第十五服 松菱斎 有隣館
その日の朝は、よく晴れていた。初夏が近い太陽の光は、日に日に熱を増しているのがわかった。
九時半。京都を南北に走る地下鉄・烏丸線 の丸太町駅。4番出口から地上に出ると二つ先の建物にファミマが見えた。もう何十分も前から待っていたと言わんばかりの光瑠が、日焼けした人懐っこい笑顔で大きく手を振っていた。
「碧! こっちこっち!」
グレーのシャツにパンツ、髪をめずらしくきちんと整えている。
(よかった、俺の服装とそんな変わんねぇ)
「こっから歩いて十五分くらいみたいだから、余裕だな。ゆっくり歩こうぜ」
といいながら光瑠の歩調は心なしか勇んでいるように見える。
「…お前、なんか緊張してる?」
「し、してるに決まってんだろ。フジ先生がお点前のプライベートな茶会だぞ。窯元の息子としては、一生もんだって」
笑いながらも光瑠の声は少し上ずっていた。──こいつでも緊張するのか。
もう春は終わろうというのに、土曜日の京都の街の朝はまだ少し眠そうで、観光客の姿もまだまばらだった。それでも烏丸通は多くの車が行き交い、エンジンとタイヤが地面を蹴る音が騒がしい。
こちらの静かだと、烏丸通から一本入った一方通行を北へ向かう。すると途端に、あれだけ大通りを走らせていた車の存在が遠くなり、板塀が並ぶ通りを歩く二人分の足音が妙に響いていた。
京都御所の蛤御門から少し歩いた、上京区・上長者町通にある住宅街。何も考えずに歩くとうっかり通り過ぎてしまいそうな細い路地の奥に、松菱斎 有隣館はあった。
角を曲がると急にしんとなって目の前に現れる石塀と石畳。周囲のひっそりとした雰囲気に対して大袈裟とも言える表門が、その石畳が整えられた小路を抜けた先に見えた。
濃紫の暖簾がかけられた表門をくぐると、紛れもなく大層な日本庭園が眼前に堂々出現する…と思いきや、確かに素晴らしいが、意外なほどに簡素に見えた。
その佇まいは銀次郎が話していたよりもずっと静かでずっと重く、この場所を作った人と、大切に守ってきた人の意思が脈打ち、無言でその容姿を誇っているように感じた。
庭園の中に設られた茶室までの道のりを、露地というらしい。光瑠に合流するまでの地下鉄の中で、碧は、スマートフォンを睨むようにして付け焼き刃の知識をもう一度かき集めていた。やっぱり茶会に出るなら少しでも勉強しておかなければと、と今さらになって焦燥したのだ。
時間のあるかぎりに検索と予習を繰り返し、頭の方々(ほうぼう)に散らかすようにして、スマートフォンに表示されるその文字郡を収めていった。
その心許無い引き出しの中の情報を頼りに、庭を進もうとしたその時、一人の女性がこちらへ向かってきた。
「どうぞこちらへ。今日はいつもより少し暑うなってまいりましたんで、待合で、休まれてってください」
案内係だというその人に促され、すぐ手前にある小さな建物に入った。白湯が用意されていた。
ネット情報によると、待合とは、茶会に招かれた客の集合場所らしく、掛け軸や花を鑑賞したりするところらしいが、掛け軸に書いてある内容も、なんの花かもわからなかった。
案内係の人が再びその小さな建物の扉を開けた
「少し涼まれましたか? お荷物などのご準備がなければ、どうぞあちらに見える、腰掛待合で、亭主をお待ちください。」
掌で示された先にあったのは小さな屋根のついたベンチだった。
とりあえず建物をでて、光瑠と共にベンチに腰をおろす。
たまに、飛び石の上や灯篭横に、棕櫚縄などを十文字に結んだ小さな石がある。関守石といって、『これより先は、立ち入りをご遠慮ください』というメッセージを示しているものだ。
順路案内の他、先にある重要な場所に踏み入れさせないための役割を果たしている。
「立ち入り禁止」の文字が掲げられるよりもずっと気持ちの良い心配りである。
「そういえばさ、今日の茶会。他に誰も来ねぇな…」
「俺らが早すぎたんじゃねぇの?」
「確かに。」
丸田町駅から十五分かかるところ、十二分足らずで到着した光瑠の勇み足を思い出した。
すると、ベンチの目の前の、竹でできた低い柵と、その高さと同じ竹の戸(ネット情報では枝折戸というらしい)の奥から、チャッ…ピチャッという音が聞こえてきた。
その音からしばらくたってからふと顔を上げると、いつの間にかその竹の柵の向こう側に、ゆらりと一人の男性が立っていた。




