第3話:陽だまりの特等席と、秘密の猫集会
六月に入ると、アパートを囲む空気はすっかり初夏の匂いをまとい始めていた。
朝のうちは涼しかった風も、お昼を過ぎる頃には、肌を優しく撫でるような湿り気と、どこか力強い太陽の熱を帯びるようになる。お庭の隅に植えられた紫陽花の蕾は、日に日にその膨らみを増し、薄いみどり色から、ほんのりと淡い紫色へとその衣替えを始めていた。庭の雑草たちも、抜いても抜いても生命力に満ちあふれた青い匂いを放ちながら、ぐんぐんと背を伸ばしている。
そんな、少し汗ばむような、けれどまだ本格的な夏には遠い、のどかな土曜日の午後。
「ふう、今日は本当によいお天気ね」
飼い主のハルさんは、一週間分の洗濯物をすべて干し終え、パンパンとシーツを叩く音をアパートの裏庭に響かせていた。
洗い立ての真っ白なシーツが、初夏の青空の下で大きく揺れるたびに、シャボンの爽やかな香りが風に乗って庭いっぱいに広がっていく。
おっとりした黒猫のジジは、そのシーツが作る大きな影と、お日様の光が交互に織りなす「ひだまりの境界線」を、じっと見つめていた。
今日のジジの居場所は、リビングの中ではない。
ハルさんが窓を開け放ち、お庭へと続く木製の古い「縁側」に、小さなゴザを敷いてくれたのだ。
ジジはそのゴザの真ん中に、丸い黒い塊となって座っていた。網戸もガラス窓もすべて取り払われた空間は、ジジにとって家全体がお庭になったような、特別な開放感をもたらしてくれた。
「ジジ、お茶にするから、そこをちょっとだけお留守番していてね」
ハルさんがパタパタと台所へ戻っていくと、お庭は一気に静けさを取り戻した。
近くの電柱のてっぺんで、一羽のツバメが「チュピッ、チュピッ」と高く鋭い声で鳴き、初夏の空を滑るように飛んでいく。
ジジは、ふにゃあと大きなあくびを一つした。
小さなピンク色の舌がくるりと丸まり、白いひげがパッと扇形に広がる。そして、前足を一本伸ばし、ゴザの網目に爪を少しだけ引っかけるようにして、背中をきれいに弓なりに反らせた。猫にとって、この「のび」の瞬間こそが、リラックスの最高潮なのだ。
そのとき、お庭の生垣の隙間から、ガサガサと葉っぱのこすれ合う音が聞こえた。
ジジは伸びを途中で止め、琥珀色の丸い瞳をその音のする方へと向けた。
緑の葉の隙間から、まず現れたのは、雪のように真っ白な長いひげ。続いて、オッドアイの瞳をきらめかせた白猫の「シロ」が、音もなくお庭に足を踏み入れてきた。
シロはジジの姿を見つけると、嬉しそうに尻尾をピンと垂直に立てた。
その先端だけを、まるでお辞儀をするように小さく「ピコッ」と揺らす。
「にゃお」
シロは短く挨拶をすると、当たり前のような足取りで縁側へと近づき、ジジが座るゴザの端っこに、どさりと腰を下ろした。
白い毛並みが、初夏の強い光を反射して眩しいほどに輝いている。
しかし、今日のお客さんはシロだけではなかった。
シロがやってきたすぐ後を追うようにして、今度はアパートの裏手にある古い物置の屋根の上から、トントン、と軽い足音が響いた。
現れたのは、見事な虎模様を持った、大きくてまるまると太った茶トラ猫の「ムギ」だった。
ムギは、この近所の商店街にあるお米屋さんで半ば飼われている、のんびり屋の地域猫だ。首には、お米屋さんの奥さんがつけてくれたのであろう、小さな赤いバンダナが巻かれている。
ムギは、短い足で器用に物置の屋根から縁側へと飛び移ると、ジジとシロの間に入り込み、ごろんと畳の上に横たわった。
まるでお米の袋がひっくり返ったかのような、見事な寝返りだった。
さらに、どこからともなく、耳の端がサクラの花びらのようにカットされた、小さなサビ猫の「サクラ」も姿を現した。
サクラはとても恥ずかしがり屋なので、縁側までは上がってこない。けれど、縁側のすぐ下にある、日陰になった植木鉢の陰にちょこんと座り、静かにジジたちを見上げていた。
気づけば、ハルさんのお家のお庭は、小さな「秘密の猫集会」の会場になっていた。
集会、とはいっても、猫たちは何かを話し合うわけではない。
リーダーが演説をするわけでもなければ、激しくじゃれ合うわけでもない。
ただ、それぞれが一番心地よいと思う場所を選び、ただそこに佇んでいるだけだ。
ジジは黒い体を丸め、シロは白い足を投げ出し、ムギは仰向けになってお腹を大胆に放り出し、サクラは日陰から静かに皆を見守る。
黒、白、茶トラ、サビ。
色とりどりの毛並みを持った猫たちが、初夏の陽だまりの中で、同じ時間を共有している。そこには完璧な調和と、言葉を超えた深い信頼関係があった。
「あらあら、まあまあ。今日は大繁盛ね」
盆に乗せた冷たい麦茶と、ガラスの器に入ったみつ豆を持って戻ってきたハルさんが、目を丸くした。
普通なら、人間が突然現れれば、野良猫たちは驚いて逃げてしまうものだ。しかし、この庭に集まる猫たちは、ハルさんがジジをどれほど大切にしているか、そして自分たちに決して危害を加えない優しい存在であることを、本能で知っていた。
シロは「にゃ〜ん」と甘えた声で鳴き、ムギは横たわったまま、太い尻尾を畳に「トントン」と打ち付けて歓迎の意を示した。
「みんな、いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
ハルさんは嬉しそうに微笑むと、猫たちを驚かせないように、そっと縁側の端に腰掛けた。
そして、冷蔵庫から冷やしておいた猫用のおやつ(水分たっぷりのジュレタイプ)をいくつか取り出し、それぞれのお皿に少しずつ分けて置いてあげた。
サクラの分は、彼女が安心できるように、植木鉢の陰のすぐ近くにそっと置いてあげる。サクラは嬉しそうに目を細め、ハルさんが手を引いたのを確認してから、ペロペロとおやつを舐め始めた。
縁側の上では、ジジとシロとムギが、頭を寄せ合うようにおやつを食べている。
「カリカリ、ペロペロ、クチャクチャ」
小さな、けれどどこか賑やかで愛らしい咀嚼音が、初夏の静かなお庭に響き渡る。ハルさんは、冷たい麦茶をゴクリと飲みながら、その光景を愛おしそうに眺めていた。ガラスのコップの中で、氷が「カラン」と涼しげな音を立てて砕ける。
お腹がいっぱいになった猫たちは、誰からともなく、再び深い微睡の時間へと入っていった。
ムギの大きなお腹が、呼吸に合わせて「すー、はー」と上下に大きく動いている。
シロは、ジジの首のあたりを、優しく毛づくろいしてあげ始めた。ザリ、ザリ、と猫の舌特有の小気味よい音が響く。ジジは気持ちよさそうに首を長く伸ばし、喉を「ゴロゴロ、ゴロゴロ」と、まるで小さなエンジンを回しているかのように鳴らし続けた。
風が、お庭の紫陽花の葉を優しく揺らす。
洗い立てのシーツが、太陽の熱を吸い込んで、さらに心地よい香りを放つ。
人間が一人と、猫が四匹。
初夏の陽だまりの特等席で、彼らはただ、流れる時間をそのまま受け入れていた。
何かをしなくてはいけない焦りも、明日への不安もない。ただ、今この瞬間の温かさと、お互いの存在がもたらす安心感だけが、お庭全体を優しい空気で満たしていた。
ジジは、シロの毛づくろいを受けながら、ゆっくりと目を閉じた。
まぶたの裏には、どこまでも青い初夏の空と、大好きな仲間たちの温もりが、いつまでも、いつまでも広がっていた。




