私の世界
カナエはしばらく呆けたように看板を見ていた。
それがなんなのか、俺にはわからねえが……。
「ねぇ、何あれ?」
「女の子泣いてない?修羅場?」
外野の小声が聞こえだした。
「ヒロ、まずいぞ」
「わかってる。カナエ、立てるか?場所を移そう」
ヒロに促されて、カナエはフラフラと立ち上がった。
知っている場所だから、とカナエに連れられて店に入った。
ひとりでに開くドアを潜れば、食べ物の写真が光り、レジが数台並んでいた。
レジの奥には調理場があるらしい。
混む時間では無いのか人はまばらだ。
慣れた様子で注文するカナエの後を追って、席に着いた。
紙のコップに入れられた湯に、茶葉の入った小さな袋を入れれば紅茶の香りが立ち上った。
……茶器たちの紅茶に比べれば、ひどく味気なかった。
「文字が読めたのか?」
問いかけたのはヒロだった。
今日の夕飯はなんだ?と聞くような、いつもの、なんでもない調子だ。
「うん……あれは案内標識。その道がどこに向かうか解るように書いてあるの」
「……知ってる地名か?」
「…………うん」
「家への帰り道、わかる」
サチの紙コップに小さな皺がよった。
――なんだと?縁は2つ集まってたはずだ。だが、なぜ今なんだ……?
2つ目が見つかったのは入江の世界の前だ。
縁が2つでいいなら見つけてすぐに帰れたはずだ……。
何より――。
カナエの表情を見る。
帰れるかもしれない、なのに戸惑いより勝る……寂しそうな顔。
言ってやればいい言葉は解ってる。
なのに、喉が張り付いたように声がでねぇ。
「なら、行こう」
俺が言えなかった言葉をヒロはさらりと言いやがった。
「カナエの家まで、どのくらいかかる?」
「え……えと、多分1時間くらい……」
「なら、カナエを送って、俺たちが帰る時間もあるだろう。行ってみよう」
それで、帰ったらまた明日な。
そう続きそうなくらい、ヒロの声はまっすぐだった。
――こいつほんとに、無駄に育ちやがって。
サチの隣りで、カナエには見えないヒロの握り込まれた左手が微かに震えていた。
それから、電車を乗り継ぎ、カナエの家の最寄り駅についた。
切符を買うのもホームに行くのも俺にはややこしくてめんどくせぇ……。
自動改札を抜けられずにもたついて悪態をつく。
なら、……帰りは送ります。
そう言ったカナエの言葉に胸が詰まった。
――送ります、……か。
駅に着いたあたりから、カナエは落ち着きなく周りを見渡していた。
カナエの視線を追って、時々ヒロがあれはなんだと聞けば、ヒロを見上げてあれそれと教えていた。
見下ろし、見上げる2人の背中をずっと見ていた。
「サチさん?」
カナエに呼ばれて我に帰った。
「すまねぇ、聞いてなかった。何か言ったか?」
「ここです、私の家の場所」
カナエが指した場所は、あるはずの家は無く……何も無かった。
黒く、平に固められた地面に等間隔の白線が引かれ、入り口に大きな看板がある。
「駐車場になってますね、やっぱりこの世界は私の世界じゃないみたいです」
「なんだと!?」
「さっきからカナエが言ってたじゃないか。制服が見た事ないものばかりなんだそうだ」
「サチさん、静かだとおもったら……寂しかったんですか?」
カナエがニヤリと笑いながら、顔を覗き込んでくる。
「〜!!」
言葉にならなくて、カナエの頭を押し下げるようにグリグリ撫ぜた。
「サチさん!もう!痛い痛い!」
ヒロのあからさまにホッとした顔が見えて、自分も似たような顔してんだろうと思うと、撫でる手は止まらなかった。
「もう!……帰りましょう!」
身を捻って手を避けて、カナエが言う。
――お前も、ホッとした顔してんじゃねぇか。
ほらほら。と、手招きされて、ヒロと苦笑いの顔を見合わせて歩き出した。
3人並んだ影は凸凹だ。
まだ、この旅を続けていたい。
「……えっ」
でも、終わりは来る――。
「やっと……見つけた……!」
カナエは、少女に腕を掴まれていた。
少女は長い黒髪を二つに束ね、短く切った前髪の下にはくりくりと大きな目が、カナエを見据えている。
「いっ!!」
少女の指が、痛いくらいに腕に食い込んだ。
「私を……帰して……」
暗い、大きな目が、カナエを捕らえた――。




