【第33話】崩壊の序曲
「あ……、はぁっ、うそ……何よ、これ……っ!」
鉄血の砦の城門前、凍りついた荒野にルビリアの悲鳴に似た吐息が響き渡る。
彼女が放った渾身の精神魅了魔術は、シオンの『性の捕食者』という絶対的な支配能力によって完全に反転され、より禍々しく、より濃厚な愛欲の毒へと変質して彼女自身の肉体へと突き刺さっていた。
サキュバスの血を引く彼女にとって、精神魔術の逆流は致命的だった。
脳髄を直接灼かれるような強烈な快感が全身の神経を駆け巡り、肌という肌が粟立つ。
秘所からは自覚すらできないほどの熱い蜜が溢れ出し、漆黒の軽装鎧を内側から湿らせていく。
「くっ、あ……殺して……いや、見ないで……っ!」
ルビリアは双剣を取り落とし、己の豊かな胸を掻きむしるようにして雪原に身をよじった。
シオンを見上げるその瞳は、すでに敵意ではなく、快楽に飢えた雌のそれへと塗り替えられつつある。
「ガハハハ! どうしたルビリア! たかが人間の術にかかってんじゃねえ!」
ヴァルグリムの大剣と激しく武器を交えながら、ガルガロスが怒号を上げる。
しかし、そのガルガロスもまた、目の前の元同胞の変貌ぶりに冷や汗を流していた。
「無駄だ、ガルガロス。お前たちの敗北は、シオン様がこの地へ足を踏み入れた瞬間に確定している」
ヴァルグリムの漆黒の大剣が、ガルガロスの大斧を力任せに弾き飛ばす。
かつて互角だったはずの力関係は、シオンの魔力供給を受けて強化されたヴァルグリムの側に、完全に傾いていた。
「チッ、どいつもこいつも狂いやがって……!」
ガルガロスは一歩後退し、周囲の数千の軍勢へと吼える。
「野郎ども! 突撃だ! 人間もろとも、裏切り者どもを八つ裂きにしろ!」
その命令に呼応し、砦から魔族の群れが一斉に雪崩れ込んでくる。
圧倒的な数の暴力が、シオンたちを圧殺せんと迫る。
だが、シオンは一歩も動かない。
ただ、隣に控える巫女サクヤの肩を優しく抱き寄せた。
「サクヤ、お前の新しい力を見せてやれ。この無粋な雑魚どもを、俺たちの祝祭の飾りにしてな」
「はい……シオン様。貴方のお望みのままに……っ」
サクヤは恍惚とした表情でシオンの胸に身体を預け、その両手を天空へと掲げた。
「集え、我が身に眠る氷霊の脈動。シオン様の敵を、永遠の檻へと誘え『淫凍の結界』!」
サクヤの呪唱と共に、大地が激しく脈動する。
突撃してきた魔族たちの足元から、突如として淡い桃色の輝きを放つ巨大な氷柱が次々と突き出た。
それは通常の氷ではない。
シオンの愛欲の魔力と混ざり合ったサクヤの氷は、触れた者の肉体だけでなく、精神をも瞬時に凍結させ、強制的な『魅了』状態へと叩き落とす絶望の檻だった。
「な……何だこの光は……あ、身体が、熱い……っ!?」
「シオン様……ああ、シオン様……!」
先頭を走っていた魔族の戦士たちが、氷に囚われた瞬間、武器を取り落としてその場に跪いていく。
戦意は一瞬にして消し飛び、その瞳はサクヤと同様に、シオンへの狂信的な忠誠の光へと染まっていく。
数百、数千の軍勢が、戦うこともなくシオンの奴隷へと変貌していく光景は、まさに悪夢そのものだった。
「ば、化け物め……!」
ガルガロスが驚愕に目を見開く。
その隙を、セレナは見逃さなかった。
フェンリルの姿となって戦うセレナが荒野を疾駆し、ガルガロスの死角からその巨躯へと躍りかかる。
鋭い爪がガルガロスの胸元を深く引き裂き、鮮血が白銀の雪を赤く染めた。
「ぐあああっ!?」
巨躯が雪原へと転がる。
大斧を失い、傷ついた狂戦士に、もはやかつての威容はなかった。
シオンはゆっくりと歩みを進め、未だに雪原で悶え苦しんでいるルビリアの前で足を止めた。
「さて、ルビリア。お前の誇り高い理性は、いつまで持つかな?」
シオンがその場にしゃがみ込み、ルビリアの濡れた顎を指先で持ち上げる。
「あ……シオン、様……いや、私は、魔王様の……っ!」
「お前の身体は、もう俺の味を覚えているぞ。ほら、ここがこんなに欲しがっている」
シオンの手が、ルビリアの胸元の鎧の隙間へと滑り込む。
引き締まった肌に触れられた瞬間、ルビリアの身体はビクンと大きく跳ね上がった。
サキュバスとしての本能が、シオンの持つ圧倒的な雄としての魔力に完全に屈服し、脳内の理性の堤防が音を立てて崩壊していく。
「ひゃぅあうっ!? あ、あ、ダメ……もう、無理……っ! 私を、私をあなたの玩具にしてくださいぃっ!」
ルビリアは自らシオンの足にすがりつき、その靴に何度も口づけを落とした。
夜の女王と恐れられた魔戦士が、一瞬にして一人の男の前に跪く牝犬へと成り下がった瞬間だった。
「いい子だ、ルビリア。今日からお前も俺のコレクションだ」
シオンは満足げに笑い、立ち上がって鉄血の砦を見上げた。
数千の魔王軍は、今やその大半がシオンを崇める私兵と化し、砦の周囲を埋め尽くしている。
「ガルガロス、お前はどうする? 従うか、ここで死ぬか」
シオンの冷徹な視線が、血を流して倒れる狂戦士へと向けられる。
ガルガロスは悔しげに歯を食いしばりながらも、周囲の圧倒的な絶望の光景を前に、ただ項垂れるしかなかった。
「鉄血の砦は、これより俺の拠点となる。魔王への反撃の狼煙は、ここから上がるぞ」
シオンの宣言に、寝返った数千の軍勢が地鳴りのような歓声を上げる。
支配の版図を確実に広げるシオン。
しかし、この一戦が、魔王領の深奥に眠る真の脅威を呼び覚ます引き金になることを、まだ誰も知らなかった。
第34話へ続く




