4.月の雫
◇
食虫花は静かに咲いていた。
大広間は蔓に満たされ、足場はでこぼことしている。だが、昔のように歩くものを揶揄った動きはみせない。すべてが沈黙している。動き出しそうで全く動かない。喋りもしない。それでも彼女は生きているのだ。月の森の木々草花のように、微かな感情をひそめながら生きている。
そこには在りし日の恐ろしい魔女の姿はなかった。この姿であっても胡蝶は栄養になるのだろう。しかし、分別のないただの虫ならばともかく、理性ある精霊たちを捕らえられるほどの力は、もう何処にもなかった。
そんな食虫花に寄り添うように立っていたのは、あたしが予想していた通りの女性だった。浅葱。そんな名前の彼女は、冷静に大広間の外で起こったことを理解し、静かにあたしに頭を下げてきた。
「月の使者様」
かつて地下で言葉を交わした時よりも遥かに礼儀正しい振る舞いだった。
「主人に代わって感謝いたします。貴女がいらっしゃらなければ、我々はきっと残らず大百足の腹の足しとなっていたことでしょう」
「……浅葱」
「この神聖な場に居合わせることをどうかお許しください。今の食虫花様には魂を分けた隷属の寄り添いが必要なのです」
物静かな眼差しは、決して不快なものではなかった。
浅葱に頷き、あたしは恐る恐る食虫花に近づいた。人間の姿をしていた時とは全く違う様子のその体にそっと触れてみる。
この姿は何度も目にしてきた。月の城の者たちの目を盗んで屋敷を訪れる度に、遠目ながら鳳の案内と共に会って来たのだ。その中で、あたしが彼女の言葉を聞けた試しはない。
あたしの抱える恐怖のためか、真面目に向き合っていなかったためか、はたまた彼女にはもうそんな力すら残っていないのか。
理由がいずれにせよ、試してみなくては。守り切ったのには明確な理由がある。すべて、あたしの願望によるものだ。月を救いたい。救う方法を知りたい。どうしても、あの美しい人を諦めることが出来ない。
「食虫花」
名前を呼んでも大した反応は帰ってこない。
「教えてほしいことがあるの」
逸る気持ちを必死に抑えながら、あたしは希った。
「〈月の雫〉について教えて。貴女の知っている知識をちょうだい。どうしたらあたし達は月を失わずに済むの。どうしたら、〈月の雫〉を手に入れることが出来るの。貴女の知っていることをどうかあたしに教えて」
呪文でも唱えるような気持ちだった。
だが、魔女に弟子入りしたことすらないあたしには、聖剣が扱えても魔法は使えない。力のないあたしの呪文はそう簡単に作用しなかった。手を触れて、じっと意識を研ぎ澄ませても、食虫花の声は聞こえてこなかった。
やはり、過ぎた夢だったのだろうか。
隷属達でさえ正確に認識できないかつての魔女の心を覗くなんて、あたしなんかに出来ることではなかったのだろうか。
一度期待した中での落胆は思っていた以上に苦痛だった。涙を流さぬように必死でつばを飲み込み、食虫花の身体から手を放そうとした。ちょうど、その時のことだった。
――雫。
一瞬だけ、女性の声が聞こえた気がした。
あたしの覚えている食虫花の声とは違う。しかし、同じ人の声なのだろう。物言わぬ花を見つめてみれば、まるで語り掛けてくるようにあたしに花弁を見せている。
「食虫花……?」
もう一度問いかけてみようと手を伸ばすと、そのあたしの指先に向かって花弁の中心から一つの雫が落ちてきた。
蜜だ。
しっとりとしていて、すぐに肌に馴染んだが、直感的にそう思った。
誘っている。毒の誘いかもしれない。食虫花たちの誘いを受けた虫たちは、時折食べられてしまう。だが、理性では分かっていても、誘われてしまうのが虫の性なのだ。そのくらい魅惑的な香りを彼女は持っている。
――あたしに蜜吸いを求めている。
そう気づいた途端、葛藤が生まれた。
浅葱が見守っている中、恐怖と欲望と理性のはざまであたしは迷っていた。食虫花が何故、あたしに蜜を吸われたがっているのか分からない。しかし、ほんの少しの差で勝ったのは欲望だった。
月に死んでほしくない欲望と同じもの。
食虫花の蜜に吸い寄せられえるように顔を近づけていけば、これまで嗅いだことのない不思議な香りが放たれていることに気づいた。
これは、罠ではない。さんざん嗅いできた誘惑の蜜ではない。もっと違うものに思えた。そう、たとえば華がくれるような類のもの。
物言わぬ花のもっとも大切な場所に口づけをしてみれば、途端にその不思議な蜜はあたしの身体に馴染み、じっくりと溶けていった。貪欲な胡蝶であるあたしさえも、ほんの一瞬のキス程度で満たされてしまったのだ。
これは何なのか。何の蜜なのか。
「月の雫……」
黙って見守っていた浅葱が、主人を見上げながらそう言った。
「貴女に託したと、食虫花様が仰っています」
ああ、これが。
襲い掛かりもしない食虫花の身体に頬をつけながら、あたしはその味に浸っていた。
月と共に過ごした夜、溢れるほどの愛と共に彼女は教えてくれた。
月の雫は魔女が生み出す。その魔女は女神の慈愛を受けたもの。その体が器となり、月の雫は生まれるのだと。
月の女神に雫を飲ませよ。雫はあたしの身体に馴染んでいる。こういう時はどうすればいいのか、胡蝶の本能があたしに囁いた。
とても甘く、とても悩ましい。
「ありがとう」
物言わぬ魔女は静かに咲いている。
「貴女の想い、大切にするわ」
もうこの世には、あたしの恐れていた魔女など何処にもいないのだろう。
◇
城に戻ってみれば、人間たちは皆、慌ただしくあたしを迎えてくれた。
食虫花の屋敷でのあたしの行動はいつの間にかあの場に忍んでいた日華によって一足先に太陽や華へと伝わり、城の者たちにも伝わっていたらしい。どうやら散々心配をかけたようだ。
ただ太陽だけが平然とした態度で迎え入れ、華もまたほっとしたような表情をしていた。太陽以外の誰にも言わずに抜け出したあたしを咎める者は勿論いる。しかし、反省は少しに留めて、あたしはさっそく太陽に申し出ようとした。
だが、その前に太陽の方があたしに向かって言った。
「月は眠っている」
大声ではないのに玄関中に響く。
「この数時間のことを、彼女は知らない。悟られる前に、私が眠らせてしまったから。古の勇者の再来よ、貴女にはほんの少し、寝台で眠る月に触れる権利を授けましょう。どうすればいいのか、それは自分で考えて」
執事と女中頭をはじめとした人間たちは、何も言わなかった。あたしの行動を咎めたい気持ちはまだまだあっただろう。しかし何よりも太陽が咎めていないこと、そして、あたしの行動が月の生存につながるかもしれないという想いが、彼らの気持ちを抑え込んでいたのかもしれない。
真実は何にせよ、あたしはすんなりと月のもとへと向かうことが出来た。
寝かされている彼女のなんと美しいことだろう。ここしばらく、太陽が彼女を独占していることが悔しくて仕方ない。しかし、思い返せば、もう何年もあたしは彼女の寝顔を独占してきたのだ。
彼女を失いたくない。
その思いが、あたしを駆り立てた。
もともと無鉄砲なところがあることは自覚していた。その自覚が役に立ったことはあまりない。無鉄砲さは月をさんざん不安にさせたことだろう。羽化して数年経っても、あたしの精神は未熟なままだ。大人になったという自覚は少なく、そのために諦めるという事が出来なかったのだろう。
けれど、あたしが何と思おうと、時間は止まらない。どんな者にも平等に老いや死は与えられる。不老の女神である太陽だって、いつか死んでしまう日が来るかもしれないと言われている。
「月」
眠っている彼女に、あたしはそっと語り掛けた。
反応はない。太陽が何かしたのだろう。城を飛び出したあたしのことで月の心身に悪影響が出ないようにという計らいなのかもしれない。もしそうであるならば、彼女が目覚めたとしても、あたしは何も言う事はない。
ただ、眠っている今は語り掛けても罪にはならないだろう。
「あたし、勝ったんだよ。貴女の聖剣を使ってしまったことをどうか許して。でも、勝ったの。大百足から皆を守れた。そして、食虫花から受け取ったの。貴女が探していたもの。あたし達が探していたもの」
涙と震えが同時に生じた。
これがきちんと効いてくれるのか。伝説は果たして本当なのか。分からないことはたくさんある。不安が消えているわけではない。真に安心できる日は、月が娘を産んでからも、笑ってあたし達と話せる日常が帰って来てからのことだろう。
この世界は広い。神様にさえ制御できず、分からないことだってある。太陽さえも月の命運は分からないだろう。でも可能性はある。それだけが今のあたしにとってどんなに有り難いことだろう。
――月の雫を女神に。
どうすればいいのか、あたしは直感で分かった。
眠っている月はまるで花の精霊のようだ。森で見かけたどんな花よりも気高く、美しい。華のことが月の妹か実の娘のようにさえ思える。胡蝶にとってこれほど魅力的な花が存在するだろうか。
もちろん、月は花ではない。華が常に体に秘めているような、魅惑的な蜜など持っていない。しかし、眠っている月を見つめているうちに、あたしは彼女と蜜吸いをしたくなった。眠りの精霊に囚われ動けない花を襲う胡蝶はたくさんいる。あたしだってそういうことをしたことはある。きっと夢魔のようだろう。その欲望のままに、あたしは月の顔に唇を近づけた。
ああ、蜜吸いのようでいて、これは蜜吸いではない。唇を重ねた瞬間に、そう悟った。きっと導かれたのだろう。どうすればいいのか知っているのは、あたしではなく食虫花から授かった〈月の雫〉であったのだろう。
眠り続ける月に接吻を。
すると、体の中から何かが流れ出していった気がした。その何かは宿主をあたしではなく月へと変えてしまうと、まるで最初から何もなかったかのように消えてしまった。
体の熱りが消えたことで、今まで熱があったことに気づけた。冷静になったあたしは、不安のままに月を見つめ続けた。これで、〈月の雫〉はきちんと渡せたのだろうか。
そんなあたしを安心させるかのように、月は目を覚ましてくれた。
「……蝶? どうしてここに?」
寝台に眠りながら月は夢うつつの状態であたしの頬に手を伸ばす。その温もりをしっかりと味わいながら、あたしは彼女に微笑みかけた。
「太陽が入っていいって」
「太陽が――」
そしてはっと目を開けると、彼女はすぐに起き上がった。
目を丸くしたままあたしの姿を見つめ、頬から鎖骨にかけてそっと触れていく。確かめるようにあたしの姿を見つめると、月は深くため息を吐いた。
「夢だったのかな」
月は言った。
「君が居なくなったと聞いたんだ。危険な場所に一人きりで行ってしまったって。でも、太陽が何も心配するなと告げて、眠りの魔法にかけてしまったんだ……おかしいね。君は此処に居るのに」
そう言ってもう一度あたしを見つめ、不思議そうな目をした。
「……あれは本当に夢だったのかな?」
あたしは答えずに月に寄り添った。
嘘をついてでも安心させるのが賢い胡蝶なのだろう。けれど、月を前にすると嘘をつける余裕もなかった。こうして甘えられるのも久しぶりだった。緊張は完全に溶け、ずっと我慢していた涙が少しだけ零れ落ちていった。
「蝶……」
「何でもないの」
月に縋りつきながらあたしはそう言った。時間が過ぎ去り、月は子供を産む。今日のこの出来事に効果があるのかどうかはっきりとした答えが出るのはその時だ。
まだまだ先のこと。けれど、来てしまえばあっという間のものだろう。その前に、あたしは存分に甘えておきたかった。きっと今日からもまたあたしは一人きりで眠ることになるはずだから。
「何でもないの……」
しかし、月は自分の胸にそっと手を当てると、あたしから目を逸らした。彼女が何を考えているのかは分からない。ただ意識はだんだんとはっきりしてきたのだろう。夢うつつの状態は治まり、いつもの冷静さが戻って来た。
「そうか、やっぱり夢じゃなかったんだ」
寝台のシーツを握りしめ、月はそう呟いた。
「私の聖剣を手にして城を飛び出したのだと聞いた。ああ、確かに聞いた。あれは夢じゃない。すぐに追いかけなくてはと思った。だが、太陽の魔法で眠らされて……」
はっと彼女は顔を上げた。
「この感覚……蝶、君は……君は食虫花に会って来たのか?」
真っすぐ問われ、あたしは観念して頷いた。
「大百足を追い払ってきたの。食虫花が死んでしまっては困るでしょう。勝手に聖剣を持ち出して、危ないことをして御免なさい。今日みたいなことはもう二度としないと――」
言いかけたとき、身体が月の手によって引き寄せられた。その強い力に怯んでいると、温もりある抱擁がもたらされた。包み込むようなその心地良さに茫然としているうちに、あたしは気づいた。
月が泣いている。
「本当に」
震えた声で彼女は言った。
「本当に無茶なことばかりして。……けれど、君は私が思っていたよりもずっとたくましい胡蝶だったんだ」
「……月」
「目覚める直前、天使のような存在にキスをされた気がした。その感触は妙に明るいものを私にくれたんだ。何故だろうね、一年後も、二年後も、君とこうしてゆっくり喋る未来が待っているかのようで……」
ああ、月は自覚している。あたしの口づけがもたらした〈月の雫〉を不正確ながらに感じ取っている。
「すべては運命のみが知ることだ」
落ち着いた声で月はそう言った。
「でも、信じよう。一年後の今頃、私はきっとこの城で君たちと共に娘の成長を見つめているのだと」
その目は絶望なんてしていなかった。
伝承が正しいとは限らない。起こってみなければ、何も分からない。この先、どうなってしまうのか。月が望む未来は訪れるのか。誰もが奇跡を信じて月の女神の存命を願い、そして裏切られてきた。先代の月だってそうやって命を落としたのだ。残されるしかない者が希望ばかりを持つのは恐ろしい。でも、月がこうして絶望せずにいるのなら、あたしだってそうしたい。
それから日が落ちるまで、月はあたしを抱きしめてくれた。時間の許す限り、思う存分、女神を独占することが出来て、とても幸せだった。




