結 彼女こそ、英雄なり
愛人契約終了を告げられた翌日。
アビゲールに案内されてやって来たのは、彼の屋敷の応接間。件の夫人は不在のようだ。
ソファに座っているのは、仏頂面した人間の少女だった。金髪碧眼の白人で、だいぶ幼い。小学校低学年程度だろうか。
少女の眼前のテーブルには、皿に乗ったクッキーと、果実茶。甘いものはこの世界では高級品で、VIP待遇じゃん、とエリカは羨望の眼差しを向けた。
「おや、甘いものは嫌いかね」
猫なで声でアビゲールが尋ねると、少女はおっかなびっくりしていたが、やがて己を奮い立たせるように叫んだ。
「化け物! あっちいけ!」
エリカは吹き出した。しかし、アビゲールを化け物呼ばわりするということは……。
「まさか、この子ってあたしと同じ……?」
「そうだよ。お前と同じ、可哀相な異世界人だ」
ああ、とエリカは少女を哀れむ。またクソ童貞のメリアン君が、練習で可哀相な地球人を召喚したのか。しかもこんな幼い子を。今度また殴っておこう、と友人ゆえの気安さで思う。
同郷ゆえに、エリカに面倒を見させようというのか、と納得しかけたその時。
「お前と違うのは、この子は『本物』だということだ」
「は?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「お前は練習台。でもこの子は、本物の『英雄』となるべく、運命に選ばれた子だ」
エリカは眼前で怯える少女を見つめた。こんな幼い子が、一体どうして。
「この子に、この世界のことを教えて、ついでに面倒を見てやってほしい」
「ええ!?」
それはあまりに責任重大ではないか? そもそも『英雄』とは一体何なのだろう。
「なんだね、かつてお前を欲しがっていたムス=テトは、相当なクズだよ。そちらに行きたいかい」
「それは御免だわ」
あのエルフの悪い噂は、いやというほど耳にした。
「仕方ないなぁ」
エリカは嘆息すると、目一杯優しい笑顔を浮かべ、少女の側へ寄る。
「おチビちゃん、名前は?」
「おチビちゃんじゃない!」
目線を合わせて尋ねると、少女は激高し、テーブルの上の焼き菓子を跳ねのけた。
ぱらぱらと床に菓子が散らばる。それを見た瞬間、エリカは切れた。
「食い物を粗末にするな!」
少女の頭頂部に拳骨を振り下ろすと、途端に大声を上げて泣き出した。
痛かったのだろう、そして殴られたことがショックだったのだろう。それ以外にも、緊張の糸が切れたのだろうということがなんとなく分かった。
だが、うわーんと号泣する少女を慰めるつもりは毛頭ない。
可哀相だが、現実を教えておかなくてはならない。
ここは地球とは全く異なる文明の世界で、その最たるものが食事だということを。
肉も甘いものも貴重で、主食は穀物を茹でて固めたぱさぱさの物体。
だって、支配階級のエルフが食に興味を持っていないのだから――。
だが、それらのことをこの幼子にどう噛み砕いて説明しよう。
とりあえず撫でて謝って仲直りするか、と思った時だった。
「これで舞台が整った」
背後から聞こえてきた意味深なアビゲールの言葉に、エリカは思わず振り返る。
腕組みしてこちらを眺めているアビゲール、そのキツネの面には、喜悦がたっぷりと浮かんでいた。
――こいつは一体いつから糸を引いていやがったのか。
愛人とはいえ、エリカに人並み以上の生活をさせてくれたのは、すべてこの日のためなのか。
それに、いくら都市で三本の指に入るからといって、商人にしか過ぎないアビゲールがなぜ『英雄』を屋敷に連れてくることができたのか。
今更ながら、このキツネの底の知れなさに鳥肌が立つ。
「これから何が起こるの?」
泣き声の響き渡る中、恐る恐る尋ねると、アビゲールは牙を剥いて笑った。
「新しい人工太陽を巡っての戦争だよ」
そして毛むくじゃらの指で窓の外を指さした。蒼穹をバックに、白く輝くモノが浮かんでいる。
「あれはもうすぐ落ちる」
これが、人工太陽を巡って起こる英雄譚の始まり。