第三十服 藤露透という人(2) (キャラクターデザインイラストあり)
「あ、そやそや!うちも忘れるとこやった!」
そういって雪乃が和室の裏に急か急かと入っていき、戻ってくると
「じゃ〜ん!」
と言って手に持っていた二つの箱をあけた。
中には二種類の菓子が入っていた。
「この時期の風物詩!白扇堂の柏餅と若鮎で〜す! 朝早めに登校して裏の冷蔵庫にいれておいたんです。みんなで食べましょ!」
「うは〜!うまそうっすね」
目に星を浮かべた光瑠が碧を押し退けて雪乃の手元を覗き込んだ。
「ほんまは上生 もってきたかったんやけど、登校前は準備できひんいわれてしもて。でも、季節の和菓子もうち店のはほんまうまいんやでぇ」
「いつもありがとう雪。それじゃ、これ主菓子でいただいてから、お点前のお稽古しよ…」
千歳が言い終わるその前に、雪乃の首元の後ろから手がヌルッと現れ、菓子を一つ取りあっという間に口に放り込んだ。
「ゆきちゃんとこの若鮎は相変わらず美味しいねぇ〜。柏餅も大好きっ」
満足そうな笑みを浮かべてそう言ったのは、いったいいつこの部屋に入ってきたのか、藤露透だった。
「ちょ、先生...! 行儀悪いからやめてください!」
即座に千歳の声が飛んで、柏餅にも手を伸ばそうとする透をペシっと叩いた。
「ごめんごめ〜ん。あんまり美味しそうだったからつい」
まるで反省していないであろうその目は、隙あらば…と柏餅を狙っているように見えた。
碧は目を見開いた。
(え? あれ…藤露先生…??)
土色と淡い紫の花弁が開く瞳で、美麗を称えた目元。中性的な微笑み。確かに顔も姿も全く同じ人なのだが、今まで見てきたその人と、目の前で菓子をつまんで叱られている人の姿が頭のなかでうまく結びつかない。
その顔を見て雪乃がくすくすと笑った。
「ふふ、碧くん固まっとるやん。そのうち慣れるで。フジ先生、オンのときとオフのときとで、ぜーんぜん人がちゃうから」
「そ、これに慣れんとうちでは生きていけへんで」
銀次郎が笑いながら、ポンッと碧の肩を叩く。
「フジ…先生って、普段こんな感じなんすか…?」
碧の素朴な問いは、いつの間にか柏餅の葉を剥いて口に運んだ透によって証明された。 食べ終わった指をペロッと舐めて、碧の方に流し目を向けたその顔は、この敷地内の茶室で見せた、あの妖艶な姿そのものだった。
(くそ〜美形妖怪め…ぜったい俺のことおちょくってる…!)
全員が透を見ながら呆れ顔で肩を落として笑っていた。
光瑠はその光景にすでに慣れた様子で、茉莉は突然の出来事にきょとんとしていた。
「てゆうか、いつ来はったんですか。今日はおいでにならない言うてはりましたよね? 顔出しはるなら一声かけてくださいよ。」
「うん。用事が早めに終わったからね。みんなの顔見に来たよ」
千歳のクレームを受け流すように、透はウィンクを飛ばす。
深々とため息をついた千歳は、気を取り直して、今日が初めてだという茉莉に透のことを茶道部の特別顧問だと紹介した。
「あ!噂のイケメン先生やんな! お父ちゃんから聞いとります!全然うちのタイプちゃうけど、よろしゅうおねがいします!」
「うん、いつもご贔屓にしてくれてありがとうね。」
透がそう言うと、
「フジ先生、全然タイプちゃうねんて〜それめちゃ笑えるやん!ええね〜茉莉ちゃん!」
雪乃が爆笑しながら茉莉の肩をバシバシと叩いた。
「先生、そんなこと言われたことないやろ! 痩せ我慢せんでええねんで〜!茉莉ちゃんこの美形にもっと言ってやりやぁ〜」
と揶揄うように銀次郎も透に絡み始め、和室は一層騒がしくなってきた。
(この人って、ここではこういうイジられキャラなの?!)
碧はますます透の本性をつかめなくなってきた。
「あぁ、もう!全然お稽古進まへん!」
と、少し苛立ちを見せた千歳が、その場の空気に一喝を浴びせた。
それと同時に、少し顔を赤め、冷静を取り戻すようにコホンッと咳払いをひとつする。
雪乃と銀次郎は「やべっ」という顔をして姿勢を正した。
透は何事もなかったかのようにニコニコとしている。
「ふぅ…。とりあえず菓子の食べ方からはじめよか…」
と言って、大きめの蓋付きの重箱のような入れ物と、和紙のような素材の小さな紙切れ、そしていくつかの細い木片を持ってきた。それは一度有隣館で体験したものだったので、碧はすこし安堵した。
「懐紙と黒文字の楊枝は、普段はこうして着物の懐に入れて、茶会時は持参するのが作法やね」
「菓子入れが回ってきたら、懐紙をこうして膝のまえに置いて菓子を一つ手でとって、手をついて、亭主に向かってお辞儀をして『頂戴いたします』と言う」
「ほんで、次の人に向けて『お先に』言うてから、懐紙を持ち上げる。黒文字で十字を切るようにして一口大にしてから、初めて食べられる。食べ終わったら、菓子の欠片がついた部分を隠すように、楊枝と一緒に懐紙を畳んで懐に仕舞う。…さ、やってみよか」
「やった!やっと食べられる!」
と呑気に光瑠が言った。
それぞれが上座から下座に並んで座り、菓子が回ってくる。
(先輩たち、綺麗なお辞儀だな…。)
すると銀次郎が、はたと思い出したように言った。
「そういや、お辞儀は茶道においては三種類あんねん」
銀次郎が手のひらで畳をぽんと叩いた。
「いっちゃん丁寧なんが、真の礼。背筋ピシッと伸ばしたまま、上体を深〜く、45度以上倒すんや。両手は膝の前で指先揃えて、こう、掌をぜんぶ畳につける」
銀次郎が実演してみせる。彼の凛々しい体格が作る所作はすっと一直線のように美しかった。
「これは、主客のご挨拶やら、床の間の拝見やら、お点前の前後やら、ここぞっちゅう格式高い場面で使うやつやから、ハズしたらあかんで」
ぱっと上体を起こして、続けた。
「で、ふだんいちばん使うんが、行の礼。上体は30度くらい倒して、両手は指の第二関節までを畳につける感じやな。客同士の挨拶とか、半東が客に接するときとか、ここの稽古でも基本これや」
銀次郎は、再び実演して見せた。確かに先ほどの真の礼よりもやや軽い印象だった。
「ほんで、もういっこ。これは草の礼っちゅうて、会釈に近いもんや。上体は15度くらい、指先だけ畳にちょん、と置く程度な。 お点前で道具を運ぶときやら、主菓子をいただく前後の亭主とのやり取りやら、流れを止めとうないとこで使うやつ」
「真、行、草」
銀次郎が指を三本立てた。
「茶のいろんなとこに出てくる三段階や。覚えとき」
(お辞儀一つとっても、覚えることがたくさんあるなぁ…)
碧はお辞儀の角度を体で確かめながら、何百年もの歴史を紡いできた茶の湯という世界を辿る果てしなさに、先ほどの感じた熱と比例して、少々怖気づくような心持ちも増しているように感じていた。




