第十六服 太田はんと、もう一人の先輩
いつの間にかそこにいたその男性は、明らかにただ者ではない風格を漂わせていた。歳は、六十代後半ほどだろうか。柔らかな陽炎のような影を纏い、ゆっくりとこちらに向かってきた。
その人は音も立てずに枝折戸を開けると、黙ったまま一礼した。そのままくるりと背を向けてまたゆっくりと歩き出す。
(え? あ、入れってことだよな…??)
光瑠は焦って立ち上がり、ヒソヒソ声でそう言った。
(た、多分…!)
碧も急いで立ち上がった。
地下鉄の中でかき集めたネット情報くらいじゃ、何が『入ってヨシ』の合図なのかまでは拾えていなかった。
(また妖怪みたいな人出てきた…)
と思わずにいられなかったが、口に出すのはやめておいた。
低い竹の柵(後に中門と知る)を超えて、少し歩いた先に蹲踞が据えられていた。
茶室に入る前に手や口を清めるための装置だ。いわゆる神社のお参りの際の手水舎と同じである。これはかろうじてネットから頭に入れてあった情報の一つだった。
その男性は蹲踞から少し離れた先で、碧たちを待ってくれていた。
ちょろちょろと水の落ちる音が清々しい。光瑠もどこかで予習でもしてきたのか、見よう見まねの様子で身をかがめ、柄杓を取り、手を清め、口を濯ぐ。碧もぎこちなくそれに倣った。
柄杓ですくった水は、ひやりと指先を流れていく。
蹲踞の脇には楓が植えられており、見上げるとその若葉が日の光を透かして淡い緑色の光へと変えていた。その一枚一枚の葉脈まで見えるような気がした。
(親父のカメラなら、ここをどう切り取るんだろう。)
そうぼんやり思いながら立ち上がると、少し先に人影がひとつ、目に入った。
「やっほー、光瑠くん! 待っとったよ」
「し、白川先輩! 先輩も、フジ先生にお呼ばれしたんすか?!」
「え、光瑠、この人知り合い?」
淡い若葉色の着物に薄茶色の帯、ショートヘアの似合う楚々とした佇まいに似合わず、小型犬のような黒目をキラッとさせ、高い声を弾ませて続けた
「えへへ。実はねぇ──」
「── 雪乃は、わたしの姪っ子でしてね」
その弾んだ言葉を引き取るように男性が穏やかに言った。それから碧と光瑠に向かって丁寧に頭を下げる。
「申し遅れました。今日の茶会の亭主で、ここ有隣館の会長をしております、太田 宗達と申します」
(…あ。この人が、千歳先輩たちの言うてた"太田はん"か)
碧と光瑠も慌てて深々とお辞儀をした。
「江咲 光瑠です!」
「多比良…碧 です!」
「太田 雪乃でーす。 太田先生の姪っ子しとります。 今日は、半東の…あ、お運びのことね!それのお手伝できました!よろしゅうお願いしますぅ」
そう言って雪乃は碧の方をチラッと見上げると
「君が噂の、碧くんやね? フジ先生に聞いとるでぇ」
「えっ……俺、ですか」
碧は面を食らった。
「うん! 『おもろい目した子が来る』って!どんなんやろ〜面白い目ぇって〜と思ってめっちゃワクワクしとってん」
雪はぐいっと顔を近づけて、まじまじと碧の目を覗きこんだ。
距離が近い。近すぎる!碧は思わず半歩のけぞった。
(なんでここの茶道部の奴らはみんなこんな距離感バグってんだ!)
「先輩、銀次郎先輩と一緒で、相変わらず距離感ゼロっすね」
光瑠が、横でけらけら笑う。
「やろ? でもわたし、これでも今日は、だいぶ大人しくしてる方やで」
雪は褒めてもいないのに、フンと鼻を鳴らして胸を張った。
太田 雪乃。
この賑やかで銀次郎先輩と張るほどに距離バグの人は、京絹学院の茶道部のもう一人の先輩で二年生だという。碧が部室を訪ねたときはたまたま居合わせなかったらしい。
どんなに仲良くなったとしても、必要以上に踏み込まずに、物理的にも一定の距離を保ちながら過ごしてきた碧にとって、茶道部は苦手なタイプの揃い踏みだった。
太田さんはそんな姪を目を細めて見ていた。
けれどその穏やかな横顔の奥に何かひとすじ影のような目線が混じっていたように見えたのは気のせいだろうか。




