第1話:雨の日のぬくぬくコタツと、小さな秘密
しとしと、ぴちゃん、しとしと。
古い木造アパートの瓦屋根を叩く雨の音は、まるで世界全体が優しいベールに包まれているかのような、静かで規則正しいリズムを刻んでいた。
窓の外は、一面の淡い灰色。
遠くに見える新緑の木々も、今日は雨の雫をたっぷりと吸い込んで、いつもより深い緑色に濡れている。風が吹くたびに、ガラス窓に小さな水滴がぶつかっては、きらきらと光る筋を作って流れ落ちていった。
そんな肌寒い5月の雨の午後。
小さなアパートの六畳間には、外の寒さとはまったく無縁の、ぽかぽかとした特別な空間が広がっていた。
「よいしょ……よし、これで完璧」
飼い主のハルさんが、部屋の真ん中に置かれた丸い座卓に、大きな薄茶色のキルト布団をふわりとかぶせた。その上に、木目が美しい天板をそっと乗せる。
待ちに待った瞬間だった。
部屋の隅、クッションの上で丸くなっていた黒猫のジジは、ハルさんが天板を置いた「トントン」という小さな音を聞き逃さなかった。
すっと耳が動き、琥珀色の丸い瞳が大きく開く。ジジはまるで、魔法の道具が現れたのを見つめるかのように、じっとその物体を凝視した。
「ジジ、お待たせ。今年最後のコタツだよ。最近また急に寒くなったから、仕舞わなくて正解だったね」
ハルさんがパチリとスイッチを入れる。
すると、コタツの内部にある赤外線ランプが、じわじわと赤く、温かい光を放ち始めた。
ジジはクッションから静かに立ち上がると、音も立てずに畳の上を歩いた。
その足取りはどこか誇らしげで、まるで新しく手に入れた領地を検分する王様のようだった。
コタツの前にたどり着くと、ジジは少しだけ鼻先を突き出し、コタツ布団の匂いをくんくんと嗅いだ。太陽の光で干したときのお日様の匂いと、ハルさんがいつも使っている柔軟剤の、ほのかなラベンダーの香りがする。
ジジにとって、このコタツ布団の隙間は、世界で最も魅力的な「秘密基地の入り口」だった。
前足で器用に布団をぐいっと押し上げると、ジジは頭から滑り込むようにしてコタツの中へと吸い込まれていった。
中に入ると、そこはまさに極楽だった。
オレンジ色のほの暗い光が空間を優しく満たし、足元からじんわりと心地よい熱が伝わってくる。外で鳴り響く雨の音は、厚い布団に遮られて、まるでお布団の奥深くで聞く子守唄のように遠く、優しく聞こえた。
ジジはまず、コタツの真ん中で「ふぅ」と大きなため息をついた。
猫だって、毎日のルーティン(毛づくろいや窓の外の監視)でそれなりに忙しいのだ。凝り固まった体が、温かい空気の中でゆっくりと解きほぐされていくのを感じる。
最初はきれいに丸まっていたジジだったが、温かさが極限に達すると、猫という生き物は骨がなくなってしまったかのように伸びる。
前足をまっすぐ前に伸ばし、後ろ足もピーンと後ろへ伸ばす。
ツヤツヤとした黒い毛並みが、オレンジ色の光を浴びて、まるで上質なビロードのように美しく輝いていた。
「ジジ、もうとろけてるの?」
コタツの布団が少しだけ持ち上がり、ハルさんが中を覗き込んできた。
ジジは眩しそうに目を細め、「にゃあ」と小さく、短く返事をした。「邪魔しないでほしいのだけど」という気持ちと、「温かくて最高だよ」という気持ちが半分ずつ混ざったような声だった。
ハルさんは苦笑いしながら、自分の足をそっとコタツの中へ滑り込ませた。
冷えた人間の足が入ってきたのを察知して、ジジは一瞬、迷惑そうに身を縮めた。しかし、ハルさんの足がジジのすぐ隣で止まると、ジジは自ら進んで、その温かいふくらはぎの横にぴったりと体を寄せ直した。
ジジの背中から、人間の体へと、猫特有の少し高い体温が伝わっていく。
逆に、ハルさんの体温もまた、ジジの冷えやすいお腹を温めてくれた。
「あったかいね、ジジ」
ハルさんはコタツの上の天板に、お気に入りのマグカップを置いた。中に入っているのは、淹れたてのほうじ茶だ。香ばしいお茶の湯気が、雨で少し湿った部屋の空気を優しく潤していく。
ハルさんがページをめくる音が、静かに響く。
ハルさんは本を読み、ジジは眠る。
2人の間には、言葉なんて必要なかった。ただお互いの存在を感じ、同じ温もりを分け合っているだけで、それだけで十分だった。
しばらくすると、コタツの中から「ゴロゴロ、ゴロゴロ……」という、低く響く音が聞こえ始めた。
それは、ジジが心から安心し、幸せを感じているときの音。
その音は、外のしとしとと降る雨の音と混ざり合い、部屋全体を包み込む優しい音楽のようになっていく。
ジジは夢を見ていた。
夢の中のジジは、どこまでも続く黄金色の麦畑を走っていた。お日様の光が降り注ぎ、心地よい風が黒い毛を吹き抜けていく。そこには寒さも、濡れる雨もない。ただただ、温かくて自由な世界。
ふと、ジジは目を覚ました。
夢から覚めても、そこには夢と同じくらい温かい空間があった。
目の前には、いつも自分を優しい手で撫でてくれるハルさんの足がある。上を見上げれば、自分を守ってくれる頑丈なコタツの屋根がある。
ジジは、ここが自分の世界で一番大好きな場所だと知っていた。
雨は一向に降り止む気配を見せない。
けれど、この小さな六畳間の、さらに小さなコタツの中には、どんな嵐も吹き飛ばせないほどの、穏やかで優しい時間が満ち満ちていた。
黒猫のジジは、もう一度大きなあくびをすると、ハルさんの足にぎゅっと寄り添い、再び深い、深い眠りへと落ちていった。




