第二十服 爾今
参照:
①富岡鉄斎:「最後の文人画家」と謳われた、明治・大正期の文人画家、儒学者、教員。
②小林一茶:松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師
③爾今:禅の教え。鎌倉時代の禅僧・道元禅師が好んで使った言葉。
④有朋自遠方来=朋有あり遠方より来たる亦た楽しからずや:『論語』学而篇(第一章)
*注:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
何かに、なりたい。何かをやってみたい。
── 深入りしない、心から好きにならないと自分に言い聞かせて、いつでも適度な距離をおいてきた、その壁のほんの一部が綻び始めた気がした。
「んん゛っ!」
と咳払いが聞こえて顔を上げると、雪乃が「はよう飲め!」という表情で眉尻を大きく釣り上げていた。
(やべ!)
「お!お先に…! お点前頂戴します…」
他の客と、お点前の人の両方に挨拶をするとネットに書いてあったのを思い出して頭を下げ、慌てて茶碗を手に取った。
口元へ近づけると、茶の甘い青い香りが鼻と喉を撫でる。その瞬間、自然と目を閉じていたようだった。
ゆっくりと嚥下する。今日の薄茶は何かが少し粗いように感じた。それでも舌に触れる感触はふわりとほどけて、その温かい液体が喉の奥へとすり抜けて行く度に、瑞々しさが身体中を巡るような感じだ。
ピチョン…さわさわ…と何かの音が聞こえた気がした。それと共にいつかどこかで聞いた笙*3 のような旋律が頭の中で微かに響いた。
あぁ、なんだろう。いつも感じるこの不思議な感覚。
そうぼやっと思いながら飲み終わって目を開くと、透と太田がふっと笑ってこちらを見ていた。
光瑠にちょいちょいと肘を突かれて「おい碧、いつまで飲んでんだよ」と言わて初めて、自分がどれだけ長い時間茶碗に口をつけていたのかということを知った。後に茶を出された光瑠はすっかり飲み終わっていたというのに。
透の元には、太田さんのためのお茶碗が運ばれていた。
再び透があの舞を繰り返す。
少し落ち着きを取り戻した碧は、今度は視覚よりも耳から入る感覚に意識を向けた。
同じ柄杓で掬っているのに、湯と水とで音がまるで違う。湯はとろりと重たく、釜に足すために入れられた水の音は丸くサラサラとやわらかい。布をたたむ音と、着物の衣擦れの音。ものにも、所作にも、それぞれの音色がある。そんな当たり前のことに気づいて、少しそわそわした。
「御相伴いたします」
太田さんが、ゆっくりと茶碗を手に取り、口へ運ぶ。その横顔は長年連れ添った友からの手紙でも読むような、静かで満ち足りた表情だった。
* * *
茶が下げられ、碧と光瑠との間にほっとゆるんだ空気が流れた。
碧の目は、なぜか床の間の掛け軸に向いていた。
(ジコン…どういう意味だったっけなぁ)
「多比良くん。あのお軸が、気になるか」
太田さんは優しい目を碧に向けていた。
「…はい。なんていう意味だったかなと思って…」
「ええ、目のつけどころや」
と、太田はゆっくり頷いた。
「茶席では、門を潜ったすぐからそこかしこに客に対しての亭主のメッセージが込められとる。
待合から、露路の落ち葉も、蹲踞の周りも。ほんで、茶室に入って客がいちばん最初に目を向けるのは床の間や。その日の茶席を、亭主が何を思うて開いたか、掛軸と花に表れとる。さっきの香合もそうやで。 全部、客をおもてなしするための心や」
「こころ…」
「あのお軸にはな、“爾今”と書いてある。」
「鉄斎はんが書きはったもんや。意味は──過ぎたことも、まだ来ぬこともいっぺん忘れる。ただ今、この一瞬だけに心を向ける。そういう禅の言葉や」
「花も同じ心や」と、太田は、床の間の一輪へ目をやった。
「今日は、白椿。春の名残にひとひらの白。咲ききってぱさりと落ちる。その潔さをめでる心や。──掛軸と花。亭主はものを言わずにこのふたつで語りかけてくるんやで」
碧はもう一度軸を見上げた。『爾今』
今、この一瞬…。
太田は透へちらりと目をやった。
「実は今日のこのお軸はな、亭主の私やなくて、透くんが選んだんや。──なんでやと、思う?」
碧は、少し考えたがうまく言語化できない
「なんとなくわかる気がするんですが、なかなかピッタリハマる言葉が思い浮かばなくて」
太田は優しく笑った。
「ふふ、大丈夫や。感じ取れている目をしとるよ。いつか、君が自分の言葉で表現できる時がきっと来る。──どや、多比良くん。茶の世界は、おもろいやろ」
おもろいやろ。
この一言が、碧には妙にしっくりきたのを後になってもはっきり覚えていた。
「ちなみにな、待合にもお軸があったんやけど、覚えてはる?」
「あ、いや…すみません。読めませんでした」
「そやろね。あれは一茶さんの書いたもんでな。達筆すぎたな。
『有朋自遠方来= 朋有あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや』。と読む。
論語に書かれた孔子はんの有名な言葉でな、『志を同じくする友が、遠方から訪ねてきてくれるのは、本当に喜ばしいことだ』という意味や。」
まあ要約すると、『今日のこの茶会を、私も透くんもとても楽しみにしておったよ』っつうことや」
なぜ、この太田という人は、なんでもないこの俺のことを、楽しみ待ってくれていたんだろうか。
お読みいただきありがとうございます!
本作は、茶事に関する事実を、ある程度忠実に表現しながらも、少しニュアンスを変えて表記している箇所もあります。流派や解釈による違いなどもございます。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。歴史上の人物を絡めたくだりでも、あくまでもフィクションとしてお楽しみください。m(_ _)m
*3 笙:17本の細い竹管を円形に束ねた、雅楽で用いられる代表的な和楽器




