第4話:秋の終わりの忘れ物と、お留守番の大冒険
初夏の青空が遠い思い出に変わる頃、アパートを囲む世界はすっかり黄金色と茜色のグラデーションに染まっていた。
十一月の終わり。お庭の紫陽花は乾いた茶色の装いになり、代わりに大きな一本の柿の木が、熟したオレンジ色の実を重そうにぶら下げている。冷たい北風が吹くたびに、カサカサ、カサカサと乾いた音を立てて、赤や黄色の落ち葉が畳の上の縁側へと舞い込んできた。空気はツンと冷たく、吸い込むと鼻の奥が少しだけ痛くなるような、冬の足音を感じさせる季節だった。
そんなある日の午前中、飼い主のハルさんは、いつもより少し仕立ての良いコートを着て、出かける準備をしていた。
「ジジ、お留守番お願いね。今日は夕方まで帰れないから、ご飯はここに置いておくね」
ハルさんはそう言って、ジジの好物のカリカリを少し多めにお皿に盛った。
いつもならハルさんのお出かけを玄関まで見送るジジだったが、今日はなんだか様子が違った。ハルさんがバタバタと鍵を探したり、バッグに手帳を詰め込んだりする姿を、部屋の隅のキャットタワーの上から、琥珀色の目を真ん丸にしてじっと観察していたのだ。
カチャリ、と静かにドアが閉まり、鍵が閉まる音が響く。
ハルさんの足音がトントンと階段を降り、やがて完全に聞こえなくなった。
――しーん。
アパートの一室に、完全な静寂が訪れた。
いつもならハルさんの動く音や、テレビの音、台所でお湯が沸く音がしている部屋が、今は冷たい空気の底に沈んだように静まり返っている。
ジジは、キャットタワーの最上階から、ゆっくりと床へと降りた。
いつもならハルさんの足元にまとわりついている時間だが、今は誰もいない。この「家の中に自分しかいない」という状況は、おっとりしたジジの中に、普段は眠っている小さな「野生の冒険心」を呼び覚ますのだった。
ジジはまず、ハルさんが忘れていった「あるもの」に目を留めた。
それは、リビングの座卓の上にぽつんと取り残された、ハルさんの手編みのマフラーだった。
ハルさんは急いで家を出たため、そのお気に入りの、えんじ色のウールマフラーを持っていくのを忘れてしまったのだ。
ジジは音も立てずに座卓の椅子に飛び乗り、そこから机の上へと進んだ。マフラーに近づき、鼻先を近づけてクンクンと匂いを嗅ぐ。
そこからは、大好きなハルさんの匂いがこれでもかと漂ってきた。
ジジは嬉しくなり、マフラーに頭をぐいぐいと擦り付けた。黒い毛がウールの繊維に絡みつくのも気にせず、何度も何度も頬を寄せる。
そのうち、ジジはマフラーを前足で「ふみふみ」と交互に押し始めた。まるで、遠い昔にお母さん猫のお乳を飲んでいた頃を思い出すかのように、喉を「ゴロゴロ、ゴロゴロ」と優しく鳴らしながら、えんじ色の毛糸を優しく揉みほぐしていく。誰もいない静かな部屋で、ジジだけの幸せな時間がゆっくりと流れていった。
しかし、冒険はそこで終わりではなかった。
ふと、窓の外から「カサカサッ」という、先ほどとは違う不自然な音が聞こえた。
ジジの耳がレーダーのように音のする方を向き、マフラーからパッと顔を上げた。
ジジは床に飛び降りると、お庭に面した掃き出し窓へと足早に向かった。
冬に備えて窓はきっちりと閉められていたが、透明なガラスの向こう側、縁側のゴザの上に「それ」はいた。
風によってどこからか運ばれてきた、手のひらよりも大きな、見事な赤色をしたモミジの落ち葉だった。
そのモミジの葉が、冷たい風に吹かれて、縁側の床の上を「カサカサ、くるくる」と生き物のように不規則に転がっている。
ガラス越しのジジの目が、限界まで大きく見開かれた。
猫にとって、不規則に動く乾いた物体は、最高のおもちゃだ。
ジジは、腰を低く落とし、お尻を「フリフリ、フリフリ」と小さく左右に振ってタイミングを計った。
そして――ドンッ!と、ガラス窓に向かって勢いよく飛びかかった。
当然、肉球は冷たいガラスに跳ね返される。
「にゃう」
ジジは少し悔しそうな声を上げ、ガラスを前足で「シャカシャカシャカ!」と高速で引っかいた。しかし、モミジの葉はそんなジジをあざ笑うかのように、風に乗ってさらに外へと舞い上がり、お庭の池の方へと飛んでいってしまった。
「あーあ、行っちゃった……」
ジジは座り込み、少し恥ずかしそうに前足をペロペロと舐めて毛並みを整えた。誰も見ていないけれど、猫なりのプライドがあるのだ。
少し疲れたジジは、ハルさんのベッドの上へと移動することにした。
秋の終わりの斜めの太陽の光が、ちょうどベッドの掛け布団の上に、温かい「ひだまりの島」を作っていた。
ジジはその温かいお布団の真ん中に、丸い黒いクッションのように座り込んだ。
外では、冷たい風がアパートの壁を「ヒューヒュー」と鳴らして通り抜けていく。けれど、ハルさんのベッドの上は、驚くほど静かで、ハルさんの匂いに満ちていて、そして何より温かかった。
ジジは、再び琥珀色の目を閉じ、ウトウトと眠りにつき始めた。
お留守番という名の大冒険。マフラーとの秘密の時間、ガラス越しのモミジの葉との戦い。小さな黒猫にとって、それはとても充実した一日の出来事だった。
どれくらい眠っただろうか。
部屋の光が、黄金色から夕焼けの茜色、そして静かな紫色へと移り変わっていった頃。
遠くの玄関の方から、「ガチャリ」という、待ち望んでいた音が響いた。
ジジの耳がピクンと跳ね起きる。
「ただいま、ジジ。お留守番ありがとうね。寒くなかった?」
ハルさんの優しい声が部屋に響いた瞬間、ジジはベッドから飛び降り、一目散に玄関へと駆け出した。
そして、コートを脱ごうとしているハルさんの足元に、自分の体を「すりすり」と力いっぱいに押し付けた。
「おや、寂しかったの?よしよし」
ハルさんが冷たい手でジジの頭を優しく撫でると、ジジは嬉しそうに目を細めた。
ハルさんは座卓の上のマフラーを見て、「あ、忘れていっちゃったマフラー、ジジが温めてくれてたんだね。ありがとう」と微笑んだ。
一人の大冒険も楽しかったけれど、やっぱりハルさんがいる我が家が一番いい。
秋の終わりの長い夜が、2人の温かい空気の中に、ゆっくりと更けていくのだった。




