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生き神  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第三部
12/15

2.弱き者


 聖剣が飾られているのは、主人を失った月の書斎の壁である。いつも月が手紙を読んでいた机は、恐ろしく綺麗に片付けられて沈黙している。その他の物も同じだ。月が毎日使っていた日がまるで遠い昔かのように寂れている。

 この部屋は開放されている。女中頭や執事があたしの為にそうしてくれたのだ。二人をはじめとした人間たちは、皆、あたしに優しい。月の未来を悟っているからこそ、もっとも月と身近に接してきたあたしに対して憐れんでいるのかもしれない。有り難い気もしたし、悲しい気もした。あたしに不必要なほど優しくするということは、誰もが月の未来を諦めているということ。そう思えたからだ。

 しかし、今は感謝しかなかった。

 こうして開放しておいてくれたから、あたしは誰にも知られずに此処に入れる。寝室だけを開放することも出来ただろうに、書斎まで開けておいてくれた理由は分からない。でも、そのお陰で、あたしはこうして聖剣の前に立つことが出来ているのだ。


 ――聖剣……。


 手を伸ばすのも躊躇われるその勇ましさ。鞘に収められていたとしても、神々しい雰囲気は伝わって来た。この剣の真の力を引き出せるのは月だけだ。どんな剣豪もまともに扱えない。

 しかし、あたしと華は違う。月の印と呼ばれる刺青が体に刻まれたその時から、あたし達には月の力がほんのわずかながら宿っている。この剣もそれに反応し、少しくらいなら力をくれるそうだ。そう、藁を一つ刈れるくらいには。

 威力が何だというのだろう。問題は、刈られた藁にもたらされる影響。月の力が裁くのは、刈られたものが月にとってどういった者なのかということ。


 これは、絡新婦が教えてくれた知識だ。女神に牙を剥くものほど聖剣を恐れるものだ。だから、聖剣の力を少しでも使える者がいるならば、それは脅威にもなり得るのだと。

 そう、現在、食虫花の屋敷で暴れているのだという大百足もまた、自分が月の意思に逆らうものだと自覚すれば、聖剣を恐れるはずなのだ。問題があるとすれば、その大百足がどのくらい理性を保っているかという事だろうか。


 ――それと、聖剣が本当に力を貸してくれるのかってことも。


 何にせよ、それは聖剣を手にしてみなければ分からないことだ。迷っている暇はない。絶好の機会を逃してはならない。月はあたしを止められないのだから。

 意を決し、聖剣へと手を伸ばしたその時、その手を背後より掴む者が現れた。突然のことに背筋が凍った。だって、さっきまでは誰もいなかったはずなのだ。どうして、いつの間に、考えている暇はない。振り返って、掴んだそれが誰なのかに気づいたとき、あたしはさらに恐れおののいた。


「太陽様……」


 悲鳴のような声が喉に引っかかる。こちらを見つめてくる太陽は、非常に落ち着いた様子であたしの手を掴みあげた。痛みに震えるあたしの顔を、月のものとは全く違う煌々とした目がのぞき込んでくる。


「こんなにか弱い胡蝶のくせに、剣を手に取り戦うつもり?」


 鋭い声で言われ、言葉に詰まった。

 自分の力では太陽の拘束すらも振り払えない。確かに、あたしは貧弱なのかもしれない。剣を手にする資格すらないほどに。それでも、太陽の威圧的な眼差しは、あたしの心を逆撫でするものだった。


「戦うわけじゃない。生憎、はったりは得意なの。どうせあたしは森育ちの胡蝶よ。華のようにおしとやかで嘘が苦手なわけでもない」

「魔女に騙されて食い殺されそうになった貴女が、人を騙すのが得意だと、そういうの?」

「ええ、そうよ。あたしには強運もついている。月に出来なかったことだって、あたしになら出来るかもしれないじゃない」

「強運ね。私に見つからずに城を抜け出すことすら出来なかった貴女には、大した運がついているのでしょうね」


 皮肉めいたことを言われ、眩暈がした。何か言えばすぐに封じてしまう。言葉だけで太陽には敵わないような気にさせられていた。

 でも、いけない。こんなところで諦めているようではいけない。


「誰かが行かなくては。聖剣があればあの場所の百足も楽に追い払えるはず。ついでに食虫花の言葉を聞いてみたいの。聖剣の力も借りれば、もしかしたら、食虫花の声ももっと深く聞けるかもしれない」

「食虫花は貴女の命を奪おうとした。ただの花になっていようと、貴女にとっては恐ろしい存在に違いないはず。そうでしょう?」


 そう言って、太陽はあたしの身体に触れた。正確には、あたしの身体の傷跡に。食虫花にひとつひとつ付けられたあの日の記憶は封印している。しかし、太陽に触れられた途端、蓋でも開けられたようにその光景が頭の中を駆け巡った。


「や……やめて!」


 慌ててその手を振り払うと、嘘のように光景は消えた。

 だが、脅威は去らない。太陽はあたしの姿を見つめたまま、立ち尽くしていた。あたしを壁際に追い詰めるように。


「百足は胡蝶も食べる」


 太陽は言った。


「食い殺されるというのがどういうことか、賢い貴女は分かっているわよね。深い闇の中に飲み込まれ、二度と光を見ることは出来ないまま崩壊していく。そんな最期を迎えたくはないでしょう?」


 あたしは、長くここに養われてきた。

 森生まれの森育ちで、羽化するまでは混沌とした世界を運だけで生き延びたのは確かだ。羽化したあとだって、危なっかしい日常を繰り返し、食虫花の罠にかかるあの日までは、知恵ある胡蝶として過ごしてきたのだ。

 しかし、あたしは月に保護された。保護されて、此処に飼われるようになって、長く経ってしまった。弱肉強食の感覚を忘れてしまうまでに。


 百足はどうしてあの場所にとどまっているのか。食虫花に手を出そうとしているのは、それを阻止しようと群がる精霊たちを食べるためだ。もしかしたら、もうすでに犠牲となった者もいるのかもしれない。そんな場所に飛び込んで、百足の邪魔をするという事は、あたし自身も危険な目に遭うという事。

 忘れているわけではない。もちろん。でも、命を狙われた時のことを思い出すと、思い出したように身が竦んでしまうのは何故だろう。


 ――それでも。


 息を整えつつ、あたしは改めて太陽を見つめた。こんな脅しで諦めるほど、あたしにとっての月はどうでもいい存在じゃないのだから。


「そこまでして、月を生かしたいのは何故」


 太陽はあたしに訊ねてきた。


「恐怖を忘れてまで、食虫花を救おうとするのはどうして。貴女がそこまですることに何か理由はあるの? 月の願いは貴女の身の安全。自分より先に、貴女の身に何かあったとしたら、どれだけ悲しむことか」

「……だとしても、あたしは行かねばならないのです」

「それは、どうして?」

「だって……」


 月は、あたしを助けてくれた。月は、あたしを拾ってくれた。月は、あたしを守ってくれた。月は、あたしを愛してくれた。

 あたしは月に何を返せただろう。

 助けてもらうのが当たり前だった。守ってもらうのが当たり前だった。けれど、食虫花との戦いで劣勢になっている月を見たあの時、それではいけないのだと強く感じた。

 月が動けない時は、あたしが動かないと。

 もちろん、力の伴わない勇気は蛮勇にしかならない。無謀さに振り回されているようでは、月の心をむやみに傷つけるだけになってしまう。

 それでも、何もしないで泣いているだけでは駄目だ。


「だって、あたしは」


 この状況に抗うのは確かに骨の折れることだ。自分が正しいことをしているのかですら分からないまま、あたしは此処でこうして太陽を睨みつけている。自信なんて全くない。そんな状況にあっても、あたしはもはや迷っている暇がなかった。なぜなら。


「あたしは、月を愛しているのだもの!」


 女神であり、子供を産もうとしている月。

 人間でもなければ精霊でもない。

 立場が違いすぎるあたしが、こうして月に愛される存在になったことは、まぎれもない幸運だっただろう。ならば、その運を無駄にしたくはない。手に入れた愛を最後まで大事にしたかった。ただ運命に任せて時間を潰しているのではいけない。神様の導きはきっと太陽の用意している道筋だろう。それが納得できるものでないのなら、自分で切り開かねば。

 その為に、あたしは此処にいる。

 聖剣を手に入れようと、しているのだ。


「愛している、ね」


 太陽の眼差しがやや変わる。

 月よりも更に生き物らしくないその姿が、あたしを威圧的に見つめている。しかし、暴力を振るう素振りすらも見せず、彼女は微かに笑みを浮かべた。


「小さな胡蝶に愛された女神。どんなにか弱いものであっても、その思いが本物だというのなら、それでもきっと頼もしいと言えるのでしょうね」

「あたしは諦めません。虫かごに入れられたとしても、そのかごを壊して外に出てみせましょう。翅をもがれたとしても、足があれば歩くことだってできる。足をもがれたならば、這ってでも行くわ」

「それじゃあ、立つことも歩くことも出来なくなってしまったら……?」


 怪しげなその眼差しに、身震いが起こった。


「もう二度と月を抱きしめることが出来なくなってしまっても、貴女は後悔しないというの?」


 まるで食虫花のようだ。まさか、本当にそんなことをあたしにするわけはないだろう。それでもここまで脅すのはきっと、あたしの覚悟を試しているからだろう。戦って、もしも百足に敗北すれば、どうなってしまうのか分かっているのか。月をどんなに悲しませることになるのか分かっているのか。


「森の掟というものがどういう存在か、貴女は忘れているのではないかしら。この勝負の行方は誰にも分からない。戦いというものは神ですら簡単には制御できないものなのよ」

「あたしに何かあったとしても、その時には華がいる。彼女はもう大人だもの。月を守ってくれるはず」

「……だから、万が一、何も得ることが出来ずに死んだとしても後悔はしないと、そう言いたいの?」


 太陽の強い眼差しを受けて、あたしは深く息をついた。

 怖くないなんて嘘はつけない。百足だって怖いに決まっている。蜘蛛や蟷螂と同じだ。食虫花とも同じ。百足は恐ろしい。胡蝶なんか飽きるほどに食べられる力を持っている。大百足の狙いは蝙蝠なのかもしれない。その周囲の者たちは、単なる付属品。文字通り、虫けらに過ぎない。

 あたしが立ち向かったところで大した勝負になるなんて思えない。分かっている。無謀すぎる。これまでこの無謀さでどのくらい月に心配をかけて来たか。そして、月に助けてもらうことをどれだけ期待したか。今度は違う。月の助けは望めない。あたしが月を助けなくてはならないのだから。


「後悔しない」


 だから、あたしは宣言した。


「この戦いで死んだとしても、あたしは後悔しない!」


 たとえ、相手があたしを殺そうとした魔女だったとしても、月を助けるためならば、見捨てたりしない。

 あたしは善人なんかではない。これは全てあたし自身のためだ。月を愛している。月を失いたくない。わがまま放題の胡蝶の願望。蜜の為に花たちの心を弄ぶ悪魔に相応しい感情だ。

 本能でもある。本心でもある。自分に嘘をついて生き延びるくらいなら、そして、大事にしたかったものをただ失うだけならば、あたしは剣を手にしたい。

 猛獣にでもなったかのように太陽という偉大すぎる女神を睨み付けてしばらく。厳しく冷たい視線をしていた彼女が、ふとその緊張を緩めた。掴みあげていた手をそっと放し、距離を取る。急に訪れた解放にしばし惚けていると、太陽は囁くように言った。


「分かった」


 目覚めるような思いがあたしの胸に宿った。


「剣を手に、行くといい。貴女が心からそれを望むのならば、私にそれを止める資格はもうない。月は貴女を自由にさせている。閉じ込めるのは彼女の願いではない。貴女の好きになさい」


 ついに、許しが出た。

 月の許しではない。しかし、大きな許しだった。

 堂々と手に取る聖剣は、不思議なほどにあたしの肌に馴染んだ。この力までがどれだけあたしに従ってくれるのかは分からない。しかし、大きな一歩だった。

 希望の灯はまだ消えていない。

 逸る気持ちを抑え、あたしは意気込んだ。剣の輝きを見つめ、そして振り返る。気づけば、月の書斎にはあたし一人しかいなかった。

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