【第32話】鉄血の砦
極北の冷気が少しずつ和らぎ、荒涼とした岩肌が顔を覗かせる南の境界線。
そこに、黒々とした鉄と巨石で築き上げられた無骨な要塞――『鉄血の砦』がそびえ立っていた。
ここは魔王領の北方防衛の要であり、かつて数々の激戦を潜り抜けてきた呪われた地でもある。
今、その砦の最上階にある作戦室では、尋常ならざる殺気が渦巻いていた。
「おい、ヴァルグリムの野郎が人間に寝返ったというのは本当か?」
地響きのような低い声が、部屋の空気を震わせる。
声を放ったのは、身長二メートルを遥かに超える巨躯を持つ魔族の男。
魔王直属の近衛兵団を率いる狂戦士、ガルガロスだった。
その全身は歴戦の傷跡で覆われ、肩からは巨大な斧を二丁、まるで玩具のようにぶら下げている。
「はっ。間違いありません、ガルガロス様。ヴァルグリムだけでなく、あの地を守護していたフェンリル、さらには神殿の巫女サクヤまでもが、シオンと名乗る人間の男に身も心も捧げたとのことです」
報告を入れたのは、ガルガロスの副官であり、サキュバスの血を引く魔戦士ルビリア・ブラッドローズだった。
彼女は漆黒の軽装鎧に身を包み、背中には淫魔特有の小さな蝙蝠の翼を生やしている。
妖艶な美貌とは裏腹に、その瞳は冷徹そのもので、手にした一対の短剣には紫色の猛毒が滴っていた。
「ガハハハハ! 傑作だな! あの生真面目なヴァルグリムが人間に膝を突き、神聖な巫女が股を開いたか! 魔王様が直々に俺たちを動かした理由が分かったぜ。そのシオンとかいう人間、ただ者じゃねえな?」
ガルガロスは獰猛な笑みを浮かべ、机を拳で叩き割る。
「ただの人間とは思えません。偵察部隊の報告によれば、サクヤの氷の結界を容易く突破し、彼女たちを『魅了』のような未知の力で完全に支配下に入れたとか。精神汚染の類いか、あるいは……」
「そんなことはどうでもいい!」
ガルガロスはルビリアの言葉を遮り、斧を一本掴み取った。
「どんな術を使おうが、俺の斧で首をハネちまえば関係ねえ。三千の精鋭を動かすまでもねえ、俺一人でそのシオンの頭を叩き潰してやるよ!」
「お待ちください、ガルガロス様。敵はすでにこちらへ向けて進軍を開始しています。しかも、信じられないほどの速度で」
ルビリアの指摘に、ガルガロスは不機嫌そうに眉をひそめる。
「ああん? 籠城せずに打って出てきたってのか?」
「はい。サクヤの霊脈魔術によって、我が砦の周囲の街道が異常凍結を起こしています。こちらの進軍を妨害しつつ、少数精鋭で一気に本陣を急襲する構えかと。……来ました。城門の前に、敵影です」
ルビリアが窓の外を指差す。
砦の監視等から鳴り響く、けたたましい警鐘の音。
ガルガロスとルビリアがバルコニーへ出ると、そこには凍りついた荒野を堂々と歩いてくる一団の姿があった。
先頭を歩くのは、漆黒の外套をなびかせた一人の男――シオン。
その左右には、かつて魔王軍の同胞であったヴァルグリムと、完全にシオンの私兵と化した獣たち、そしてフェンリルの姿に戻ったセレナ、薄物の衣服から溢れんばかりの肢体を晒し、恍惚とした表情でシオンの袖を掴んでいる巫女サクヤの姿があった。
「よう、砦の留守番役ども。わざわざ出迎えご苦労なことだ」
シオンの声は、魔術によって増幅され、砦全体に響き渡った。三千の魔族の軍勢に包囲されているというのに、その表情には微塵の恐れもない。まるで自分の庭園を散歩しているかのような余裕が漂っていた。
「テメェがシオンかァ!」
ガルガロスがバルコニーから飛び降り、凄まじい地響きと共にシオンの目の前に着地する。
「ヴァルグリム、テメェ何のつもりだ? 魔王様への忠誠を忘れ、そんな青二才の奴隷に成り下がるとはな!」
ガルガロスの怒号に対し、ヴァルグリムは静かに大剣を引き抜いた。
「ガルガロス、お前の浅薄な脳みそでは理解できまい。シオン様こそが、この大陸の真の支配者となる御方。魔王などという過去の遺物に仕えることこそが、最大の無駄だったのだ」
「……寝言は死んでから言え!」
ガルガロスが大斧を振り上げ、ヴァルグリムへと襲いかかる。
二つの巨大な武器が激突し、凄まじい衝撃波が周囲の氷を吹き飛ばした。
その戦闘が火蓋を切ると同時に、砦の壁上からルビリアが率いる伏兵たちが一斉に飛び出す。
「シオン、あなたの首、私がもらい受けるわ」
ルビリアは空中から音もなく滑空し、シオンの背後へと回り込む。
その双剣がシオンの首筋へ吸い込まれようとした瞬間――。
「おっと、私の主人に手は出させないよ」
金属音が響き、セレナの牙がルビリアの攻撃を完璧に受け止めた。
「誇り高きフェンリルが、なぜ人間ごときにつき従う!」
「誇り? そんなものより、シオン様に与えられる快楽の方が、遥かに価値があるわ。あなたも、その身体で味わえばすぐに理解できるわよ」
セレナは妖しく微笑み、ルビリアを押し返す。
激化する戦場の中、シオンは一歩も動かず、ただ静かにルビリアの姿を観察していた。
「なるほど。あれがルビリアか。ヴァルグリムの言う通り、なかなかの極上物だな。あの引き締まった腰つきに、淫魔の翼……俺のコレクションに加えるのが楽しみだ」
シオンの視線がルビリアの全身をなめ回すように動く。
その瞳に宿る絶対的な「支配」の波動を感じ取り、ルビリアの背筋に冷たい戦慄が走った。
「な、何よその目は……! 私をそんな、安物の雌狐みたいに見るんじゃないわよ!」
ルビリアはセレナの猛攻をいなしながら、シオンへ向けて強力な精神魅了の魔術を放つ。
サキュバスの純血に近い彼女の魔術は、いかなる英雄をも一瞬で虜にする威力を秘めていた。
しかし、シオンはその魔術を正面から浴びながら、ふっと鼻で笑った。
「サキュバスの魅了か。面白いが……俺の支配の力と比べれば、子供の火遊びだな」
シオンが指をパチンと鳴らす。
その瞬間、ルビリアが放った魔術の術式が完全に反転し、シオンの能力『性の捕食者』と合わさり彼女自身の精神へと逆流した。
「あ……、がはっ!?」
脳内を直接かき回されるような、強烈な快感と衝撃。
ルビリアは膝をつき、自分の胸を強く押さえる。
心臓の鼓動が異常な速さで脈打ち、顔が急速に高揚していく。
シオンを見た瞬間、理性が「敵」だと叫んでいるのに対し、本能が「この男の足元に跪け」と激しく命令し始めていた。
第 33話へ続く




