海王リヴァイアを調教し、その膨大な水属性の魔力と深海の大結界の制御権を手に入れたシオンは、要塞船の次なる針路を北の魔族領へと向けていた。
リヴァイアから得た膨大な水魔力により、要塞船は桁違いの推進力を得ている。
船底に刻まれた魔導光が怪しく脈動し、海面を滑るように疾走していた。
「クフフ……四天王も残るは二人か。魔王の懐まで、ずいぶんと近づいてきたものだな」
要塞船の最上階にある豪奢な自室の玉座で、シオンは満足げに背もたれに身を預けていた。
その膝の上には、先ほどまで激しく貪られていた海王リヴァイアが、恍惚とした表情でシオンの胸に顔を埋めている。
「シオン、要塞船が接岸可能な入江に到着したわ。これより先は陸路になるけど、目的地の『霧の亡霊城』の魔力がここまで侵食してきているようだわ。周囲の魔力密度が急激に上昇、視界の遮断率が九割を超えてる」
魔導伝達の術式を通じてリーナの冷静な声が響く。
シオンが窓の外へ目を向けると、入江を包み込む断崖の先には、昼間だというのに暗く不気味なほどに濃密な灰色の霧が立ち込めていた。
ただの自然現象ではない。
そこに含まれているのは、人間の精神を蝕み、狂気へと誘う強力な幻惑の呪詛魔力だった。
「ふふ、陰気な場所ね。でも、シオン様の魔力に比べれば、こんな安っぽい霧なんてただの目隠しにもならないわ」
シオンの傍らに控えるルビリアが、傲慢に胸を張りながら毒づく。
シオンたちが要塞船を降り、入江から霧の深部へと足を踏み進めるにつれ、周囲の空間が不自然に歪み始めた。
やがて霧の向こうから、そびえ立つ無数の尖塔と立ち並ぶ死者の廟堂。その向こうに巨大な「城」の幻影が、蜃気楼のように姿を現す。
こここそが、三人目の四天王、幻影公爵ファントムロードが支配する絶対不可侵の領域であった。
「おのれ、不遜なる侵入者め。我が美しき幻影の城を、汚すことは許さぬ」
突然、全方位から、幾重にも重なった残響を伴う声が響き渡った。
次の瞬間、濃霧が激しく渦巻き、シオンたちの周囲に無数の『シオンの姿』をした幻影が現れた。
それだけではない。
アルテミシアやルミナリア、果ては、リーナ、ルビリア、セレナ、シェリア、ルナリス、リヴァイアに至るまで、シオンが従える美女たちの姿を模した偽物が、怨嗟の声を上げながら襲いかかってきたのだ。
「ほう、俺たちの偽物か。つまらん芸を披露してくれる」
シオンは不敵に唇を歪め、美女たちもそれぞれの武器を構えて周囲を警戒する。
「シオン、あれは精神に直接『実体である』と錯覚させることで、物理的な破壊力を生み出す高位の精神術式よ!」
リーナが魔導書をめくりながら警告する。
現に、迫り来る偽物のアルテミシアが放った光の刃は、周囲の岩壁を激しく火花を散らして削り取っていた。
触れれば死ぬ。
しかし、本体がどこにいるのかが分からなければ、どれほど強力な攻撃を放っても霧を切り裂くだけで終わってしまう。
「あはは! 面白いじゃない! 私の偽物なんて、本物の可愛さの足元にも及ばないけどね!」
ルミナリアが不気味な魔導陣を展開し、周囲の幻影に向けて紫黒色の魔導弾を乱射する。
だが、弾丸は幻影の肉体をすり抜け、背後の霧の中で虚しく爆発するだけだった。
「ちっ、手応えがないわね! 本当に鬱陶しい霧だわ!」
「クフフ、慌てるな。幻影ということは、そこに『見せたい意思が存在するということだ。ならば、その意思の源流を直接引きずり出してやればいい」
シオンは不敵に笑うと、自身の体内から放たれる「性の捕食者」の魔力を解放し、入江に残してきた要塞船の核へと遠隔で直結させた。
入江の方向から、深海で得たリヴァイアの水魔力が、霧を吸い込むような巨大な魔力渦となって地を這い、この断崖の上へと一気に噴き上がってくる。
シオンの性の魔力を帯びた黒い津波が、周囲の濃霧を強引に巻き込みながら、古城の幻影ごと空間を圧殺していく。
「な、何だと……!? 我が構築した絶対の幻惑空間が、力任せに塗り潰されていくというのか……!?」
全方位から響いていた声が、明確な動揺を含んだ一つの悲鳴へと変わった。
空間の歪みが限界を迎え、バリバリと裂けるような音が響く。
「見つけたぞ、ネズミめ」
シオンが指を差した先。空間の裂け目から姿を現したのは、豪奢な貴族の衣服を身にまといながらも、その顔が不気味な白い仮面で覆われた怪人、幻影公爵ファントムロードであった。
「人間に、我が正体を見破られるとはな……。だが、この城の領域に足を踏み入れた時点で、お前たちの精神はすでに我が術式の檻の中だ! 狂い、互いに殺し合うが良い!」
ファントムロードが両手を広げると、シオンの背後にいたアルテミシアやシェリアたちの瞳から、光が失われた。
精神攻撃の波動が、彼女たちの脳の奥へと突き刺さったのだ。
「シオン、様……? 嫌、私を、捨てないで……!」
アルテミシアが突如、頭を抱えてその場へ崩れ落ちた。
彼女の脳裏には、シオンに拒絶され、見捨てられるという、最も恐れていた『絶望の幻影が強制的に見せられていた。ルミナリアやセレナも、それぞれのトラウマに囚われ、激しく呼吸を乱し始める。
「クフフ、精神汚染か。サキュバス以上の使い手気取りのようだが、忘れてもらっては困るな」
シオンは怯むことなく一歩前へ出ると、崩れ落ちたアルテミシアを優しく引き寄せ、その唇に自身の唇を重ねた。
濃厚な口づけと共に、シオンの圧倒的な「支配の魔力」が、アルテミシアの中へと直接流し込まれる。
「んんっ……!? あ、ぁはっ……!」
アルテミシアの身体がビクンと跳ね上がる。
脳内を埋め尽くしていた偽りの絶望が、シオンの放つ強烈な快楽と絶対的な所有の波動によって、一瞬にして消し飛ばされる。
彼女の瞳にシオンへの狂信的な愛の光が戻る。
「思い出したか? お前たちの精神を支配していいのは、この世界で俺ただ一人だ」
シオンがルナリス、シェリアたちにも次々と魔力を分け与えると、美女たちは全員、ファントムロードの魔力を完全に無効化し、禍々しいオーラを放って立ち上がった。
「バ、バカな……! 我が最高位の精神破壊を、ただの快楽魔力で上書きしただと……!? あり得ん、そんな怪物が人間に存在するはずが……!」
ファントムロードが仮面の奥で絶望の声を上げる。
「さあ、お仕置きの時間だ。その生意気な仮面の下がどんな顔をしているか、じっくりと拝見してやる」
シオンの冷酷な命令と共に、完全に正気を取り戻し、怒りに燃える美女たちが、亡霊城の軍勢に向けて一斉に飛び込んでいった。
第56話へ続く