第十二服 気後れ
「おう、碧。おかえり」
玄関を開けると、土間を挟んだ居間から、一人の男が振り向いた。
碧の家は父親の写真事務所を兼ねた古い一軒家だった。玄関にも廊下にも、額に入った写真が所狭しと掛かっている。
父はドキュメンタリー写真家だった。
人の営みから動物の生涯、自然の生態、日本で一番小さな町で行われる例祭にかけた情熱の灯火、あるいはとある産業の栄枯盛衰まで、それに長い時間をかけて対峙し続けた父のその手で、その瞬間があらゆる角度で切り取られてきた。世界中の輝きのかけらたちがそこに散りばめられている。
廊下のいちばん奥に、碧の好きな一枚がある。
どこかの古い町の夕暮れ。格子戸の家並みにオレンジ色の西陽が差している。父にくっついて歩いたその場所はもう名前も思い出せない。
「あれ、おかえり。帰ってくるのって、もう少し先じゃなかったっけ?」
「なんかすげーいい画撮れちゃったからさ、もうこれ以上ここにいても意味ねえな〜って帰ってきちゃったんだよね〜。お前こそめずらしいな。寄り道せずに帰ってくるなんて」
レンズを掃除しながらヘラヘラ笑う父を見ると、俺の性格ってやっぱ親父譲りなんだよなと自覚する。
「まあ、たまには良い子にならねぇとなな。」
「そういえば、この間学校で光瑠にあったよ。東京に半年住んでいた時にダチになったやつ。覚えてる?」
「ひかる? あーそんな子もいた気がするな。元気だったか?」
「うん」
父は、それ以上は聞いてこなかった。昔からそういう人だ。子どものころ碧が今日どんなものに出会って、こんなことが起きて...と話しても、父はいつも「で、お前ならどう撮る?どうやってみんなにその景色を見せる?」としか言わなかった。
今日の学校での出来事は、なんだかまだ口にする気にならなかった。
「お前、飯食った? 新潟でさ、こんなでっかいシャケもらったんだよ。柵にしてもらって冷蔵庫に入ってっから、適当に切って焼いて食えよ。俺、仕事場行ってるな」
「おう。ありがと」
父とは仲が悪いわけじゃない。
ただ、なんとなくお互い深く踏み込まないようにしていた。父は普段は仕事でほとんど家にいないし、帰ってきても、カメラ部屋にこもって仕事していることの方が多いい。
父というより、たまに会う親戚のおじさんのような感覚で、それはそれで良い距離感でやってきた。
食事を終えて洗い物を済ませ、部屋に戻る。
窓を開けると京都の夜の匂いが流れ込んできた。遠くを走る電車の音。
隣家のくぐもったテレビの音。どれもいつもと同じはずなのに、今夜にかぎって妙に胸がそわついて寝つけそうになかった。
「茶会」
その二文字が碧の頭の片隅にずっと居座っていた。なんとなくスマートフォンで「茶会 ・作法」と調べてみて、碧はすぐに後悔した。
出てきたのは、小難しい茶の歴史、流派のと作法、読めない漢字、何歩で歩くとか、道具の名前――読めば読むほど、自分とは縁の遠い世界の話に思えてくる。
(…流派によっても違うのかよ。あいつどれなの? というか、いや、無理だろこれ)
碧は、スマートフォンをぱたんと伏せた。
明るく振る舞うのは得意でも、格式だの作法だのはこれまで全く足を踏み入れてこなかった世界だ。
何も知らない自分がのこのこ顔を出せば、きっとあの澄んだ空気を足音ひとつで濁してしまう。そんな気がした。
ためしに、部屋で正座をしてみた。一分。二分。三分で、もう足の先がじんじんと痛みを増してくる。
(こんなすぐ痺れるっけ、今日は、割と長く正座できた気がしたんだけどなぁ、俺一人だったし。他の人いたらあんな時間じゃ済まないよな)
こんな調子で何時間もあの場所に座っていられる気が、まるでしない。
碧はぱたりと足を崩してベッドの上に大の字に転がった。天井のしみを見上げながらため息がもれる。
茶会での失敗シーンが勝手に脳内再生されていく。ぎこちない動きをして、その場にいる人らから白い目で見られる自分。足が痺れきって立ち上がれずにひっくり返る自分。
──想像しただけでもう逃げ出したくなった。
それでも脳裏にはすぐにあの茶室の景色が立ちのぼってくる。茶がたてられる時の澄んだ音。
一口ふくんだ瞬間のあの感覚。そしてあの着物の妖怪…じゃなくて、藤露透という人の不思議な瞳。
「まぁ、来たいと思ったら、でいいよ」
(ずるいよな。あんな言い方)
行きたい気持ちと、気後れと。胸の中でその二つがずっと綱を引き合っていた。
(あー、くそっ。恋煩いじゃねーっつーのに)
そう呟いて、碧は目を閉じた。




