほどの大騒ぎから若干苛立ちを引きずっていた千歳は、いつもの凛とした姿にもどったようだった。
「茉莉ちゃんは基本はもうわかっとると思うけど、まぁ二人に付き合ってあげてな。」
そう言われて茉莉は両手を大きく突き出した。
「先輩!実はうち、茶葉にはそれなりに詳しいんですが、茶事のことはあんまり知らないんです!なのでうちも基本からよろしくですっ!」
碧には何度見ても茉莉が原宿あたりにいるギャルにしか見えなかったが、生まれた時から茶の世界を歩んでいたと思っていたその少女が、茶事においては初心者だと言うのを聞いて、自己紹介の際に感じた引け目の感情が多少引いた気がした。
「あと、”ちゃん”なんて付けんで良いさかいに、茉莉って呼んでください!みなさんもそう呼んでな〜!」
茉莉は人差し指を自分の頬にくっつけ笑って言った。
千歳はニコッと笑い、オーケーと言って説明を続けた。
「まずは、茶道具を運ぶところからやね」
そういって、千歳は和室の裏側へ三人を案内した。
「この和室の裏にある物置は『水屋』といってな、お茶道具やお茶碗を洗ったり保管しておくところ。茶室にはなくてはならない、いわゆる台所の役割を果たす場所や。
茶会が始まる前に、この水屋で準備をしてから、お客さんを迎えて、お道具を運び出す。」
「水屋には季節に合わせてフジ先生が色々お道具を入れ替えてくれとる。といっても、あの先生はなぁんも説明してくれへん上に、急に替わっとることもあるから、ちょいちょい先生に確認してな」
ちらっと睨むように千歳が透の方を見やると、透は遠回しに嫌味を言われていることをわかっているようで、あえて貴族さながらの『お手振り』をして返してみせた。
「じゃあ、銀、雪。 お点前を三人に見せるさかい、二人でお道具選んで、運んでくれる?」
「お道具を準備したり、亭主を手伝う人のことは『半東』と呼ぶんよ。お運びは亭主がやる場合もあるけどな」
そう言いながら、銀次郎と雪乃が運び入れていく道具等を順に一つずつ説明した。
「まず最初運ぶんは、『水指』。 釜に足すための水が入っとる」
「ちなみにな、なんで客が来る前から準備しておかんのって不思議やろ?答えは、これも全部、”一期一会”の心や」
「常に据えてあるものを使うんじゃなく、一つずつ、客の前で運び入れることで、今日のこの日のためだけに用意したもんや。と言うんを、言葉に出さずに示しとるんよ」
「高級な寿司屋だけやなく、赤提灯の居酒屋も、道端のおでん屋も、ぜーんぶ客の前で仕立ててるやろ。隠れて裏でなんもしとりゃせん。目の前で全部見せます。これが日本人が美徳としとる、おもてなしの心や」
水指を畳の上に置きながら、銀次郎が付け加えた。
「全部見せる、裏表のないやりとりが日本のおもてなしなんて、めちゃかっこいいっすね!」
光瑠がそう言ったことに、碧も心からそれに共感したのと同時に、先週の茶会で太田さんが見せた一連の所作と言葉を思い出した。
(あれは、全部、俺らを思ってのことだったんだ…)
千歳は嬉しそうに一つ頷いて、雪乃が手に持った道具を指差しながら続けた。
「つぎに、お茶碗を清める白い麻の布、茶巾と、茶を点てる道具、茶筅 。この二つを茶碗の中に仕込んで、左手で持つ。 茶筅は穂先の数で名前がちがうんやけど、それはまた今度な。」
「右手には棗、抹茶を入れる入れもんや。棗っちゅう実の形に似てるさかい、こう呼ばれてんねんで。 棗は漆器やけど、濃茶の場合は陶器製の茶入になる。
それと、茶杓。棗から抹茶を掬う竹の匙や。 茶杓は棗の蓋の上に伏せて運ぶんよ。流派によっては茶碗に伏せて運ぶ場合もある」
「茶杓は茶人にとっての命みたいなもんや。料理人にとっての包丁と同じや。茶人が自分で削って銘をつけることもあって、一本一本に物語がある」
「で、最後に、建水、蓋置、柄杓や」
銀次郎がそう言いながら運んできた。
「建水は、洗うために使うた湯や水を捨てるための入れもん。蓋置は、名前の通り、柄杓で湯を組む時に、釜の蓋を置いとくためのもん」
銀次郎はそうやってそれらを風炉の位置から自分の体を挟んで左側に据えた。
「これぜんぶお点前のために必要な道具、九つや。ええ? 数は多いように感じるかもしれんけど、一つひとつにちゃんと意味と居場所があるねん。さっき言ったように、季節によってすこしずつ違う。そのうえ、点前座に入ったら、位置を置き直すもんもあるから。そのうち覚えてってな。」
三人は必死に並んだ道具に視線を注ぎ、与えられた言葉とすり合わせた。
「じゃ、せっかく茉莉の持ってきてくれた新茶もあることやし、さっそくお点前の実践やろか? まずは見といてな。あるから」
千歳はゆっくりと立ち上がると、風炉の手前に向かった。千歳の歩みは、襖から茶席の畳のうえまで、まるで定規で測ったように一定だった。
「あ、そやそや。茶人が大切にせなあかんお道具がもう一つあったわ」
そう言うと、綺麗な絹の布を取り出した。
「これ、帛紗、や 。 これが、亭主/お点前する人/半東が絶対持っとかなあかん、大事なもんや。 お道具を、客の前で清めるための道具や」
「今日は着物に着替えてへんから制服の腰んとこに据えるけど、基本は帯の左側に挟んどくもんやからな。」
そういって、千歳は説明をしながら、お点前を続けた。
──まず帛紗を捌いて棗と茶杓を清める。
──それから茶筅通しっちゅうて、茶筅を湯ですすいで穂先の調子を確かめる。
──茶巾で茶碗を拭く。茶杓で棗から抹茶を適量入れる。
──釜から湯を汲んで茶碗に注ぎ、茶筅で点てる。
──お客さんに差し出して、飲んでもろたら、また茶碗を清めて、道具を片付ける。
「流派によって色々ちゃうところもあるけど、これが基本的な一服の流れや」
(すごい…。説明しながらなのに、全然流れが途切れない。 フジ先生のよりも、もっと柔らかくて、まるで水の中を悠々と泳いでいるようだ…)
茶筅のしゅるしゅるという音が、しばらくの間碧の耳に木魂していた。
「じゃ、碧。新茶の味、いっちゃんはじめに、どうや?」
千歳がそう言ったのに驚いて、慌てて答えた。
「え、悪いっすよ、先輩方より先に...!」
「ええよ。やたら飲みたそうな顔しとるもん」
銀次郎が笑ってそう言い、すかさず碧の元に茶碗を差し出した。
「は、はい…。ではお先に…お点前頂戴します」
今さっき習ったばかりの真の礼で頭を下げた。
やわらかな苦みを纏った、抜けるような甘い香りが立ちのぼる。ひと口含む。
── すると、また…来た。前回飲んだときと同じように目の前に映る世界の色が、輪郭が、ぐっと厚く濃くなっていく。
ただ、前回のそれとは少し違う。そう、今日のはなんだか熱くて赤い。茶の温度の熱じゃない。何かから溢れ出たエネルギーが熱量を持って、真っ赤な渦を巻いて、強く高く立ち上っていく。 そして、深く低い音ともに、碧の喉を通り抜けていった。
「…熱っ…!」
思わず声がもれた。
「え、碧。熱い!? 」
銀次郎がその声を拾って聞き返した。
「えっ?」
「いや、なんや今熱い言わんかった? 」
「いや、全然…温度は高くないです。ただ、なぜか熱く感じて…」
「えーなんやそれ! おもろいな!」
”なんやそれ”…俺が一番…知りたい。なんでいつも、茶を飲む時は不思議な感覚になるんだろうか。
そう思ってふとあの人の方を見ると、いつもの顔で碧を見つめているのに気づき、思わず目を逸らしてしまった。




