1.慈しみ
◇
――これだけは忘れないようにしておこう。
理不尽さへの怒り、不遇への不満、そして訪れようとしている未来への悲しみに胸が押しつぶされそうな中、それでもあたしは自分に言い聞かせた。
太陽は敵ではない。在りし日の食虫花とは違う。太陽は太陽なりに月を思いやり、自分の出来る範囲で月への愛情を示している。その価値観があたしや華とは大きく異なるのだろう。
当然だ。あちらは不老不死の女神で、あたし達は老いて死ぬ存在。時間や生と死の価値観に相違があったって不思議ではない。あたし達にとって時間は無限ではないものであるし、生死も一度きりの貴重なものなのだ。
それを太陽は忘れているのではないだろうか。
長い間、愛する月の死を看取り過ぎて、そして誕生に立ち会いすぎて、感覚がおかしくなってしまっているのではないだろうか。
彼女にはもはやあたし達のような普通の生き物の感覚など理解できないのかもしれない。
――それなら、太陽の理解なんて求めることに意味はない。
太陽と日華が月の城へ訪れてすぐ、あたしはそんな結論に至った。
あたしに出来ることは何だろう。月の言葉は太陽によってゆがめられる。さんざん一緒にいて、さんざんその恐怖を薄っすらとではあるが聞かされてきたのだからなんとなく分かる。月は太陽に逆らえない。これは魂に刻まれたものなのだろう。花たちが胡蝶に逆らえないまま蜜を差し出すのと同じ。どんなに抗おうとしても、逆らえずにただストレスを溜めてしまう。
月に心労をかけることはない。
囚われたお姫様を救えるのは誰なのか。考えるまでもなかった。
「だって、月はあたしに愛を与えてくれたのだもの」
ひとり呟きながらため息を吐く。
太陽が来た夜、女中頭があたしに言った。別に月の寝室をこれからも使ってもいいのだと。あたしが望むのならば、別室もきちんと用意してくれるのだと。ただし、そこには月もいないし華もいない。
もちろん、無防備な華や日華と共に寝泊まりをするのはあたしも嫌だ。一晩のうちに自分が胡蝶に生まれてしまった事実を思い知ることになるだろうから。
でも、月のことは恋しかった。
いつまでも一緒に眠れる日が続くわけはないと分かっているつもりだった。ただでさえ身分不相応な待遇だったのだ。そのうえ、相手は短命の女神。いつの日か、運命があたし達を引き裂くのだと理解はしていた。しかし、納得が出来るはずもなかった。
あたしが眠るべき場所は、柔らかな葉っぱの上が相応しい。そもそも温かな寝台なんて贅沢だ。でも、そうだとしても、人間たちは言うだろう。胡蝶を冷たい床の上に寝かせるなんてもってのほかだと。
誰かに見つかればきっと怒られる。
そうは分かっていても、あたしは借り物のひざ掛けだけを抱き締めて、物置部屋の隅でうずくまっていた。
ここには二つの絵が飾られている。先代の月とその愛花の少女の絵だ。昔はもっと目立つ場所にあったのだと聞いている。でも今は、こうして記憶の片隅に残り続けるのみ。
月もいつかはこの二人のようになってしまうのだろう。だとしても、それはずっと先のことでいてほしい。この二人は引き裂かれてしまった。月の誕生によって、残された愛花は先代の代わりに今の月を守ると誓ったという。それはどんなに辛い誓いだっただろう。そして、どんなに強い想いだっただろう。
結局、五年後、彼女も後を追うことになった。様々な悪意のせいであり、その犯人は今、心を入れ替えて別の戦いに身を投じている。
名も無き蝙蝠の中年男。彼はこの二人にとって敵と言えるだろう。しかし、月は罪を赦した。赦したのなら、あたしにはもう何も言うことはない。この因縁は終わったのだ。彼が仕えていた魔女も同じ。この身体に残って消えない傷跡がいくら痛んだとしても、もうこれ以上、食虫花を恨むことはない。
しかし、頭では分かっていても、感情を抑えるには心のゆとりが必要なものだ。あたしにとって、月との日常は癒しそのものだった。華は愛おしいし、大事な存在だ。でも、華と月は比べられない。どちらが欠けてもあたしの平穏は大きく揺らいでしまうのだ。
恨みで心を穢さないためにも、あたしには月が必要だった。
それを大きく阻む存在である太陽。彼女が憎くて仕方がない。それでも、分かっておかなければ。太陽はなにもあたし達をいじめることを楽しんでいるわけではない。月を虐めているのではなく、ただ事実を言っているつもりなのだろう。
「太陽は絶対的女神……」
今や絵にしか残されていないこの二人のことも、彼女はよく知っていた。覚えているのだろうし、その別れも忘れてはいないだろう。寿命のあるあたし達では想像もできないほど出会いと別れを繰り返してきた彼女にとって、あたしの気持ちはどのくらいちっぽけなものに見えるのか。
「華が怯えている。月も委縮している」
太陽と月と華。主従関係は縦になっている。
ここにあたしは入っていない。人間たちからすれば入っていることになるだろう。でも、太陽と月の関係は勿論、人工花とその身柄を購入した主人のような関係なんてものも、あたしと月の間には存在しない。
ならば一番自由な身分である城の者は誰なのか。
「あたしには月の印がある……」
薄暗く寂しい部屋の中で、あたしは何度もそう呟いていた。
◇
月と面会できるのはいつも昼前のことだった。
華との蜜吸いを終えて数時間後、太陽の許可が下りると部屋に呼ばれ、寝室に閉じ込められるこの城の主人を見ることがかなった。
城に仕える人間たちは何を思っているだろう。
月以外の者が当然のように主人の座に就くようなことは、普通ならば許しがたいことだろう。しかし、太陽はもとから月よりも上位だと誰もが知っている。その為か、月がどんなに行動を制限されていたとしても、太陽を咎めるような声は勿論、月の身の上に同情するような声すら聴くことはなかった。
ひょっとしたらあたしの知らないところでそんな話をしているのかもしれない。でも、少なくともあたしの視界のなかには、そのような表情を見せるものは誰一人としていなかった。
今までのように女中や使用人たちは働いている。仕える相手が変わっただけといった様子だ。中にはその様子すらみせない者もいる。当然かもしれない。ここで働く人間たちのうち、今の月に会えるのは女中頭や執事とごく一握りの女中と使用人だけなのだ。
だから、殆どの者たちは今の月の姿をよく知らないままだ。不自由という檻に入れられ、恐ろしく力のない目で世界を見つめるこの人が、つい数か月前まで聖剣を手に恐ろしい戦いをしたのだと誰が信じるだろう。
太陽に囚われた月はもはや、温室の中でのみ咲く人工花のようにしか見えなくなっていた。
「……月、具合はどう?」
面会したものの訪れていた沈黙。先に破ったのはあたしの方だった。
「平気だよ。城内を歩き回るくらいは許してほしいくらいに」
皮肉染みた返答。けれど、その表情には明らかに元気がなかった。月が一番文句を言いたいだろう相手は今ここにはいない。それでも、月にとっては毎晩部屋を共にしているのだから、少しは離れたいのかもしれない。
「蝶はどうなんだ? 寝台で寝てくれないと女中頭が嘆いていたようだよ。私のことを思ってくれるのなら、まずは自分の身を大事にしてほしい」
「……ごめんなさい。でも、どうしても寝付けなくて」
「どんな寝台なら寝れる?」
「何処も一緒よ。豪華な寝台を用意してくれなくたっていい。胡蝶は森で暮らすのだもの」
「――だとしても、冷たい床の上に毛布だけっていうのはよくない。それに、物置は埃っぽくて寝るのには向いていない」
はっきりとそう言われ、あたしは口ごもった。
月の耳にも入っていたとは。こっそり物置で寝ているつもりだったのに、人間たちにはとっくに気づかれていたということか。
「昨日も言ったように、君の部屋は用意されている。華が過ごしているような部屋だ。君には狭苦しいかもしれないが、胡蝶に適した部屋になるように気を付けているらしい」
「……あたしの」
虫かご。月の命令でありながら月の本心ではない。月はただ承認させられただけなのだと知っている。これは太陽の命令。月の為に暴走しようとするあたしを、閉じ込めておく場所を用意しようとしているのだ。
月と一緒に寝ていた日々なんて遠い昔のことのようだった。
「蝶」
名前を呼ばれ、あたしはそっと月の傍へと寄った。伸ばされる手に触れ、あたしが森で出会ってきたどの花よりも美しいと思える眼差しを受けとる。この人を太陽はここ何日か独占しているのだと思うと、悔しい想いすらあった。
だが、そんな醜い嫉妬は抑えて、あたしは月に視線を合わせた。
「なあに?」
「君と一緒に眠れなくて私も寂しい」
真っすぐにそう言われ、あたしは惚けてしまった。
美しくて繊細ながらも、凛とした強さがあった月。彼女の強さが大好きだった。いざという時に頼りになるところに尊敬の念を抱いていた。聖剣を手に何度、月は戦ってきただろう。そして、何度、彼女の強さに救われてきただろう。
「……月」
手を伸ばせば握ってくれる。縋れば前のように甘えさせてもくれるだろう。包み込むような月の姿を見ていると、涙が浮かんできた。月の愛情が嬉しかったのもあるけれど、それだけではない。この瞬間、やっぱりあたしはこの人に頼り切っているのだと自覚したからだった。
月に心配をかけたくない、月に頼っては駄目だ。そう思いつつ、何度、月に助けられることになっただろう。あの思い切りの良さは、どうしてあったのか。分かっている。きっと、何かあっても月に助けてもらえるという想いがあたしの心の何処かにあったせいなのだ。
月は今、閉じ込められたままだ。
あたしに何かあったとしても、助けに来ることは出来ない。
「太陽と未来について話したんだ」
月はあたしの手を握ったまま言った。
「もしも生まれてくるのが私自身だったとしたら、記憶も力も失い、守られなくては育つことが出来ない赤子になってしまう。果たしてそれは生まれ変わりと言えるのか、そんな疑問もあるけれど、そこはもう考えても意味がない。生まれてくるのが娘ならば、私が率先して守ってやることも出来るだろう。でも、私自身であるならば、それが出来ない……」
ぼかすように言うのは、月自身が辛いからなのか。
月の気持ちは月にしか分からない。月の恐怖もあたしには分かった気になれるだけだ。それでも、むやみに追い詰めるようなことは出来るはずもない。あたしはそのまま月の表現に合わせて、答えた。
「その為に、あたし達はいる。華と二人で女神の成長を見守るの。胡蝶と花じゃ頼りないかもしれない。でも、いないよりはましのはずよ」
「……頼む」
力なく言う月に、今だけは肯いた。
彼女はもう諦めているのだ。諦めるなという方が残酷だろう。こんな場所に閉じ込められ、太陽には常に自覚を持つように言われている。それが太陽としては愛情のつもりなのかもしれない。残された時間を有意義に使えと言いたいのだろう。そんな状況で、「抗え」などと無責任に言えるはずもない。
そう、だから、月に頑張らせる必要はない。
あたしに出来ることは、誰にも阻まれずに、残された時間を〈有意義〉に過ごすことなのだ。
そう自分に言い聞かさせた途端、強い意志が心に宿った。しかし、あたしは沈黙した。月に悟られないように。太陽に邪魔をされないように。




