第2話:窓の向こうの白い影と、雨上がりの約束
昨日までのしとしととした長雨が嘘のように、翌朝の窓の外には、抜けるような青空が広がっていた。
雨粒をたっぷりと吸い込んだお庭の芝生は、朝の光を浴びてエメラルドグリーンのように輝いている。葉っぱの先に取り残された大きなしずくが、風が揺れるたびに「ぽちゃん」と音を立てて地面に落ちていく。空気はひんやりと冷たいけれど、どこか新緑の甘い香りが混ざった、洗い立てのシーツのような清々しい匂いがした。
「ジジ、見てごらん。すっかり晴れたよ」
飼い主のハルさんが、パタパタと小気味よい音を立てて大きな掃き出し窓を開け放つ。
網戸越しに、五月の新緑をくぐり抜けてきた爽やかな風が、一気に六畳間のリビングへと流れ込んできた。カーテンがふわりと大きく膨らみ、部屋の空気を隅々まで入れ替えていく。
昨日までコタツの中でとろけていた黒猫のジジは、その風の匂いに誘われるようにして、のそりと立ち上がった。
ジジは、畳の上を「トトト……」と軽い足取りで歩き、窓辺のフローリング部分へと向かう。そこは、ハルさんが「ジジの特等席」として敷いてくれた、お気に入りの丸い麻のマットがある場所だ。
太陽の光が、ちょうどそのマットの上に、綺麗な四角い黄金色のじゅうたんを作っていた。
ジジは、光の真ん中にちょこんと座ると、まずは前足を一本高く上げて、念入りに毛づくろいを始めた。
ツヤツヤとした黒い毛並みが、朝の強い光を浴びて、紫がかった深い輝きを見せる。ペロペロ、ペロペロと、規則正しい音が部屋に響く。猫にとっての日向ぼっこは、ただ気持ちがいいだけでなく、一日の大切な儀式のようなものなのだ。
十分に体が温まると、ジジは前足を体の下に器用に仕舞い込み、香箱座りの姿勢になった。
琥珀色の瞳をうっとりと細め、お庭の木々でパタパタと羽ばたくスズメたちを眺める。
そのときだった。
庭の隅にある古びた木製の柵の向こうから、ふわっと「白い影」が揺れるのが見えた。
ジジの耳が、ぴくリと動く。細めていた目が、真ん丸なボタンのように大きく開いた。
その白い影は、音もなく地面に飛び降りると、雨上がりの湿った土を避けるようにして、コンクリートの犬走りの上をゆっくりと歩いてこちらへ近づいてくる。
それは、この界隈を縄張りにしている野良猫の「シロ」だった。
シロはその名の通り、雪のように真っ白な毛並みを持った猫だった。ただ、野良猫らしく、耳のあたりや足先が少しだけ土で汚れている。けれど、その足取りは凛としていて、どこか優雅だった。オッドアイと呼ばれる、右目が青で左目が黄色の、とても綺麗な目を持った猫だ。
シロはハルさんの家の窓辺までやってくると、ピタリと足を止めた。
そして、網戸の向こう側にいるジジを、じっと見つめた。
ジジとシロ。黒と白。
網戸を挟んで、二匹の猫は至近距離で対峙した。
普通、縄張りを気にする猫同士が出会うと、ウーッと唸り声を上げたり、毛を逆立てて威嚇し合ったりするものだ。しかし、この二匹の間にそんな緊迫感は微塵もなかった。
ジジは首を少しだけ傾げ、シロはフリリと尻尾の先を優しく揺らした。
シロが、ゆっくり、ゆっくりと、瞬きをした。
猫の世界において、親しい相手に送る「私はあなたの味方ですよ」という、言葉のない親愛の挨拶だ。
それを見たジジも、お返事をするように、時間をかけてゆっくりと瞬きを返した。
網戸越しに、二匹の鼻先がほんの数センチメートルまで近づく。クンクンと、お互いの匂いを確かめ合う。ジジからはお家のコタツとほうじ茶の匂い、シロからは雨上がりの土と、どこかの庭に咲いているツツジの甘い香りがした。
「あら、シロちゃん。いらっしゃい」
台所から、トーストの焼けるいい匂いと共にハルさんが顔を出した。
ハルさんは、シロが時々こうしてお庭に遊びに来るのを知っていた。だからといって、無理に家の中に囲い込もうとはせず、外で自由に生きるシロの生活を尊重し、遠くから優しく見守る距離感を保っていた。
ハルさんは、冷蔵庫から猫用のおやつを一つ取り出すと、網戸をそっと開けた。
「はい、雨上がりのおやつだよ。昨日はいっぱい濡れちゃったでしょ」
ハルさんが小さなお皿におやつを乗せて差し出すと、シロは「にゃお」と、野良猫とは思えないほど高くて可愛い声で鳴いた。そして、ハルさんの手元に体をすり寄せるようにして、美味しそうにおやつを食べ始めた。
ジジは、その様子を羨ましそうにするでもなく、ただ満足そうに眺めていた。
自分の一番大好きなハルさんと、外の特別なお友達であるシロ。自分の大切な世界が、こうして穏やかにつながっていることが、ジジにとってはとても心地よかったのだ。
おやつを食べ終えたシロは、満足したように毛づくろいをひとしきり行うと、再びジジの目の前に座った。
外の空気は少しずつ暖かさを増し、お庭の陽だまりはさらに広くなっていく。
シロは、ジジの目の前(網戸のすぐ外側のコンクリート)で、どさりと横たわった。白いお腹をごろんと上に向けて、完全にリラックスしたポーズだ。
それを見たジジも、家側でごろんと横になる。
網戸という薄い境界線を挟んで、黒い猫と白い猫が、まるで鏡に映ったかのように同じポーズで日向ぼっこを始めた。
言葉は交わさない。一緒に遊ぶわけでもない。
ただ、同じお日様の光を浴びて、同じ心地よい風を感じている。それだけで、二匹の間には確かな「約束」のような信頼関係が結ばれていた。
「また晴れた日は、ここで会おうね」
そんな無言の約束が、二匹ののんびりとした寝息の中に溶けていく。
ハルさんは、そんな二匹の姿を邪魔しないように、静かに淹れたてのコーヒーを飲みながら、愛おしそうに見つめていた。
雨上がりの澄んだ世界で、黒と白のコントラストは、どこまでも優しく、のどかな時間を紡いでいた。




