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第二十四服 本気にならない

 ピッチに立つと空気がまるで変わった。グラウンドの乾いた土の匂い。ボールを蹴る軽い音。ホイッスル。掛け声。──にぎやかな世界が碧の体にすんなりと馴染んだ。


 最初のボールが足元に来た時、碧の体はすでに動いていた。ディフェンスをひとり、またひとりと置き去りにする。ペナルティゾーン手前で相手チームのセンターバックが二人削りにきているのがわかったのと同時に、右側からフォワードが上がってくるのが視界に入った。キーパーは視野が狭くなっていそうだ。半歩左にずれてボールを浮かせ、トラップした。キーパーはハッと右に視線をやるが、碧が放ったボールは二枚の壁の上をふわりと弧を描き、少し遅れて入ってきた逆サイドのウィングのほうに軌道していた。

「あっ……」

誰もが右にパスを出すと思っていた。碧のその一連の動きは周囲が考えるよりもずっと早くに終わっていた。そのままパスを受けたレフトウィングがゴール!…と思いきや、不意をつかれたそいつは碧のパスに追いつくことができず、ボールはコーナーへ転がっていく…。

碧は「ちっ」と軽く舌打ちをした。 くるっとターンし、トントンっと二、三歩跳ねるようにオーナーが不在になったボールへ向かった。

ボールはまるで碧を求めるかのように足元へ吸い付いていった。自分の元に擦り寄ってきたボールをひょいと巻き取り蹴り上げた。強く左回転がかけられたボールは大きくカーブを描いてそのままゴールへと吸い込まれた。


 あたりは一瞬しんと静まり返ったがすぐにわっと声があがり、ピッチサイドはざわめいた。


「うわ……なんやあいつ誰?一年?」

「めっちゃ上手いやん──どこまでフィールドん中見えてるん。てか身体能力高すぎやろ」

「なんで最初からサッカー部入ってないねん」


 見学に来ていた女子たちの黄色い声援が混ざる。

「碧くーん! かっこいー!」

 碧はちらりとそちらへ目をやってにっと笑い返す。きゃーっ、と明るい歓声がはじけた。


 ハーフタイム。給水のためにピッチを下がると案の定サッカー部の連中と女子たちがわっと押しかけて囲んだ。

「お前ぜったいうち入れって! 即レギュラーやで」

「碧くん今週末ヒマ?遊びに行こうよ〜」

「ねぇ写真撮ろ、写真!」

 タオルで汗をぬぐいながら碧は笑ってぜんぶ軽く受け流す。


 ──このままサッカー部でもいいかもな…。

必要とされているみたいだし、なんかこうやってる方がよっぽどいつもの俺らしいし。

…モテるし。


──そうだ。これでいいじゃないか。

 なのに。

 胸の奥でチリチリと音がした。


*  *  *


 後半開始のホイッスルが鳴った。碧は軽く足を踏み出す。


ふと視界の隅で旧校舎へ続く渡り廊下に一人の影が見えた。光瑠だった。両手で白い布のかかった重たそうな桐の箱を抱えている。光瑠もこちらに気付き、自分と目が合ったのがわかった。 すこしだけ瞬きをした様に見えた。しかし光瑠は何も言わずにそのまますっと視線を外した。

その一瞬の出来事に碧は自分の足元から光瑠がずんずんと遠退き、宇宙の彼方の遠い存在になってしまったような錯覚を覚えた。


「多比良!」


 神谷の声がすぐ近くで響いた。

 はっと碧が振り向く──その瞬間だった。

 ぐん、と視界が白く爆ぜた。


 碧に出された強烈なパスがまともに碧のこめかみに入った。体がふわりと地面から浮く感覚。それからすべての音が急に遠のいた。

「多比良! おい多比良ぁ! しっかりせえ!」

 神谷の慌てた声がどこか遠くで響いた。


*  *  *

 

夢を、見ていたと思う。


 いくつもの街の景色が目の裏で流れていった。美しい空。波の音。どこかで鳴る太鼓に合わせて神輿が揺れている。花火師だろうか、節暮れだった手が生み出す丸い何か。仲良くなった誰かの顔。商店街の夕暮れの色。それは自分の目で見たものか、親父のレンズが捉えたものかは、わからなかった。


 親父が写真を自分に一枚ずつ見せている。「碧、お前にも見えるだろう、ここにある光が」「今回も、最高の時間だったな」そんな声が聞こえた気がした。

親父は、その一瞬の輝きを切り取るために、それと対等に向き合い続けた。誠実に尽くした。心から愛した。そう思っていた。

 それなのに朝が来れば父はためらいもなく次の街へ発つ。後ろを振り返りもしない。父にとって別れは呼吸みたいに当たり前のことだった。


 でも、自分はそうはなれなかった。愛したものと、本気で向き合ったものと別れるのは苦しい。


だから本気にならなければ、失う痛みで苦しまずに済む。そう思う選択をした。


 親父はきっと、それらを心から愛したわけではではなかったのだ。そう、目の前にあることは、いずれ自分の前から消え去るものなのだ。


それが当たり前なのだ。


だから、自分も愛さない。本気にならない。向き合うことはしない。


 茶を好きになって、本当に、本気になって。──また失うことになったら、自分はそれに耐えられるんだろうか。


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