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生き神  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第三部
13/15

3.大百足


「蝶!」


 食虫花の屋敷までの道すらも、胡蝶にとっては危険極まりない世界だ。

 人間の娘にでもなったつもりで歩けば、すぐに誰かに食い殺されるだろう。常に注意を怠らずに歩くことしばらく、ぴりぴりとした空気の中であたしの名を呼び止めてきたのは、見知った顔の者だった。

 蚕。絡新婦の使いがそこにいた。


「なぜ、城の外に……。その剣は……」


 驚きを隠せない彼に、あたしは訊ねた。


「屋敷は今、どうなっているの?」


 月が助けに行こうとしたあの日からだいぶ時間が経っている。耳にする報告からは食虫花が枯らされたという話や、見知った顔の誰かが犠牲になったという話は聞かない。しかし、この目で確かめなければ分からないことだらけだ。

 蚕はもの言いたげな様子だったが、それでも、あたしの問いには答えてくれた。


「あまり良くない。絡新婦様が隙を窺って食虫花の咲く部屋を糸の魔術で閉じてくださった。害されることはないはずだが、百足はまだあきらめていない。様子がおかしい相手なんだ。ただ食べるためならば、もう諦めたっていいはずなのに」

「〈蝕〉のような存在に害されているという可能性は?」

「だとしたら、君が駆けつけていい状況でもない。〈蝕〉の狙いは御日様と月様のはずだから……」

「この剣を見ても、同じことが言える?」


 剣を見せて笑みを浮かべると、蚕はますます困惑した。

 在りし日の少年の頃のような表情だ。子供の頃はこの人といつか結ばれるのだろうかと思った瞬間もあった。羽化した直後もそうだった。今やその感覚すら思い出せないほど昔の話である。あの日の頃のようには戻れない。それでも、今この瞬間の彼は、懐かしい少年が戻ってきたようだった。


「蝶……このことを、月様はなんと」


 真面目な表情で訊ねてくる彼の前で、あたしは剣を抱きしめた。彼が心配すればするほど、この先の道が険しいことが分かった。怖いのだろうか。震えているのは世界か否か。しかし、立ち止まっている場合ではなかった。


「月はきっと知らないわ。でも、太陽様がお許しくださった。これで満足?」


 突っぱねるように訊ねれば、蚕は小さく唸った。


「御日様がお許しに……?」


 と、その時だった。

 あたし達の周囲の木々が揺らぎ、細やかな糸が張り巡らされた。屋敷までの雑多な道が束ねられた糸によって一本に絞られ、あたしと蚕以外の誰にも介入できないような空間が生まれた。いや、〈誰にも〉というのは適切ではなかった。この場を仕切れるのはただ一人。だが、あたしは慌てたりしなかった。

 糸を伝って現れたのは女性。月の城に閉じこもっていては会う事の出来ない、古くからの友人であった。


「蚕を探しに来たつもりだったのだけど、思わぬ客人のようだね」


 小鳥のさえずりのような声でそういうのは、蚕の主人である絡新婦だった。

 あたしを真っすぐ見つめる彼女の表情は優れない。あたしの来訪を歓迎してはいないようだ。しかし、彼女だってあたしを止めるつもりはないようだ。あたしが手に持っている聖剣を見つけると、そのまま沈黙してしまった。


「絡新婦様」


 蚕が丁寧に頭を下げ、彼女に告げる。


「蝶は御日様の許可をいただいたのだと主張しました。いかがなされます?」


 その問いに、絡新婦は首を傾げた。


「何かある前にこのまま城まで送り届けたいのが本心かも。けれど、蝶、その手にある剣は、確かに月様の聖剣なのね?」

「ええ、そうよ」


 あたしは鞘に収まる剣を見せつけた。これを見誤ることがあるだろうか。ただの胡蝶に過ぎないあたしが偽の聖剣など持てるはずがない。ましてや絡新婦は魔女。ただの剣と政権の見分けぐらいつくだろう。


「月は外に出られない。だから、あたしが代わりに来たの。時間がかかってしまったけれど、皆は無事なの?」

「……月様の代理人ってわけか」


 呟く絡新婦に、あたしは強く問いただした。


「答えて、他の皆はどうしているの?」


 すると、捕食者らしく強い眼差しが帰って来て、少しだけ怯みそうになってしまった。


「数名が食われた」


 もたらされたそれは、非常によくない答えだった。


「蝶が知っている人かどうかは分からない。食虫花の隷属であった胡蝶の青年が一人、蜉蝣の精霊の男女が三人やられている。彼らを守ろうとした鳳も深手を負い、名も無き蝙蝠男も翼をやられている」

「……そんな」


 思っていた以上に悪かった。特に、蝙蝠の男が怪我をしているのが怖い。あの場で戦えるものなんてそんなにいないはずだ。その貴重な戦力を失っているということにはならないか。


「あちらは単体。だが、こちらにも援軍はない。魔女の旧友たちも食虫花を守る戦いに乗り気ではない。胡蜂すずめばちに蝗に蜻蛉せいれい、さらには野鼠の魔女もいるにはいるが、誰もが様子のおかしい百足を恐れ、食虫花にいい思い出がないようで、誘いに応じず、逆にわたしにもそれ以上深入りしないように助言をくれた」

「……そう」


 助けに来ない人たちを責めることは出来ない。

 食虫花は長くこの森を荒らしてきた。あらゆる魔女を捕らえ、食べることで力を奪ってきたのだ。魔術師の男性や人間さえも彼女の気まぐれで殺され、この森は狂気に満ちていた。そんな過去がある以上、邪を払われたと言われても、危険を冒してまで食虫花を助ける行動に出る気になれない気持ちは分かる。

 そもそも絡新婦が手を貸してくれていることだって、負い目はあるのだ。彼女も旧友を失った。食虫花によって花蟷螂は殺されてしまった。あたしのせいでもある。彼女にだっていつでもこの戦いを下りる理由が存在するのだ。


 しかし、だから何だろう。あたしは絡新婦の助けを前提としてここに居るわけではない。そう、守りたいものは何か。救いたいものは何か。食虫花を救うのはそれ自体が目的ではない。あたしは、どうしても、運命から月を取り戻したいのだ。その為ならば、前に進むことだってできる。


「援軍なんていい。これ以上の犠牲を出させるものですか。その為に、あたしは来たのよ。聖剣を借りてまで」


 踏み出そうとするあたしの前に、絡新婦は立ちはだかる。蚕はそんな主人を邪魔せぬように一歩後ずさりをした。


「聖剣は確かにありがたい。けれど、それを手にしている君は危なっかしい。分かった。追い返したりはしない。その代り、此処から先はせめてわたしの指示を参考にしてくれるか」


 頬に触れられ、あたしは顔を見上げた。

 絡新婦の目に浮かんでいる感情は、見下しでもなければ呆れでもない。ただ、彼女は心配していた。この人に捕まった日のことは忘れていない。この人が同胞の胡蝶を食い殺したことも知っている。蜘蛛の精霊は胡蝶を食べる。それでも、彼女の正体を知らずに過ごした日々は愉しかったものだし、彼女もまた無知なあたしの前では優しい姉のように振る舞ってくれた。

 月に命を救われてからは、あたしを無理やり支配しようとはしない。自分だけの胡蝶を二人も手に入れたあとも、彼女からは何らかの優しさを感じることばかりだった。


「分かった。貴女の指示を聞く」


 あたしが素直に頷くと、絡新婦はようやく肩の力を抜いた。



 怪我人が多数。そうは聞いていた。だが、実際にこの目にした鳳や蝙蝠の男などの怪我人たちは、思っていた以上に弱っていた。戦うなどということは出来ないだろう。一目で分かるほどだ。

 あたしの訪れを知ると、怪我人たちは驚いた様子で見つめてきた。どれも食虫花に魂を捧げてしまった者ばかりだ。自分たちの命を預かっている花を守りたい一心で無理をし過ぎたのだろう。その結果、数名が犠牲になったと聞いている。さらに怪我を負った彼らを狙って大百足が時折攻め込んでくるらしい。


 絡新婦の魔術で食虫花が封じられているのは屋敷の一階、西側にある大広間だ。月との最終決戦の舞台でもあるし、月を捕らえるための舞台として使われたこともあった。あたしにとっては、苦痛しかない思い出の場所でもある。そこは絡新婦が封じているらしい。百足が入り込めぬように、あらゆる窓や扉が糸の魔術で閉じられている。そのうえで、食虫花の隷属の中でも戦えるものたちが守っているそうだ。

 一方、ここは客間として使われていたと思われる一階の広間。大広間のある反対側――東側に位置する。怪我人を看護するのに適切な場所がここしかなかったらしい。二階以上は大百足がうろついている。食虫花の隷属達は、いつでも外に逃げ出せる一階を好んでいるらしい。しかし、怪我を負って逃げ出せないものは、どうしたらいいのだろう。

 聖剣を胸に抱きしめながら、あたしは一人考えた。


「蝶……お嬢様」


 深手を負い、森の者らしく簡素な布で傷を覆われた鳳の姿を見つけ、様子を窺った。意識はしっかりとしている。あたしのことも分かるようだ。しかし、その目は虚ろで、疲弊しきっているのが分かった。


「鳳、傷は大丈夫?」


 同胞のためか、いくら食虫花の一番のお気に入りであっても彼女を憎むことは出来ない。姉である大紫が付き添っている。仕えるものが違えても、姉妹の関係は維持されているらしいと分かった。


 ――せっかく平穏さが戻っていたのに……。


 台無しにした大百足への反発を覚えていると、鳳の手が伸びてきた。あたしの持つ聖剣におそるおそる触れ、怯えた目をこちらに向ける。


「これは……月様の剣……」

「月は今お城にいる。代わりに助けに来たの。だから、安心して」


 傷に落ち込む鳳の心を慰めようと声をかけると、離れた場所で同じように驚くものがいた。


「月様の剣が……」


 蝙蝠の男だ。食虫花に長く仕えてきた彼もまた、治りきらない傷を抱えて手当を受けていた。薬草や魔術。そんなもので治すしかない状況だ。それで間に合うのか。大丈夫なのか。とても不安だった。

 だが、蝙蝠の男は、はっきりとした意識のなかでこちらを見つめてきた。


「お助けくださる、ということか」

「月はもとよりそのつもりだったわ。食虫花に何かあれば、此処に居るたくさんの人の命が多数失われてしまう。自然の掟からしても不自然な数なのよ。そんなこと、大地の女神ならば放っておけるはずがないでしょう?」

「――御日様が御咎めになったと聞いたが」


 腑に落ちないといった様子で蝙蝠の男はそう言った。変なところで目敏い人だ。その呟きには答えず、あたしは周囲を見渡した。見知った顔がいくつかある。華の遊び相手である野生花のお姫様も此処に居る。彼女の保護者である蝙蝠の王子様はいなかった。見張りにいっているのかもしれない。他には、いつか地下牢で顔を合わせた胡蝶たちが数名。浅葱と名乗った女性を含め、この場にいない顔もいるのが恐ろしい。ついでに言えば、野生花の少年もこの場にいなかった。


「此処に居ない人たちは、全員が食虫花の部屋を守っているの?」


 当てもなく問えば、傍にいた絡新婦が頷いてくれた。


「そのはずだよ。食虫花の隷属の中でも一番長く彼女を知っている人が傍にいる。蝙蝠の王子様とやらに加え、頑固な野生花の少年が一緒だから少しはマシだろう」


 王子様と少年。二人はやはりそちらか。食虫花のことを一番長く知っているとしたら、前に此処の地下で会話をした浅葱だろう。食虫花の本来の姿から、変貌していくまでを見届けた旧友。長く生きている胡蝶の女性。彼女もまた今の食虫花の心を聞き出そうとしているのかもしれない。

 だが、絡新婦は彼らに期待していない。当然だ。彼らは魔女でも魔術師でもない。浅葱はまやかし程度に食虫花から受け継いだ力が使えるだけだろうし、王子様と少年に至っては、各々の武器を駆使してどうにか戦うくらいだ。相手は百足。それもたった一人で多くの人々を混乱させているような大百足だ。ここまで抵抗されて諦めずにこの場に居座るのは何故なのか。それを考えだしたら、今のこの状況で人手が足りないことも歯痒いものだろう。

 それでも、絡新婦はどうにかこの場を仕切っていた。他の魔女の力が借りられずとも、勝利を掴み取るべく必死なのかもしれない。ここまで彼女が力を貸してくれるのは何故か。やはり、月に命を救われた恩義からなのだろうか。


「同志から連絡が入りましたわ」


 花のお姫様の声が突如響き渡った。


「大広間の番をしている野生花の少年からです」


 花同士の会話だ。あまりいい予感がしない。


「話して」


 絡新婦の短い言葉にうなずき、お姫様は言った。


「大百足が現れました。こちらではなく、この屋敷の主を狙っているとのこと。大広間を守る者たちが戦っているそうです」

「分かった。すぐ向かおう」


 動き出す絡新婦に真っ先について行った。

 いよいよだ。胡蝶が背負うには重たすぎる役割かもしれない。それでも、これは、あたし自身が望んだことだ。太陽にも宣言した。たとえ命を失ったとしても、後悔はしない。

 月の雫の手がかりを食虫花が持っているかもしれない。無駄足だったとしても、守り切ることには意味がある。その為ならば、大百足を退ける大役を担う事だって出来る。


「蝶」


 戦う者たちともども、部屋を出る前に、そっと絡新婦は言った。


「決して、無理をするんじゃないよ」


 それは、これまで聞いてきた彼女の声の中でも、とても優しい口調のものだった。



 大広間まではすぐそこだ。向かい始めてすぐに、狭く朽ちかけた廊下でうねうねとした巨体がうごめいているのが見えた。

 怒声は聞こえる。だが、巨大な体に阻まれてあまり響いていないかのように思えた。あれが、大百足というものなのか。

 背後から奇襲をかけることも敵わず、大百足は振り返る。そこへ、部屋を守っていた食虫花の隷属の一人が飛びかかった。不意打ちだ。だが、あまり意味はなかった。大百足は悠々と体をひねってそれをかわし、巨大な体で叩きつけてみせた。

 その姿は、百足そのものだ。胡蝶や絡新婦のように人の姿を借りてはいない。しかし、異様な気配は感じ取れた。彼もただの百足ではなく精霊の仲間。その気になれば、あたし達のように人間のような姿にもなれるのだろう。

 それでも、百足のままの姿で、彼はにやりと笑った。


「挟み撃ちとは面白い。来るがいい、蜘蛛の魔女め」


 不気味なほどに余裕のある態度だ。しかし、絡新婦は怯まずに糸の魔術を放った。しかし、糸は大百足の身体を拘束するに至らず、鋼でも使われているのかというほど強靭な体で弾き飛ばされてしまった。

 同時に、飛び込んでいた勇敢な蜻蛉の一人が突き飛ばされた。きっと食虫花の隷属だろう。見覚えはないが、そう思えるまでに冷静さを失っている。主人に魂を縛られた動きだ。わが身を顧みていない攻撃だったが、百足には通用しなかった。


「煩わしい。食い物が多いのはありがたいことだが、数が多すぎると黙らせるのに苦労するものよ」


 百足の向こうで王子様と少年が身構えている。しかし、彼らが持っている武器も、この調子だと通用しなさそうにも思えた。この強靭さは一体何なのか。不気味さは消え去りそうにない。だが、怯んでいいわけではない。

 鞘から剣を抜き、あたしは百足王の前へと出た。

 百足の精霊は胡蝶をあまり好まない。もっと栄養のある蝙蝠や蜘蛛、蟷螂といった精霊の方を好むらしい。彼らにとってあたしのような存在は釣り餌でしかない。そんな存在をどうして恐れるだろう。それでも、彼の目はすぐに警戒の色を示した。あたしの手に持つ剣の異様さに気づいたのだろう。


「貴様は……」


 その目があたしの鎖骨辺りに向けられる。


「月の紋章。なるほど、貴様が蝶か。想像していたよりも貧弱な小娘だ。年相応のたくましさに欠けるのは、やはり人の手が加わったせいと見える。しかし、健康的な肉体は、さぞかし栄養のあるものなのだろうなぁ」


 分かりやすい脅しだ。このまま飛び込んでくることがないか警戒しながら、あたしは毅然とした態度を守りながら彼に向き合った。


「大百足」


 声は震えたりしなかった。


「それでも、あたしを見て目の色を変えた。貴方が気にしているのは月の印なんかじゃない。この剣でしょう」


 見せつければ、やはり動揺を感じた。

 人間たちの作り出す鋼のような体を持っていたとしても、特異的な力の宿る聖剣のことはやはり恐れるのだろう。在りし日の食虫花と同じだ。異質な力を持ちながら、月の大地を踏みしめている以上、月に裁きの力を与える聖剣はやはり怖いと見える。

 それでも、大百足はすぐさま笑い飛ばした。


「剣が怖いだと? ああ、怖いに決まっている。それは月様の裁きというわけだ。俺のやっていることは罪となる。この屋敷をこれ以上荒らすことを女神は望んではない、そういうわけだな」


 落ち着いた様子で述べる彼に、少しだけ緊張が解けた。


「此処は月の意向で守られた場所。正当な狩りならば誰も文句は言えないでしょう。けれど、月が守ると決めた花に手を出そうとするのは――」


 そう言いかけたときだった。

 ふいに背後から何かに引っ張られ、あたしはその場に転んでしまった。何が起こったのか一瞬分からない。だが、目の前の床を百足が噛みついているのが見えて、徐々に、どういうことなのか理解できていった。


「蝶!」


 転んだあたしを庇っているのは絡新婦だ。彼女の視線はまっすぐ百足を睨み付けている。ああ、あたしは彼女に助けられたのだ。糸で引っ張られたおかげで、百足に噛みつかれずに済んだのだ。

 塵を食らい、埃を食らいながら、百足は笑ってみせた。


「小腹を満たす程度に楽しもうと思ったが、無粋なものよ」


 話し合いなど端から無理なのだ。聖剣を見せつけて戦意を削ぐことも出来ない。あたしがそう察したとき、反対側から少年と蝙蝠の王子様が同時に駆けだした。手に持っているのは簡単な武器。少年が持っているものに至っては、人間が作り出したものですらない。それでも、彼らの奇襲は合図となった。両側から挟み込む形で一斉に百足に襲い掛かったのだ。

 遅れてあたしも立ち上がった。聖剣は力をくれるはずなのだ。強靭な体を貫く力がある。脅して分からないのなら、実際に分からせるしかない。


「覚悟!」


 聖剣を手に、あたしも続いた。

 絡新婦の糸の魔術が廊下に張り巡らされる。それらはあっさりと百足に引き裂かれてしまうが、全く役に立っていないわけではない。仲間たちは蜘蛛の糸をうまく利用しながら百足に襲い掛かる。体を四方から傷つけられ、痛くないはずがない。だが、どういうわけか、百足は全く気に留めていなかった。


「そう急くな。一人ずつ仲間のもとへ送ってやろうぞ」


 その宣言通り、彼は焦ることなく一人一人を確実に捕え、噛みつき、戦えないようにしていた。あっという間に三人が戦闘不能になった。どれも、食虫花の隷属達だ。主人が狙われているとあって、無理をし過ぎたのだろう。とどめを刺されるわけでもなく、彼らは廊下に倒れ呻いていた。

 このまま全員が負けてしまえば、食い殺されてしまうだろう。そんな焦りのもと、次に捕まったのは野生花の少年だった。


「無力な花のくせに邪魔な奴。貴様なんぞ食うところもない塵屑よ。だが、せめてスパイスとして使ってやろうか」


 挟まれて身動きの取れない少年を、さらに締め上げる。その一瞬の隙をあたしは見逃さなかった。聖剣を手に彼の背後に回り、思いっきり突き立てた。全てのものの攻撃を弾き返していたあの殻は、確かに硬いものだった。しかし、聖剣までも弾けるほど、彼も化け物などではなかったらしい。

 強い衝撃が手に伝わり、強い抵抗と叫びが生まれた。


「くっ、こいつめ……胡蝶のくせに生意気な……」


 少年を放し、大百足は暴れだす。聖剣を手放して逃れようとしたが間に合わなかった。恐ろしく不気味な百足に捕まり、あたしもとうとう震えてしまった。彼が本気を出せば、掴まれている胴のあたりから真っ二つにされてしまうかもしれない。一度生まれた怯えはなかなか引っ込まず、あたしはただ目を白黒させて百足の顔を見つめていた。

 聖剣は彼の背中に刺さったままだ。通用しなかったわけではない。彼の息遣いは荒く、恨めしそうな目があたしを睨み付けている。


「月の妾……貴様も……道連れだ」


 大きな牙を剥けて、飛びかかって来た。

 剣を手放した今、あたしには牙がない。迫りくる脅威を見つめているしかなかった。このままあたしは殺されてしまうのか。道連れにされてしまうのか。疑問が鎖となり、あたしの思考は縛られていた。

 そんな時だった。


「蝶、こっちだ!」


 絡新婦の糸があたしと大百足を阻み、突き抜けた。牙をかすめたその糸の強さはただの蜘蛛のものでは決してない。聖剣の苦しみと糸による衝撃で、大百足は苦しみもがきだした。見ているこちらが哀れに思ってしまうほど、彼はのたうち回り、次第に動かなくなっていった。


「く、くそ……体が……動かな――」


 痙攣する巨体から何かが漏れ出してきた。黒い靄のようなもの。見覚えのあるその気配は、戦ったあたし達の前に一瞬だけ姿を見せると、あとは空気中に散っていった。

 あれはやはり〈蝕〉なのだろうか。

 脅威は消え去らず、常に月を狙い続ける。月の都合など考えることもなく、生まれてきた意味のためだけにこの大地の終わりを願う。

 あたしにはそれが悪意の化身にも思えた。

 生き物は純粋な心を持っている。純粋に己の生存を願い、それは時に混じりけのない悪意に変化する。百足もそうやって〈蝕〉というものに接触されたのだろう。

 聖剣によって黒い靄が離れた大百足の身体は見る見るうちに縮んでいき、やがて小さな虫けらとなった。精霊としての力も失い、小さな虫としてその場に気絶しているらしかった。あたしがつけた傷はない。聖剣は彼の傍らにて不気味なほど沈黙していた。


「終わった……」


 蝙蝠の王子様の気の抜けた声がやっと響き、我に返ったように誰かが走っていった。次第に賑わいを取り戻していく屋敷の中で、あたしは落ちた聖剣を拾い、じわじわと実感した。

 勝てた。

 ただの胡蝶であるあたしが、百足に勝つことが出来た。戦うことが出来た。きっと月のように強くはないだろうけれど、絡新婦たちのように立ち向かうことが出来たのだ。何故、ここまで勇気を出す必要があったのか。それを思い出し、すぐに大広間へと向かう。

 この勝利が導く先は何か。すべては守られるしかない存在となり果てたかつての罪人が知っている。

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