【第35話】黎明の進軍
鉄血の砦を包み込む夜霧は、シオンの濃厚な魔力の残滓を含んで淡く桃色に煙っていた。
昨夜の激しい交わりから一夜が明け、魔王軍の重要拠点であったはずのその場所は、完全にシオンの「絶対支配」を具現化するゆりかごへと変貌を遂げていた。
砦に据えられた玉座。
そこに傲然と腰を下ろすシオンの傍らには、すでに敵としての鋭さを完全に喪失したルビリアが付き従っていた。
かつて漆黒の軽装鎧に身を包み、夜の女王と恐れられた魔戦士の姿はそこにはない。
薄い絹の衣服だけを纏った彼女の肌には、シオンによって刻まれた愛欲の紋様が淡く明滅し、その瞳は潤んだまま玉座の主へと向けられている。
「シオン様、お目覚めの湯をご用意いたしました。それとも……先に私をお召し上がりになりますか?」
ルビリアは自ら跪き、シオンの膝に豊かな胸を押し付けながら、蕩けた声で囁いた。
サキュバスの血がシオンの「性の捕食者」の能力に完全に屈服した結果、彼女は一分一秒でもシオンの魔力に触れていなければ身体が疼き出すほどの極度の依存状態に陥っていた。
「朝から盛るな、ルビリア。まずは現在の状況を報告しろ。お前たちがここを落とされたと知れば、魔王軍の本体がどう動くか、お前なら予測がつくだろう」
シオンが冷淡にその顎を持ち上げると、ルビリアはそれだけの行為に小さな吐息を漏らしながら、恍惚とした表情で首を縦に振った。
「はい、シオン様……っ。私の浅はかな知識など、貴方の叡智の前には無に等しいですが……。鉄血の砦の陥落、そして私とガルガロスの敗北は、魔王領へとすでに伝わっているはずです。魔王ギルガザードは、自身の権威を汚されたことに激怒し、即座に直属の『黒耀騎士団』を差し向けるでしょう」
「黒耀騎士団、か」
「はい……。私やガルガロスと同じ純血の魔族だけで構成された精鋭です。団長を務めるのは、冷血無比なる魔女アルテミシア。彼女は一切の感情を持たず、魔王の命令を遂行するためだけに動く残虐な存在です」
ルビリアは怯えるようにシオンの足首に手を這わせ、すがりつく。それは敵の強大さに対する恐怖ではなく、シオンに捨てられること、そしてこの快楽の檻から追い出されることへの恐怖だった。
「安心しろ、ルビリア。どんな魔女だろうが、俺の前に現れた瞬間から俺の玩具に過ぎない。お前がその証明だ」
「ああ……っ、シオン様……! 感謝いたします、私の絶対の主よ……っ!」
シオンが頭を乱暴に撫でてやると、ルビリアはそれだけで絶頂を迎えるかのように身体を細く震わせ、主の靴へと何度も深い口づけを捧げた。
その時、広間の重厚な扉が開かれ、ヴァルグリムと巫女サクヤ、そしてフェンリルの姿から少女の姿へと戻ったセレナとリーナ、ルナリス、ルミナリアが入ってきた。
「シオン様、砦の周囲に配置した偵察部隊より報告が。ルビリアの言う通り、南方の地平より不穏な魔力の高まりを感知しました。黒耀騎士団の先遣隊と思われます」
ヴァルグリムが漆黒の大剣の柄に手をかけながら、恭しく一礼する。
その隣では、サクヤが嫉妬に満ちた瞳でシオンの膝にすがるルビリアを睨みつけていた。
「ルビリア、ずいぶんと早く馴染んだようですね。シオン様の寵愛を独占しようなど、身の程をわきまえなさい」
「ふふ、サクヤ。貴女がどれだけシオン様の最初の手駒であろうと関係ないわ。この身体に刻まれたシオン様の魔力は、貴女のそれよりもずっと濃密に私を支配しているのですから……」
ルビリアは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、わざとらしくシオンの指先を舐め上げる。
二人の女の間で散る火花を、シオンは退屈そうに一蹴した。
「くだらない諍いはそこまでにしろ。敵が来るなら迎え撃つだけだ。サクヤ、お前の『結界』で砦の周囲の氷の罠をさらに強固にしておけ。ヴァルグリムとセレナは、寝返った魔族の兵を指揮して伏兵を配置しろ」
「御意!」
「リーナはルナリスとルミナリアを連れて最終防衛ラインで待機」
「分かったわ、シオン」
シオンの命令が下った瞬間、全員の表情から私情が消え、狂信的な兵士の顔へと切り替わる。
シオンの支配能力は、ただ肉体的な快楽を与えるだけでなく、その精神をシオンの所有物として最適化する。
彼らにとって、シオンの命令を遂行することこそが、最大の歓喜であり、存在理由となっていた。
数時間後、鉄血の砦を囲む荒野は、異様な緊張感に包まれていた。
不気味なほどに静まり返った銀世界。
その向こうから、漆黒の馬に跨り、漆黒の鎧に身を包んだ一団が姿を現した。
黒耀騎士団、その数およそ五百。
数は前回の魔王軍よりも少ないが、放たれるプレッシャーは桁違いだった。
一騎一騎が、一国の軍隊に匹敵するほどの魔力を宿している。
その先頭を歩むのは、不気味なほどに白い肌と、血のように赤い髪を持つ美女だった。
彼女こそが、魔王の懐刀と呼ばれる魔女アルテミシア。
アルテミシアは砦の城門前に立ち塞がるヴァルグリム、そしてその背後から見下ろすシオンの姿を冷徹な瞳で捉えた。
「ヴァルグリム。魔王様を裏切り、人間の家畜に成り下がったか。それに、ルビリア……。夜の女王ともあろう者が、浅ましい牝犬のように男の足元で這いつくばるとはな。魔族の面汚しどもめ」
アルテミシアの声には、怒りすら含まれていなかった。
ただ、ゴミを見るような、完全な冷徹さだけがそこにあった。
城壁の上からその言葉を聞いたルビリアは、かつての同僚に向けて、妖艶にして狂気じみた笑みを返した。
「アルテミシア、哀れなのは貴女の方よ。まだシオン様の素晴らしさを知らないなんて。あの御方の指先が触れただけで、お前が大事に抱えている『理性』も『忠誠』も、すべて甘い蜜へと変わってしまうわ。早くこちらへいらっしゃい。貴女のその冷たい身体も、シオン様に極上の快楽で溶かしてもらうといいわ」
「狂ったか」
アルテミシアは短く切り捨てると、細い右手を天空へと掲げた。
その指先から、空間を裂くような黒い雷撃が迸る。
「全軍、突撃。裏切り者には死を。人間の身の程知らずには、永劫の苦痛を」
冷酷なる魔女の号令と共に、黒耀騎士団が地鳴りを立てて進軍を開始する。
だが、その様子を玉座から見つめるシオンの口元には、すでに勝利を確信した捕食者の笑みが浮かんでいた。
「お前たちのその冷徹な誇りが、絶頂の悲鳴へと変わる瞬間が楽しみだ」
シオンの冷たい声が荒野に響き渡ると同時に、サクヤの詠唱が始まり、大地から再び桃色の氷柱が激しく突き出した。
黒耀の死神たちと、愛欲の絶対支配者シオンの、新たなる血と蜜の戦いが幕を開ける。
第36話へ続く




