卒業式
『ほとんど不可能だ――』
アヤさんの声が、耳の奥で何度も響いた。
「……ナ、エ、……カナエ」
目を開ければ、ベッドの上、今では見慣れだ銀河が見える。
もう夜の色合いだ。
「ヒロさん……サチさんも……ごめんなさい。倒れちゃったんですね」
体を起こし、周りを見た。
ベッドの脇に座り込んで、手を握っているヒロさん。
サチさんは側に立って、見守ってくれている。
「無理もねぇ……俺は茶器に紅茶でも頼んでくる……ゆっくりしてろ」
サチさんはそういうと、ヒロさんの肩をポンと打って背を向けた。
何か言おうとしたのか、浅く振り返ったけれど……何も言わない。
代わりに、うろうろしていた雑巾に、お前も行くぞ……と、優しく声をかけて部屋から出て行った。
「ほんとは……」
しんとした室内に、ヒロさんの声が落ちる。
「何か気の利いた事が言えたらいいのにな」
言いながら、ヒロさんは手を撫でてくれる。
「うううん、いいよ。ヒロさん、そのままの人だから、安心する」
言って、無意識に微笑んだ。
「なら……笑うな」
「え?」
「笑わなくていい。安心するんだろ?思ったまま……泣いたっていい」
いつものヒロさんの調子だ。
何でもない事みたいに言う。
――それが、難しいのに、何でかなぁ。
見つめたヒロさんの顔がぼやけて、顎の下に力を入れても、止まらない。
きっとぐしゃぐしゃの顔してる。
「1人で泣かなくていい……」
そう言われたら、喉の奥に詰まった熱が、目から溢れるみたいに溢れ出した。
熱が去った喉は、今度は酸素を求めて引くつく。
「っほんっ……ほんとは、自分の、世界じゃ無いって……っわかって……」
「うん」
「ホッと、しちゃったの」
「うん……」
「悪い子っ……」
「……今泣いてる。悪い子じゃ無い」
「そんな事、っない!」
「なんでだ?」
「だって……お母さんの、こと、忘れた」
「なんでそう思う?」
「帰れない事にっ、ほっと、しちゃったから……」
「夢中にっ……なってた。お母さんとの未来、忘れて……」
「お母さんの、宝物になれない……」
自覚してしまった。
私はもう――。
「違う」
ヒロさんがベッドに上がり、隣に座った。
伝わる体温にまで、罪悪感を感じてしまう。
「カナエは、母親を大切に思ってる」
「だから、今苦しいんじゃないのか?」
言っている事がわからなくて、ヒロさんを見上げた。
「入江の世界の子供たちは親の思いを受け継いでいた」
子供たち……優しい、子たち。
「あの子たちは親を愛していないのか?」
「違う!」
思うより先に、噛み付くような声が出た。
「お母さんもお父さんも愛してたから、あの子たちはきっとあんなに優しい!ちゃんと伝わってる!だから、あんなに泣いて、それでも前をむいて……」
――あぁ、そうか……。
「カナエと一緒だ」
言ったヒロさんはニッと笑った。
「カナエが、可能性の種を蒔いたと思うんだ。カナエは、そう思わなかったか?」
思えた。
あの優しい、素晴らしい子供たちのおかげで……。
「カナエのままいるだけで、子供達は前を向いた。……俺も、きっとサチも。母親の事だって忘れていない」
「そんな君を育てた方だ……きっと、素敵な方だ」
やっと、わかった……。
「お母さんっ……寂しくさせちゃう……」
「そうだろうな……でも、カナエの母親だ……信じられるんじゃないかと思うんだ。……カナエらしくいる事をきっと否定しない」
――わかってしまったら、こんなにも痛い。
わぁっと、ついに声が出て、ヒロさんにしがみついて泣いた。
涙だけじゃ追いつかなくて、鼻水をヒロさんにつけちゃったかもしれない。
小さな子供の癇癪みたい……。
でも、許してほしい。
きっとこれが、私の子供からの卒業だから――。
「お母さんに、ヤキモチを妬かれてしまうな……」
「なんて?」
「なんでもないよ」
そのまま、ヒロさんは私を抱いてゆらゆらとゆすった。
小さな子供を、あやすように……。
***
ドアの外では、サチが茶器たちと様子を伺っていた。
「……俺の出る幕じゃねぇな」
サチは祝うように少し笑った。
お前らはもう少ししたら入ってってやれ、そっとだぞ。そう言い置いて、サチは背を向けた。
「……俺も腹くくらねぇとな」
硬く目を閉じて、開いた時にはもう、サチの目に迷いは無かった。




