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第二十五服 幼馴染

 目を開けると白い天井が見えた。消毒液のちょっと甘い匂いがする。

(…保健室?)

窓から夕方の光がやわらかく差し込んでいる。


「お、起きた? 寝顔ちょい間抜けだったぞ」

 光瑠が丸椅子に座って笑った。

「…光瑠!?何やってんの? ここ…保健室?」

「正解。さっき神谷先輩って人帰ってったよ。先輩のパスがまともに側頭に入ったって。先生が言うには軽い脳震盪。起きてくらくらしなかったら大丈夫だってさ」

「うわ…はっず」

「だな」

 光瑠は笑いを噛み殺して言った。


「なあ、碧」

 光瑠の声がすこし低くなる。

「お前今日部室来たんだろ。なのに何でサッカーしてんの?」

 碧はぎょっとした。

「…は?何で、それ…。 部室、誰もいなかったぞ」

「俺ら部室じゃなくて校舎の外の水道のとこにいたんだよ」

 光瑠はふっと息をついた。


「先輩たちとみんなで炉の交換のために外の水道で道具の洗い物してたんだ。もうじき五月だろ。風炉(ふろ)っていって、五月から十月までは炉じゃなくて、涼を感じさせる設えに替えんだよ。それの取り替えのための作業で、洗い物とかしてたんだよ」

 

「俺ら、お前が来るのと入れ違いで、外階段から旧校舎の外に出たんだよ。顔上げたらさ、廊下の窓のちょうど向こう側をお前が歩いてくのが見えたの」

「…」

「お前の気持ちはわかってんだよ」

「なんだよ俺の気持ちって」

「言ったろ。碧は茶道ぜったい合ってるって。──幼馴染、なめんな」

 光瑠はにやっと笑った。それからふっと窓の外へ目をやった。


”幼馴染” 光瑠が発したその言葉は、碧にとって思いがけない言葉だった。自分に幼馴染と呼べる人なんて、いないと思っていた。


 中庭の桜はすっかり葉桜になり、丁寧に手入れされた何種類にも及ぶ木々は新緑が美しく光を反射していた。


「なあ碧、覚えてるか。 お前がちょっとのあいだ東京に住んでいた時のこと」

「…なんだよ、急に」

「お前が転校してきてすぐの時、俺らの秘密基地こいよって言ったらさ、そっから毎日のようにそこで遊ぶ様になったじゃん?」

「ん?ああ…そんなことあったな」

「あの秘密基地、楽しかったよな。出入り口がいろんなところにあってさ、いろんなところに開いた覗き穴から、いろんな景色見えんの」

「でさ、ある日お前が親父さんの使ってないカメラ勝手に持ち出して。一日中いろんな写真撮ってただろ。水溜りとか、覗き穴から見えた鳥とか、空とか、中に差し込む光とか。

で、フィルム一本ぜーんぶ使い切ってさ。あとで親父さんにこっぴどく怒られて。それでもお前へらへら笑ってたよ。『だってさ、すげー綺麗だったんだよ』って。めっちゃ小学生みたいな言い訳してさ」

 光瑠は懐かしそうに口元をゆるませた。


 そう言われて、碧の脳裏にもその日の景色が朧げによみがえった。あの頃は目に映るもの全部が宝物みたいに輝いて見えた。親父みたいに、その輝きを残したいと思っていた気がする。

「いや、ガッツリ小学生だったし。てか、何が言いてぇんだよ」


「あの頃のお前、マジで格好悪かったぜ。一個のことに夢中になりすぎてて。周りがぜんぜん見えてなくてさ」

「なんだよそれ、ひでえな」

「でも今のお前より、ずっと格好よかったよ」


そう言われて、ひどく呼吸が浅くなるのを感じた。

「ひ…光瑠にはわかんねえよ」

「俺、すぐ引っ越すからさ。親父の仕事の都合でいつどこへ行くかわかんねえ。本気になってもどうせさよならになる。だったら最初から…」

苦しかった。言われたくなかった。本気になることから逃げている、格好悪い自分を認めたくなかった。


「最初から何も本気にならず、サッカー部でチャラチャラしてた方がいいってか?」

 光瑠がぴしゃりとさえぎった。


「べ、別に、チャラチャラじゃねえだろ! 俺、サッカー普通に好きだし…」

「まぁ、碧のサッカーの才能は正直もったいないよな。サッカーに限らず、他のスポーツ全般だけど」

 へへっと笑う光瑠に、碧の声がすこし震えた。


「本気になって失う痛み。光瑠にはわかんねえだろ。それに、俺は光瑠や他の先輩みたいに、背負ってる家もねぇし、何も持ってねぇ。茶に向き合う理由も動機だってねぇ!」


 そういうと、光瑠は少し眦を上げた。

「うーん、まあ、そうかもな。俺は碧みたく別れをたくさん経験してきたわけじゃないから、言える立場じゃないかもしれない。でも…」

「うちのじいちゃん、もう長くないんだ。あの人の手をそばで見られるのもあと何年か…もしかしたらもっと短いかもしれない。突然の別れが来るかもしてない。」

「だから、俺は本気で挑むんだ。近い未来に失うことがわかってても、だ」


「さよならが来るから本気にならない。──それでお前ほんとに楽しいのかよ」

「俺はさ、この先にどんな別れがくるかわからないから、だからその一瞬を全力で生きる。だから別れが来た時にその瞬間を誇れる。その方がかっこいいと思うんだ。 それに面白いって感じる心とか、好きって気持ちに全力で向き合うことに、家も理屈も必要ねぇよ。自分の心がどうしようもなくワクワクしている。動機はそれで十分だろ。」


光瑠は、あの時もそうだった。引っ越してきたあの日、いつも強引に、俺の心を引っ張っていく。

何でこいつは、今、一番欲しい言葉をくれるんだろう。



──「お前、碧って名前なんだ!カッケェな!俺と友達になろうぜ!」


──「なあお前、いろんなとこに住んでるんだろ? すげえな! 今度、俺らの秘密基地、案内してやるよ!そこでお前が見てきたもんいっぱい教えてくれよ! 」


──「碧、また会えるよな? 絶対また会おうな! 約束! 俺、お前の本気の時の顔すげー好きだぜ! 次会う時は、俺も碧の本気に負けねぇから!」



──そうだ、光瑠は、こう言っていたんだ。



 光瑠がバシッと肩を平手で叩いた。

「お前がまたあの頃みたいになんかに夢中になってる顔。それをもう一回見てえんだよ」

「…痛えな、おい」

光瑠の笑顔が眩しかった。

「ほら行け。今日だ。今行くんだよ」

光瑠は碧の頭を両手でくしゃくしゃに撫でた。



「先輩たちはまだ部室で片付けしてる最中だ。保健の先生には俺が言っといてやるから。部室にはフジ先生もいる。──大丈夫だ、みんな待ってるよ」


 光瑠はニヤッと笑って椅子から立ち上がった。


「言っとくけどな。俺は背中を押してやっただけだ。あとは、お前の口から言うんだぞ」


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