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「乗馬がしてみたい、ですって?」
「ええ。一度だけでもいいので、乗ってみたくて」
「まあ、困ったわ。私ではそちらを教えるのは無理ね。誰か――ああ、居たわね。適当な人が……」
貴族の教養を一通り修め、そこに『高位貴族の夫人』として必要な知識を詰め込まれて、淑女教育は終了した。
あとは、毎日の復習と実戦経験だけよとクレーシア様から薫陶をいただき、最後に「やってみたいことは?」と尋ねられた。
ぽろりと唇から零れ出たのは、「馬に乗ってみたい」だ。
深く考えての希望ではなく、本当にするりと答えてしまい、クレーシア様を困らせてしまった。
たぶん、大公殿下とレイファ様の会話が頭の隅にこびり付いていたからだろう。
こんなに幸福で充実した日々が始まったというのに、私は心のどこかで――誰にも追いつかれることのない速さで、どこまでも走って行きたい――と渇望している。
私の我が侭を聞いたクレーシア様は思案した後、馬と教師役を用意するから少し待て、とだけ言って了解してくれた。
もっとも、その時浮かべていた笑みに何か含みがあるように感じたのは、私の思い違いではないはず。
短期間に何度も馬車に乗ったこともあり、馬には慣れた。長旅の休憩時に、御者の傍らで草を食む馬を眺めるのが楽しみのひとつだった。
はじめはその大きさに驚き、慣れてからは人のようにそれぞれに性格があると知り、穏やかな気性の牝馬の鼻先に触れさせてもらった時は、それはもう嬉しかった。
思いのほか艶やかで柔らかい感触と、長いまつ毛の奥の思慮深い瞳に、人に飼われていながらも誇り高い生物なのだと知った。
裏庭の奥にある厩舎に面する広場で、私はこれから少しの間だけお相手して貰う馬と向かい合っていた。
「あなたは、私を乗せてくださる?」
私の前に栗色の馬が立ち、じっと茶色の瞳で私を見つめている。怯えや警戒心は見えない。代わりに、興味を持ってもらえたようだ。
『不安に思っている。どうも妾の存在に気づき、なおかつ、エリーの経験のなさも察しているよう』
(精霊王様は、馬とお話ができますの?)
『向こうにその気があれば、な』
「私はこれから乗馬を習うの。教えてくれる方がいらしたら、あなたに乗って習いたいのだけれど、良いかしら?」
ブルルッと牝馬は低く嘶くと、私にそっと鼻面を近づけてきた。馬丁が手綱を引き、私は思わず後ろに退いたが、すぐにそれが好意的な馬の仕草だとわかった。そっと手の伸べて鼻先に触れて私を認識してもらった後、いつかのように撫で上げてみる。
「本当にあなたたちは大きなお顔ね。私の手では、撫できれないわよ?」
「鼻筋だけではなく、頬あたりも撫でてあげるといい」
私と馬の語らいの中に、その声はいきなり入り込んできた。
耳に心地よく感じる、穏やかな低音。
(あら? この声、どこかで……)
『ほほぅ。ようやっと現れおったか』
(お知り合いですの?)
『……自ら確かめてこそ、信頼が生まれるものだ』
私は少し意地悪な精霊王様とのやりとりをすますと、蔓ミティアの絡まるアーチから現れた男性を振り返った。
そこには、緩やかに波うつ金色の髪を掻き上げる、深い紫紺瞳が印象的な美丈夫がいた。上等な裏皮のマントを腕にかけ、似合いの茶と黒の服を着た彼は、大股ではあるがゆったりと優雅に歩いてくる。
「お待たせしたようで、すまない」
「いいえ……。あっ、あの」
接近してくるお客様を見て、途端に自分の頬が火照るのを感じる。それに、なぜだか彼から目を逸らせない。
「お、お初にお目にかかります。エリュミナ・ジュノーと申します。エリーと……お呼び下さいませ」
もう、何が何だか頭が混乱してしまい、相手が誰なのかもわからない内に挨拶してしまった。それが、また混乱に拍車をかける。
(ど、どうしましょう……どうしたら!)
『アハッハッハッ! ほんにエリーはネンネよのぅ』
(他人事だと思って!)
私の覚束ない挨拶を受けた彼は僅かの間だけ絶句すると、すぐににっこりと笑んでくれた。
「丁寧な挨拶をありがとう。しかし、俺と貴女とは初対面ではないんだ。だから、もっと気を楽にしてくれ」
「ええ!?」
「改めて名乗ろう。俺はジークヴァルド・レーブル。貴女を川から救い上げた者だ。ジークと呼んで欲しい」
「まっ、まあ!」
ジークヴァルド様は何でもないことのように告げると、姿勢を正して私の手を取り甲に口づけを落とした。
そこで飛び上がらなかったのは、ジークヴァルド様が私の命の恩人であり、その上、レーブル大公家のご子息に乗馬を教えてもらうなんてと、頭が大混乱を極めていたから。
何かお返事をしなければと焦り、ようやく唇を割って出たのは。
「で、でも、すぐに愛称でお呼びするのは……む……無理ですっ」
頬が強張り、呂律が回らず、きっと酷い赤ら顔になっている。
それを見ているジークヴァルド様は微笑み、いつまでも私の手をとったままもっと驚くようなことを言ったのだった。
「今は無理でも、早めに慣れてくれ。エリー、貴女は俺の妻になるのだから」
「え……? 私は……大公殿下の後添いに……ではないの……ですか?」
「それは誤解だ。父やレイファのせいだろうが、大公家がアラベル様の娘を望んだのは、俺の妻にするためだ。すでに伝えたと父は言っていたんだが」
「私が……ジークヴァルド様……?」
「ああ。そうだ」
そう言ってジークヴァルド様が頷いた直後、私は目を眩ませて倒れてしまった。




