第59話 二人の王子
「何をしている! ぼうっと立っているバカがあるか! すぐに医療班を呼べ!」
気づけば、喉が裂けるかと思うほどの怒声を張り上げていた。
倒れ伏した公爵令嬢――イデア・シュベルッツベルグ。その白い肢体が床の上に崩れ落ちるさまは、まるで糸の切れた人形のようであった。
「おい、しっかりしろ、イデア!」
俺は彼女を抱き起こす。驚くほど軽い。いつもは尊大な物言いで人を睥睨する女が、今はただのか弱い少女に過ぎない。瞼は閉ざされ、血の気の失せた唇はわずかに震えている。
その呼吸がまだあることを確かめたとき、胸の奥にひとまずの安堵が走った。だが同時に、黒い苛立ちが喉元までせり上がる。
視線を上げると、数歩離れたところにアレンが立っていた。
イデアの婚約者。
そして――勇者。
やつは神妙な顔で彼女を見下ろしているだけだった。動こうともしない。ただ深刻そうに、まるで悲劇の舞台を眺める観客のように。
自分の婚約者が意識を失っているのだぞ。
なぜ、駆け寄らない。
なぜ、抱き上げない。
胸中で毒づきながら、俺は歯を食いしばる。
――なぜ、俺ではなく、こいつが勇者なのだ。
あの日のことを、俺は忘れたことがない。
レイヴァス教会の使者が王城を訪れ、玉座の間に重苦しい沈黙を落とした日。
腹違いの弟――アレン・ロードナイトが、神に選ばれし勇者であると告げられた、あの日を。
あの瞬間、俺の世界は音を立てて崩れた。
それまで、王位継承権は揺らぐことがなかった。
正妃の息子である俺、ルーク=ロードナイトこそが次期国王。
そう信じて疑わなかったのは、俺一人ではない。
父も、母も、重臣たちも、皆が当然の未来としてそれを受け入れていた。
だからこそ、俺は六年間――誰よりも剣を振るい、誰よりも学問に励み、誰よりも国を思い、王たる器を磨いてきた。
弱音など吐かなかった。甘えもしなかった。夜半、灯をともして書物に向かい、指先が裂けるまで木剣を握り続けた。
王になるために。
だというのに。
神に選ばれた、というたった一言で、すべてが覆された。
俺の努力も、覚悟も、誇りも――まるで塵芥のように払われた。
そんな理不尽が、あってたまるか!
俺は疑った。
アレンが何らかの策を弄し、教会に自分を勇者と宣言させたのではないかと。
だが、いくら調べても証拠は出ない。
教会の内部に探りを入れても、怪しい金の流れも、接触の形跡も見つからなかった。
そして、追い打ちをかけるように届いた一報。
――聖女誕生。
しかもその地は、聖女を輩出してきた聖レイス法王国ではなく、我らがアストラル王国だという。
勇者誕生から、わずか一月後のことだった。
さらに数日も経たぬうちに、教会関係者が何者かに暗殺されるという大事件が起きる。
そして極めつけは――。
自ら聖女と名乗り出た女の名。
イデア・シュベルッツベルグ。
あの、公爵家の性悪女。
傲慢で、打算的で、常に人を値踏みするような目をしていたあの女が、聖女?
笑わせる。
その報を聞いたとき、俺は確信した。
黒だ、と。
教会の混乱、暗殺、唐突な聖女宣言。
すべてが不自然すぎる。
同時に、胸の奥で別の感情が芽吹いた。
――これは、使える。
もし我が国から誕生した聖女が偽物であれば。
ならば勇者もまた、偽物である可能性が生まれる。
神の選定が揺らげば、王位継承の正統性も揺らぐ。
そうなれば、俺が王太子の座に返り咲く道も、決して閉ざされてはいない。
俺は待った。
焦らず、騒がず、虎視眈々と。
偽りが暴かれる、その日を。
だが、運命というものは、時に人を嘲笑う。
ある日、さらに奇妙な報せが届いた。
――我こそが真の聖女である、と名乗る者が現れた。
その名は。
ライリー=レガリアント公爵令嬢。
報告を聞いた瞬間、俺は思わず吹き出した。
聖女が二人だと?
神も随分と節操がないらしい。
乾いた笑みが喉の奥でひび割れる。
聖女が二人。
勇者は腹違いの弟。
そして暗殺騒ぎ。
盤上は混沌としている。ならば、その混乱を利用すればいい。
アレンを追い落とすための策を、俺は静かに、冷徹に練り上げる――。
そのはずだった。
『世界を平和にしたい――そう願った者がいたとして』
不意に、あの声が甦る。
凛と澄んだ響き。
揺るぎのない、まっすぐな碧眼。
大嫌いな色だ。
俺からすべてを奪った男と同じ蒼。
神に選ばれた勇者と同じ、忌まわしい色。
それなのに。
どうしてあの瞳は、あれほどまでに澄んでいたのか。
『――魔王に立ち向かうことは罪なのでしょうか? 勇者でもない者が、世界を救おうとすることは罪なのでしょうか?』
その言葉は、剣よりも鋭かった。
刃のように真っ直ぐで、逃げ場を許さず、俺の胸奥へと突き刺さった。
『遠く離れた場所で魔王を倒す勇者よりも、すぐそばで手を差し伸べてくれた人を、勇者と呼びたい』
その一言で、場の空気が変わった。
誰もが息を呑み、言葉を失った。
思い出すたび、胸の奥が締めつけられる。
それは嫉妬か。
悔恨か。
それとも――憧憬か。
『誰かを救いたいと願った瞬間――その人はもう、聖女なのです』
その言葉が今もなお、胸の奥で反響する。
物語の中の聖女。
幼い頃、乳母に読み聞かされた英雄譚。傷ついた人々に寄り添い、涙を拭い、微笑みを絶やさぬ存在。
絵本の中でしか存在し得ない、理想の象徴。
だが、あの時のイデアは――。
確かに、それだった。
死を受け入れかけていた少女の前に立ち。周囲の制止も、貴族としての体面もかなぐり捨てて。
『――生きなさい!』
声を張り上げた。
命令のように。
祈りのように。
自らの命を削るかのように。
あの横顔が脳裏に焼きついて離れない。
額は汗に濡れ、髪は乱れ、気品も何もあったものではなかった。
だが。
それでも。
――いや、だからこそ。
美しかった。
あれは公爵令嬢の顔ではない。
虚飾をまとった貴族の顔でもない。
ただひとりの、人間の顔だった。
思い出すだけで胸が熱を帯びる。
鼓動が速まる。
頬に血が上るのを、はっきりと自覚する。
「……勇者、か」
呟きは夜気に溶けていった。
勇者とは神に選ばれた者の称号だ。
そう思っていた。
そう教えられてきた。
だから俺は、選ばれなかった自分を呪い、選ばれたアレンを憎み、神を恨んだ。
だが。
神に選ばれずとも、誰かのために剣を取り、誰かのために声を枯らすことはできるのではないか。
彼女が言ったように。
救いたいと願った瞬間、その人はもう、勇者なのだとしたら。
俺は――。
選ばれなかった王子のまま、怨嗟にまみれて朽ちるのか。
それとも。
神に背を向けられたとしても、自分の意志で立ち上がるのか。
策を練るために握り締めていた拳が、いつの間にか力を失っている。
アレンを陥れることだけを考えていたはずなのに。いつの間にか、問いは自分自身へと向いていた。
俺はもう一度、夢を見てもいいのだろうか。
王座ではない。
勇者でもない。
ただ――誰かを救う者として。
夜空を仰ぐ。
星々は誰を選ぶでもなく、ただ静かに瞬いていた。
◆
「今日は随分と、騒がしい一日でしたな」
夜風に吹かれながら、僕はテラスの欄干にもたれていた。
眼下には王都の灯りが瞬いている。昼の喧騒が嘘のように、街は静まり返っていた。だがその静けさは、嵐のあとの凪のようでもあり、どこか落ち着かない。
背後の室内には、辺境伯――バデラッド=ゴルドンが立っている。
白髪混じりの頭をわずかに垂れ、好々爺然とした面持ちで僕を見守っていた。年齢を感じさせぬほど背筋は伸び、その佇まいには長年戦場と政場を渡り歩いてきた男の重みがある。
側室の子である僕に、王城内で味方は多くない。
公然と敵意を向けられることはなくとも、微笑みの裏にある値踏みは、幼い頃から嫌というほど知ってきた。
そんな僕が唯一、心を許せるのが彼だ。
バデラッドだけは母を蔑まず、僕を「殿下」としてではなく、一人の人間として扱ってくれた。
「それにしても、今日のイデア嬢は見事でした」
昼間の出来事を思い返すように、彼は静かに言う。
確かに、見事だった。
けれど――。
僕はどうしても、彼女が聖女だとは思えなかった。
「……殿下。くれぐれも、イデア嬢の前でそのようなお考えを口になさらぬように」
僕の沈黙の意味を察したのだろう。バデラッドは穏やかな声音のまま、しかし確かに釘を刺す。
僕は小さく息を吐いた。
「わかっているよ。……でも」
夜空を見上げる。
星々は変わらず瞬いている。人の疑念など知りもしない、冷ややかな光。
「彼女は、どうやってライリー嬢の……あの奇妙な石を、解除したんだろう」
あの瞬間が脳裏に焼きついて離れない。
ライリー嬢の胸元に埋め込まれていた、禍々しい石。七色の輝きを放ち、場の空気を歪ませていたあの異物。
イデアが触れて、何かをすると、それは音もなく光を失った。
「どう、と申されましても……聖女の力をお使いになったのでしょうな」
「……聖女の力を行使すれば、必ず七色の輝きが生じるはずだよ」
僕は振り返らずに言った。
「でも、あの時のイデアの左手からは、聖女の光は放たれていなかった」
聖女の力は、教会の記録にも明確に残っている。
発動の兆しは七色の光。神聖なる加護の証。
だが、僕の目に映った彼女の手には――何もなかった。
それどころか、あの瞬間、イデアから不気味な気配すら感じていた。
「……ライリー嬢から放たれた光と混ざり合い、そのように見えただけの可能性もございますな」
穏やかな推測。
「……そうだね」
否定はできない。
あの場は混乱していた。
眩い光が交錯し、誰もが息を呑んでいた。
見間違いという可能性も、確かにある。
そして。
あの時のイデアの表情を思い出す。
祈るでもなく。
誇るでもなく。
ただ、必死に――ライリーを救おうとする顔。
あれは演技だろうか。
「……二人とも、偽物」
ふと、謁見の間で兄上が口にした言葉が蘇る。
冷ややかな声音。まるで盤上の駒を評するかのような、感情のない宣告。
「殿下」
僕の不用意な呟きを咎めるように、バデラッドが首を横に振る。
「あまり、婚約者を疑うものではございません。それに――殿下もご覧になられたはずですぞ。今日のイデア嬢の、聖女然とした立派なお姿を」
聖女然とした姿。
その言葉が胸の奥に小さな波紋を広げる。
僕はようやく振り返った。
室内の灯りに照らされたバデラッドの顔は、どこか優しかった。
「うん。……そうだね」
本当に、そう思った。
あの時の彼女は、確かに聖女の物語そのものだった。
夜風が頬を撫でる。
「……バデラッド」
「は」
「もし、聖女が偽物だったとしても……人を救った事実は、消えないよね」
自分でも、なぜそんなことを尋ねたのかわからない。
バデラッドは一瞬目を細め、やがて静かに答えた。
「ええ。救われた者にとっては、それが真実でございましょう」
その言葉に、胸がわずかに軽くなる。
王都の灯りが、揺らめいた。
僕はもう一度、夜の街を見下ろす。
今日という一日は、確かに騒がしかった。
だが本当に騒がしいのは――
きっと、僕の心の内なのだろう。




