第58話 闇属性
私は改めてライリーの胸に埋め込まれた宝石へと視線を落とした。
七色の光が束となり、天井へと突き刺さるように伸びている。
まるで神へ捧げる祈りの柱。
だがその実体は、祈りなどではない。
暴走する力の噴流。
あの宝石へと流れ込むライリーの魔力を断つには――
直接、触れるしかない。
「……臆してなど、いられませんわね」
喉がひりつく。
それでも私は、左手をゆっくりと伸ばした。
白く細い指先が、七色の光に触れる。
「……ゔぅっ!?」
瞬間。
焼ける。
否、焼けるという生易しいものではない。
骨の髄まで炙られる。
まるでブレスを吐いた直後の竜の喉奥へ手を突っ込んだかのようだ。
皮膚が悲鳴を上げ、神経が軋み、視界が白く弾ける。
ただでさえ聖属性は、私にとって猛毒。
それが凝縮されたこの状態では、耐えられるはずがない。
膝が震える。
だが、退けない。
私の体力も、長くは保たないだろう。
「(落ち着いて、イデア!)」
マヤの声が響く。
「(いつも聖女の指輪にやっていることを、今度は“自分自身”でやればいいんだよ!)」
言うは易し。
この激痛の中で、意識を研ぎ澄ますなど――正気の沙汰ではない。
だが。
泣き言を言っている暇はない。
ライリーの呼吸は、さらに浅くなっている。
唇がかすかに震えた。
時間が、ない。
「……集中、なさいませ」
私は宝石に手を当てたまま、目を閉じる。
光を見ない。
熱を意識しない。
意識を闇へ沈める。
深く。
もっと深く。
胸の奥。
私の本質へ。
すると。
久しく聞いていなかった、あの声が蘇る。
――愚かですわね。
低く、甘く、冷たい声。
――どうしてわざわざ“敵”を助けるのかしら?
耳元で囁くように、心を撫でる。
――助ける振りをして、そのままトドメを刺してしまいなさい。
ぞくり、と背筋が震える。
これは、マヤでも老婆でもない。
もっと近い。
もっと内側。
私の奥底から響く声。
「(……あなたは、一体……誰?)」
意識の闇の中で、問いかける。
すると、笑う気配がした。
――私は、イデア=シュベルッツベルグ。
――真なるあなた。
――本当の、醜いあなた自身ですわ。
心臓が大きく跳ねる。
違う。
そんなはずはない。
だが、その声は私の思考を知り尽くしている。
ライリーを恨んでいたこと。
日々の苛立ち。
陥れられた怒り。
奪われそうになった立場。
容易く裏切り、離れたこと。
すべて。
――あなたは聖女なんかじゃない。
――ただの殺戮者。
――その手は、救うためではなく奪うためのもの。
痛みが増す。
宝石の熱と、心の奥の声。
どちらが本当の苦痛なのか、分からなくなる。
――ほら、楽になりなさい。
――闇に従えばいい。
――すべてを奪ってしまいなさい。
指先が、わずかに震える。
このまま闇を解き放てば、この場のすべてを飲み込んでしまいそうなほど。
ライリーも、光も、すべて消える。
簡単だ。
実に、簡単だ。
だが。
「(……黙りなさいませ)」
私は、はっきりと言い放つ。
声が震えていても、構わない。
「(確かに私は、綺麗な人間ではありませんわ)」
熱が、皮膚を焼く。
それでも手は離さない。
「けれど――だからといって、望んで悪を演じる気などありませんわ!」
闇が、静かに広がる。
破壊ではない。
侵食でもない。
包み込む、夜のような闇。
「(あなたが私だというのなら、なおさら)」
私は、意識をさらに深く沈める。
「私はあなたをも、御します」
闇が、宝石へと触れる。
七色の光が、ぎしりと軋んだ。
それは戦いではない。
対消滅でもない。
光を殺すのではなく――
光の通り道を、塞ぐ。
ライリーから宝石へと流れ込む魔力の“流路”に、闇を滑り込ませる。
静かに。
確実に。
炉へと注がれる燃料を断つために。
七色の光が一瞬だけ強く弾けた。
そして――
わずかに弱まった。
私は歯を食いしばる。
まだだ。
まだ、足りない。
それでも。
確かに。
私は今、奪うためではなく、救うために闇を使っている。
最悪の運命を、改変するために。
「……ゔぅ……い、であ……」
かすれた声が、耳朶を打つ。
はっとして視線を落とせば、ライリーの瞼が、わずかに持ち上がっていた。
焦点の定まらぬ瞳が、私を捉える。
「――ライリー! しっかりなさい!」
自分でも驚くほどの声量だった。
冷静さも体裁も忘れ、私は叫んでいた。
「……なに、を……して……いま、す……の……?」
息の切れ切れの言葉。
その瞳には光がない。
怒りも、嫉妬も、反発もない。
ただ、諦め。
すべてを手放した者の目だった。
「あなたを、助けに来ましたわ!」
私は宝石に触れたまま、彼女を真っすぐに見据える。
痛みで視界が霞んでいても、逸らさない。
「わ、たくし……を、たす……ける……?」
黒く変色した唇がわずかに動く。
その声は風に掻き消されそうなほど頼りない。
「……どう……して……」
問いは、静かだった。
だが確かに、揺れていた。
その瞳に敵意はない。
あるのは困惑。
「……わたくしは……あなた、の……ことが……きらい、です……わ」
胸の奥がちくりと痛む。
改めて真正面から告げられるとは思わなかった。
いつも皮肉や嫌味の奥に隠れていた本音。
それが、いま剥き出しになっている。
「私も、あなたのことが大嫌いですわ」
反射だった。
売り言葉に買い言葉。
こんな状況でさえ、言い返さずにはいられない。
それが、イデア=シュベルッツベルグという人間だ。
そして私は、そんな自分を少しだけ憎んでいる。
「――――!」
その時。
本来なら、指先一つ動かすことすら困難なはずのライリーの手が、そっと私の左手に触れた。
熱で焼ける私の手に。
震える指が重なる。
「……なら、もう……やめ、て……」
途切れ途切れの声。
「きらいな……ひと、たすけ、る……ひつよう、は……ない……」
確かに、その通りだ。
嫌いな相手を好んで助ける者などいない。
そんな奇特な存在がいるとすれば――
それはきっと、聖女と呼ばれるお人好しだろう。
つまり、私ではない。
私は、聖女ではない。
けれど。
手を退けるつもりは、ない。
たとえ大嫌いなライリーに愚かだと嗤われようとも。
「……やめ、て」
聞かない。
「……おね、がい……」
聞き入れない。
大嫌いな相手の懇願など、絶対に。
「……いで、あ、の……てが……こわれ、ちゃう……」
――。
私は、一瞬、言葉を失った。
それは拒絶ではなかった。
拒絶の仮面を被った――優しさ。
自分が死ぬかもしれないという状況で。
彼女は。
私の手を、案じている。
焼け爛れようとしている、この手を。
胸の奥で何かが軋む。
嫌いだと告げたばかりの相手が。
私の痛みを恐れている。
「……おね、がい……もう、やめて……」
「やめませんわ」
即答だった。
「……どう、して……」
愚問だ。
そんなこと、いちいち言葉にしなければ分からないのか。
私は宝石に触れたまま、彼女を睨みつける。
虚ろな瞳が、私を見返す。
「わかりなさい」
喉が焼ける。
それでも言う。
「嫌いだからですわ」
彼女の瞳が、わずかに見開かれる。
「嫌いだから、放っておけないのです」
嫌い。
そうだ。
腹立たしくて、憎たらしい。
だけど、どこか気になる相手。
だからこそ。
目の前で壊れるのを見ていられない。
「あなたが勝手に死んだら、私は一生、あなたを罵れませんもの」
唇の端を、無理やり吊り上げる。
「それでは困りますわ」
宝石の光がさらに弱まる。
闇が、確実に魔力の流れを包み始めている。
「……だから、生きなさい」
命令口調で告げる。
「私に嫌われ続ける義務が、あなたにはありますのよ」
七色の光が大きく揺らいだ。
ライリーの瞳の奥にかすかな光が戻る。
それは聖なる光ではない。
生への微かな執着。
私は歯を食いしばる。
闇をさらに深く、ライリーの中へと流し込む。
焼ける痛みも、内なる囁きも、すべて押し込めて。
私は絶対に、この運命を書き換える。
「……うぅ……ううっ……」
喉の奥で堪えるような嗚咽。
涙を零しながら、ライリーは必死に声を殺している。
その姿は――出会った頃の、あの泣き虫の少女そのものだった。
強がることも知らず、すぐに涙ぐんで、それでも必死に前を向こうとしていたあの頃の。
懐かしさが、胸の奥で淡く揺れる。
こんな状況だというのに、私は思わず小さく笑ってしまった。
右手で脂汗まみれの顔を拭う。
視界が滲む。
けれど、光は確実に弱まっている。
あと少し。
本当に、あと少し。
そう、息を吐き出した――その刹那。
「……きゃあ!?」
宝石が、最後の足掻きとばかりに脈打った。
どくん、と。
心臓のように。
瞬間、魔力の吸引が跳ね上がる。
闇で塞いでいた流路を、無理やりこじ開けようとする暴力的な力。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
ライリーの悲鳴が室内を突き抜けた。
壁を震わせ、廊下へと走り、城中へと響き渡る。
その場にいた者すべての血を凍らせるような叫び。
視界の端で、ルーク殿下とアレン殿下が息を呑むのが見えた。
いつの間にか、部屋の入口には陛下とお父様の姿もある。
だが、誰も動けない。
これは、私の戦いだ。
「……ゔぅっ……」
私の左手は、すでに限界だった。
皮膚は裂け、剥がれ、赤黒い肉が露わになっている。
焼け焦げた匂いが鼻を刺す。
それでも。
私は手を退けない。
「……もう、いい……」
ライリーの声が、震える。
「しつこいですわよ!」
思わず怒鳴り返す。
「……いで、あ、の、……てが……てが……」
涙に濡れた瞳が、私の手を見つめている。
自分の苦しみよりも、私の傷を案じている。
なんて、馬鹿な子だ。
私は、にかっと笑った。
脂汗まみれで、髪は乱れ、淑女の品格などどこにもない。
それでも構わない。
いま必要なのは、優雅さではない。
「友達を助けるためなら――」
焼ける痛みを押し殺し、闇をさらに深く流し込む。
「腕の一本くらい、安いもんですわ!」
言い切った、その瞬間。
宝石の光が、びしりと罅割れた。
七色の柱が乱れ、天井へ伸びていた光が霧散する。
闇が、完全に流路を断ち切った。
魔力の吸引が止まる。
暴走していた聖属性が、静かに沈んでいく。
そして――
室内に響いたのは。
「……あ……あぁ……ぁああああああ……!」
生まれたての赤子のような、純粋な泣き声。
悲鳴ではない。
恐怖でもない。
ただ、生きている者の声。
ライリーは、声を上げて泣いていた。
子どものように。
何も取り繕わず、ただ、息をするように。
その泣き声を聞いた瞬間、私の全身から力が抜ける。
焼け爛れた左手が、ようやく宝石から離れた。
宝石は、ただの透明な石へと変わっていた。
七色の光はもうない。
やがて、塵となって消えていく。
私は荒い呼吸のまま、その場に倒れた。
視界の端で、アレン殿下――ではなく、なぜかルーク殿下が駆け寄ろうとするのが見えた。
陛下が静かに頷いている。
けれど、そんなことはどうでもいい。
私は、泣きじゃくる少女を横目に見る。
「……やかましいですわね」
かすれた声で、そう呟く。
けれど。
胸の奥には確かな安堵があった。
最悪の運命はいま、この瞬間。
確かに、書き換えられたのだ。




