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第十四服 春の月

「あ、じゃあ、そろそろ俺はこれで」

「えー碧、茶飲んでけよ〜、先輩たちのお点前、マジでかっこいいんだぜ!」

「いや、今親父が帰ってきててさ」

「あ、それなら帰らねぇとな。親父さんすぐどっか行っちゃうもんな」

「すいません。先輩…」


「碧くん、明日のフジ先生の茶会、絶対行った方がええで」


後から銀次郎の声がして、振り返ると制服から着物姿に着替えてきていた。



(おいおい、格好良すぎだろ、ぎんじろセンパイ…)

そのあまりに凛々しいその姿に、図らずも自分の頬が軽く紅潮しているのがわかった。


それに気づいたのか、自分の姿がイケていることなど等の昔にわかりきっていると言いたげな笑顔で、きらりと八重歯を見せて続けた

「あれな、めったにないことやで。フジ先生普段は自分のことはよう喋らへんし、自分とこの茶会に人を呼ばはることなんて百年に一度だとおもた方がええで」


「そう…なんすか」


「しかも今度のは、太田はんとこの茶会やからね」


 千歳が、静かに言い添えた。

「太田宗達さん。京都の茶の世界で、知らん人のいやはらへん、ほんまもんの数寄者(すきしゃ)や。その方が、毎年春にフジ先生とごく親しい人だけを招いて開かはる内輪の茶席なんよ。そこへ呼ばれるいうのは、それだけでたいしたことや」


「茶会が開かれる松菱斎 有隣館っちゅうんは、文化財に登録されとる古家でな」


 銀次郎が言い足した。


「江戸のころに建った学問所で、庭がそらもう、見事なんや。普段は一般には開けてへん。そこの保存会の会長を太田はんがしとってな、年に何回か特別な時に使わはる。――ええか碧くん、めったに入れん場所やぞ。果報者やのう、お前」



 碧はごくりと唾を呑んだ。聞けば聞くほど、やっぱり自分なんかが足を踏み入れていい場所とは思えなくなってくる。



「銀、プレッシャーやで。碧くん、そないに固くならんでええよ」


 碧の顔を見て、千歳がやわらかく笑った。


「茶会いうても、もとはお客さんを亭主がもてなす場や。むずかしい作法はぜんぶ相手に気持ちよう過ごしてもらうための工夫なんよ。碧くんはただ、見て、感じて、味わったらええの。――フジ先生が誘わはったんも、たぶんそういうことやと思う」


「は…あ…」


「碧くん、ええもん見れるで、ほんま」

 釜の前に座りながら銀次郎がしみじみ言った。

「フジ先生の点前はな、見てると、なんや、時間がゆっくり流れるみたいになるんや。言葉では、ようよう説明でけへんねんけど。――まあ、明日、自分の目で確かめてきたらええわ」



*  *  *


 一礼して、部室を出ようとした碧の背中に、光瑠の声が追いかけてきた。


「じゃあ碧、 明日な! 丸田町駅の出口んとこにあるファミマ前で待ち合わせしよ! 茶会、十時からやから。九時半に集合な!」

「あ、いや、俺まだ考えちゅ…」

「だーめ!約束! いいか、九時半! 遅れんなよ!」

 ニヤッと笑ってそのままスパッと襖を閉めやがった。


 廊下にひとり取り残されて、碧は、つい吹き出してしまった。


(…あいつのこの強引なやりとり、何回繰り返すんだほんと…!)



 その夜、碧はなかなか寝つけなかった。布団に入って、暗い天井を見上げる。

鼓動は明日のことを思ってほんの少し速くなっていた。それはまるで遠足の前の夜の子どものようだった。

こんな感覚はいったいいつ以来だろう。思い出せないくらい久しぶりだった。


(あ…!)

ふと、思い出してガバッと布団から体を起こした。


(明日、そういや何着ていきゃいいんだ? 着物とか持ってねぇし、襟付きのシャツとかだったらいいのか?)


そう考えて、ふっとおかしくて笑った。


(て、おい、もう、すっかり行く気になってんじゃねぇかよ)


(…まぁ、なんかすごい貴重な場所に入れるって言ってたし。行くだけ行ってみるかなぁ…)


部屋には誰もいないのに、このワクワクに似た感情を表に出さないようにと妙に口を真一文字に結びながらモゾモゾと布団から起き出してクローゼットを開けた。

一番シワのないシャツとカーキのチノパンを一枚引っぱり出して、机の上にたたんで置いた。

電気を消して、もう一度、布団にもぐりこむ。

 寝返りを打って、窓のほうへ顔を向ける。カーテンの隙間から、京都の夜空がのぞいていた。春の月が薄い雲の向こうで淡くにじんでいる。

明日はきっと晴れる。なぜだかそんな気がした。


 月をぼんやり眺めているうちに、まぶたが、だんだん重くなってくる。三味線の音、先輩たちの言葉、着物の色、それらが微睡の中でゆっくりゆっくりひとつに溶けていった。


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