第二十六服 今日という日は、今日しかない
保健室を出ると西日はだいぶ傾いていた。光瑠は親指を立てると、職員室に向かった。
まだこめかみがじんわりと痛む。けれど足取りはさっきよりもずっとしっかりしていた。
旧校舎に渡るとぎしぎしと鳴る床の音は、自分の心臓の音のようだった。ゆっくりと一歩ずつ、自分の心音を、決意を確かめるように歩いた。
落語研究部はもう帰った後みたいだった。静かな廊下の奥に滲む茶と香木の香りを辿るようにして、茶道部の木札の前に立った。もう襖にかけた手は上擦る様子はなかった。
「…失礼します」
「あっ…碧くん!」
雪乃がぱっと顔を上げる。
その奥に藤露透という人が、いやフジ先生がいた。
「来てくれたんだね」
透が目もとをゆるめた。
雪乃はも嬉しそうに声のトーンを一段階あげた
「やっぱりくるって思っとた〜!あ〜惜しいな〜千歳先輩と銀次郎先輩、今日は家の用事あるからゆうて、ついさっき帰ってしもてん!二人とも会いたがっとったよ!」
「あ、そう…なんすね…」
「でぇ?碧くん。ここに来たっちゅうことは、なんかあんねんやろ?」
雪乃が後ろ手に構えてニヤリと顔を覗き込んだ。どうしても碧の口から言わせたいらしい。
「あの。俺、その…茶道部に入りたくて」
雪乃に押されずとも自分から言っていたし!と主張せんとする心とは裏腹に、声は若干裏返っていた気がして恥ずかしかった。
「もちろん、待っていたよ」
ニコリとして透は立ち上がり、棚から一枚の紙を取り出しながら続けて言った。
「碧くん。茶の湯ではね、一期一会という言葉を大切にしているんだ」
「いちご……いちえ」
「同じ茶席は二度とない、という意味だよ」
透はゆっくりと続けた。
「客の顔ぶれやそれぞれの服装。お道具。季節。天気や気温。花。何ひとつまったく同じには二度と巡ってこない。だから亭主はこの一度きりの一会に心を尽くす。今日という日は今日しかないからね」
碧は、先ほどの光瑠の言葉と重ねてハッとした。
今日という日は、今日しかない。そもそも毎日はさよならの繰り返しなのだ。さよならが来るからこそ、今日のこのひとときが二度とないからこそ、かけがえのない宝物になる。
父は別れを当たり前のものとして受け流してきたと思っていた。自分は親父とは違う。受け流せないなら傷つかないようにするしかないと思っていた。
でもそれはどちらも誤っていた。一度きりだからこそ、別れが来るからこそ本気で向き合う。だから別れの時が慈しみの時間に替わる。親父もきっとそうだったのだ。
透が、先ほど取り出した一枚の紙とペンを机の上に置いた。入部届けだった。
これまで、転校するたびにいったい何度自分の名前を書いてきただろう。書こうと思って書いた名前なんてここ何年もずっとなかった。ただ作業のように、ただの記号のように。
書いても書いても、自分がそこに存在している気がしなかった。
でも今日はちがう。自分の意思で、自分の行きたい場所に、自分の名前を書く。
氏名:多比良 碧
希望入部先:茶道部
いつもは自分の意思のなかった、ただの記号のように見えていたこの四文字が、今日はやけにくっきりと見えた。
顔を上げる。透と目が合った。
「ようこそ」
透がやわらかく笑った。
「君が今まで見てきたもの。きっとここでいろんな姿になって現れると思うよ」
「やったー!」
雪乃が両手を上げてぴょんと跳ねた。
「碧くんようこそやで! ぜったい来るって言うてたやろ?」
「次の部活の日が楽しみやなぁ。部長と副部長の夫婦漫才みたいなんが、いつもめちゃおもろいねん」
雪がいたずらっぽく舌を出す。
(千歳先輩と、銀次郎先輩。早く色々聞いてみたい…!
(にしても、雪乃先輩…。彼氏がいたらきっといつもこうやって詰められてタジタジなんだろな…)
ふと見ると、炉の中にはもう何もなかった。──そういえば光瑠が言っていた。もうじきこの炉の季節が終わる。別れがあるから、この瞬間の輝きをより一層感じることができるんだ。
窓の外で最後の桜の一枚が、ふわりと風に舞った気がした。
* * *
光瑠が部室に戻り、それぞれ帰路についた。
透は入部届けを渡しに職員室に向かった。廊下を歩きながら、透はその紙に書かれた名前を人差し指でなぞった。
「多比良 碧…か」
透はそっとつぶやいた。
「さて…」
「あの子をどこまで連れていけるかなぁ」
見上げた空の色は、日没まではまだだいぶ先だと言っているようだった。




