第60話 アルストロメリア
「イデア様、本当に大丈夫ですか?」
控えめな、それでいて切実な声だった。
王城であの事件が起きてから、数日が過ぎている。
ライリーの胸に埋め込まれていた宝石――あの禍々しい光を放つ石。その力を鎮めるため、私は暴走する聖女の光に、己の左手で直接触れた。
結果は、見るも無惨だった。
皮膚は焼け爛れ、赤黒く変色し、ところどころ肉が露出していた。触れれば熱を持ち、じくじくと疼く。夜半、痛みに目を覚ますことも一度や二度ではない。
今は幾重にも包帯を巻かれ、どうにか指を動かせるまでに回復している。
それは、王宮に常駐する薬師の尽力あってのことだった。
王宮薬師ドリスマン。
寡黙で偏屈、だが腕は確か。彼が調合した軟膏は、常人ならば腕を失っていてもおかしくない傷を、ここまで癒やしてくれた。
「動かしてみても……本当に、痛みはございませんか?」
侍女のアールが、包帯越しにそっと視線を落とす。
この数日、彼女はほとんど私の傍を離れなかった。食事も、着替えも、筆を執るときさえ、必ず手を貸してくれる。
「ええ。少し熱を持つけれど、耐えられないほどではありませんわ」
そう微笑んでみせると、アールはわずかに安堵の息を吐いた。
けれど、本当の痛みは――別のところにあった。
指輪に秘められた聖女の力。
それは他者を癒やすことはできても、自分自身を癒やすことはできない。
なんと皮肉な力だろう。
人を救うための光は、己には向けられない。
歴代の聖女たちは、どうやって自らの傷を癒やしてきたのだろう。祈りか、薬か、それとも――誰かに支えられて、か。
私は聖女を名乗った。
だが、聖女について知らぬことばかりだ。
「そろそろ、参りましょうか?」
アールの声に、思考を断ち切られる。
「そうですわね」
屋敷を出ると、初夏の風が頬を撫でた。
門前には馬車が待っている。御者台には、無口なホリバンの姿。彼は一礼し、私たちを車内へと導いた。
行き先は――レガリアント邸。
私は、これからライリーに会いに行く。
きっと、これが最後だ。
あの日、聖女を偽ったライリー=レガリアントには、本来ならば重い刑が下されるはずだった。
聖女の偽装は国家と教会を欺く大罪。
死罪すら、あり得ぬ話ではない。
けれど、そうはならなかった。
陛下は寛大だった。
あの一件に箝口令を敷き、事件そのものを内々に処理した。表向きには、何も起こらなかったことになっている。
その裏で、ルーク殿下が動いたと聞く。
詳しいことは、私には知らされていない。
ただ、王家の恩情により、ライリーによる聖女偽装問題は「最初から存在しなかった」ことにされたのだ。
だが、それではレガリアント家の体面が保てない。
父であるデイビッド=レガリアント公は、娘に罰を与える道を選んだ。
王立ヒステリック学園の退学。
そして、修道院への入所。
成人する十八歳までの十年間以上を、祈りと労働の中で過ごす。
死罪や国外追放に比べれば、遥かに軽い。
だが、公爵令嬢として何不自由なく育てられてきた彼女にとって、それは――
自由を奪われるに等しい。
豪奢なドレスも、華やかな舞踏会も、称賛の視線もない。
石壁に囲まれた修道院で、名もなき一人の修道女として生きる。
それは、彼女にとって監獄と変わらぬのではないだろうか。
馬車が石畳を進む。
車輪の規則正しい音が、やけに大きく耳に響く。
ライリーは明日、王都を発つ。
その前に、最後に話をすることになった。
彼女の希望か、レガリアント公の配慮か、それとも――私のためか。
わからない。
ただ、私は行かなければならないと思った。
あの石をどこで入手したのか。
なぜ、聖女を名乗ったのか。
あの時、彼女は何を思っていたのか。
聞きたいことが、いくつもある。
馬車はやがて、レガリアント邸の門前で静かに止まった。
深く息を吸う。
包帯に包まれた左手が、わずかに疼いた。
これは罰か。
それとも、代償か。
「参りましょう、アール」
私は静かに言い、扉を開かせた。
これが、最後の対話になる。
◆
侍女に案内されて足を踏み入れたのは、レガリアント邸のサロンだった。
磨き上げられた調度品は柔らかな光を反射し、壁には季節の花が活けられている。淡く立ちのぼる紅茶の香りが、どこか懐かしい記憶を呼び覚ました。
かつて幾度も招かれ、笑い合った場所。
だが今日は空気が違う。
静まり返った室内の中央、二人掛けの丸テーブルの前に、ライリーは座っていた。
背筋を正し、膝の上に手を重ね、まるで裁きを待つように。
私の姿を認めると、ゆっくりと立ち上がる。
「お待ちしておりましたわ」
声は穏やかだった。
そっと手を差し出し、着席を促す。その仕草には、かつての公爵令嬢としての気品が、まだ確かに残っていた。
私は頷き、その手に導かれるまま椅子に腰を下ろす。
向かい合う。
距離は、わずか一卓分。
それなのに、二年という歳月が横たわっている。
侍女が無言でティーポットを傾ける。澄んだ音を立てて、琥珀色の液体がカップへと満ちていく。
その光景を、私もライリーも、ただ黙って見つめていた。
沈黙が重い。
紅茶の香りだけが、ゆらりと揺れる。
「二年ぶりですわね」
先に口を開いたのは、ライリーだった。
その声はわずかに震えている。
「ええ……」
私はカップを手に取りながら答える。
「また、あなたとこうして一緒にお茶を飲む日が来るなんて、思いもしませんでしたわ」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
あの頃は疑うこともなく、共に笑い合っていたのに。
「私も……」
ライリーは小さく微笑んだ。
少し恥ずかしそうで、内気で。
初めて出会った日の、あの笑顔と同じだった。
あの頃の私たちは、ただの少女だった。
家名も、立場も、競争も知らず。
「……イデア」
不意に名を呼ばれる。
私はカップを置き、顔を上げた。
そこには真剣な眼差しがあった。
揺れない瞳。
逃げない視線。
数瞬、互いに言葉を探す沈黙が流れる。
「……助けてくれて、ありがとう」
たった一言。
だが、その一言には、恐怖も、後悔も、感謝も、すべてが込められていた。
私は息を呑む。
あの時、彼女の胸に埋め込まれた石に触れた瞬間。
禍々しい光の奥で、確かに感じた微かな悲鳴。
あれは――彼女の心だったのだろうか。
「友達ですもの。……当然ですわ」
驚くほど、素直な言葉が口をついて出た。
いつもなら、どこか棘を含ませてしまうのに。
ライリーの瞳に薄く涙が滲む。
私もつられて笑ってしまう。
泣きそうな顔で、笑う。
なんて可笑しいのだろう。
それから私たちは、堰を切ったように話し始めた。
なぜ距離ができたのか。
なぜ疑い合うようになったのか。
誰が何を囁き、どんな言葉が胸に刺さったのか。
互いに思っていたことを曝け出し、ぶつけ合い、そしてまた笑った。
いがみ合っていた二年間が、音もなくほどけていく。
まるで長い悪夢から覚めたかのように。
紅茶はすっかり冷めていた。
けれど、気にする者はいなかった。
窓の外で陽が傾きはじめる。
オレンジ色の光がサロンに射し込み、私たちの影を長く伸ばす。
やがてライリーは、扉の前に控えていた侍女を呼び寄せた。
侍女は二通の封書を差し出す。
それを受け取ったライリーは、しばし見つめたのち、私へと差し出した。
「これは?」
私は包帯の巻かれた左手を庇いながら、右手でそれを受け取る。
「あの石は、その手紙と一緒に、枕元に置かれていましたの」
静かな声だった。
けれど、その奥にはまだ消えぬ恐怖が滲んでいる。
「あの石を、誰が?」
「わかりませんわ。気がついた時には、もう……」
ライリーは目を伏せる。
私はすぐに中を確認することはせず、しばらくその重みを感じていた。
「見させてもらいますわ」
ゆっくりと手紙に視線を落とす。
一通目を読み終えた頃、私の指先はわずかに震えた。包帯の下で、焼け爛れた左手がずきりと疼く。
――イデア=シュベルッツベルグを困らせる方法。
そう明記されていたのだ。
ミソエル地方で食糧難にあえぐ地の民へ、特定の茸を与え、その自生地を教えよ。
そうすれば、私が必ず困り果てる、と。
なんと卑劣で、なんと回りくどい悪意だろう。
飢えた民を道具にするとは――。
「……あまりに、愚劣ですわ」
低く漏れた声は、自分でも驚くほど冷えていた。
この手紙によって、ミソエル地方で先回りしていた“X”の正体が、ライリーであったことは明らかになった。
だが、真の“X”は別にいる。
――この指示を書いた者。
ライリーは震える声で言った。
「わたくしは、ただ……書かれている通りにすれば、イデアが困ると……ごめんなさい」
愚かで、浅はか。
けれど、彼女をそのように変えてしまった責任の一端は私にもある。
何より、運命の強制力が彼女を導いたのだ。
すべては、悪役令嬢イデア=シュベルッツベルグを作り上げるために。
「手紙の人物については、本当に何も知らないのですの?」
「ええ……。筆跡も見覚えがありません。差出人の名もなくて……」
彼女の視線は床へ落ちた。
嘘を吐いている様子はない。むしろ、操り人形であった己を思い知らされ、傷ついている顔だった。
封書に同封されていたという指輪も、私は受け取った。
銀色の台座に、曇った水晶のような石。
指にはめると、ひやりと冷たい。
「認識阻害の指輪……」
私が呟くと、ライリーは小さく頷いた。
「それをはめていると、地の民たちは、わたくしを正確に認識できませんでした。髪の色も、顔立ちも……曖昧になるのです」
なるほど、と私は思う。
証言がちぐはぐだった理由が、ようやく腑に落ちた。
だが、問題はもう一通の方だ。
私は二通目を開いた。
そこには、より直接的な悪意が記されていた。
――イデア=シュベルッツベルグは偽聖女である。
――真に選ばれし聖女は、ライリー=レガリアントである。
そして、聖女となるためには、宝石を胸に埋め込む必要がある、と。
私は思わず、乾いた笑みを浮かべた。
「随分と都合のよい“神託”ですこと」
聖女の選定に石を埋め込む儀式が必要だなど、聞いたこともない。
いや、聞いたことがないどころか――そんなものは、聖女の在り方を根底から冒涜している。
「……信じてしまったのです」
ライリーの声はか細い。
「あなたが聖女に選ばれたと聞き、アレン殿下と婚約したと聞かされ、私はまた……自分が役立たずだと思ってしまった。そんなとき、この手紙が届いたのです。“あなたこそが本物だ”と」
私は黙って彼女を見つめた。
羨望。嫉妬。劣等感。
それらは貴族令嬢であろうと聖女であろうと、等しく胸に巣食う。
レガリアント家の三女として生まれたライリーは、常に優秀な姉たちと比べられ続けてきた。そこに追い打ちをかけるように、同年代の私という存在が、さらに彼女に追い打ちをかけてしまった。
逆の立場だったなら、やはり私も彼女と同じようにしただろう。
彼女を責めることは、私にはできない。
「手紙を書いた相手に、心当たりはありませんの?」
改めて問うと、彼女は力なく首を振った。
「一通目は、放課後の教室に置かれていましたわ。二通目は、わたくしの寝室に……鍵はかかっていたはずなのに」
「レガリアント家の中に、関係者がいる可能性は?」
「いいえ。父が徹底的に調べました。使用人も、出入り業者も。怪しい者は一人も」
レガリアント公の性格を思えば、それは事実だろう。
娘を修道院に送ると決断した男だ。情に流されるとは思えない。
だが、それならば。
ヒステリック学園の校内に、生徒以外が侵入することは不可能だ。
従者でさえ敷地内まで。王族であっても、規則を破ることはできない。
つまり、手紙を書いた者は――
学園の内部にいる可能性が高い。
その事実が背筋を冷やした。
けれど、私の胸を最も強く打ったのは、別の一文だった。
――イデアは偽聖女である。
断定。
迷いも推測もない、確信に満ちた筆致。
なぜ……そこまで言い切れるの。
私の喉がひくりと鳴る。
幸い、今回の一件で、ライリーもレガリアント公も、私を“本物の聖女”と思い込んでいる。
だがそれは、紙一重の奇跡に過ぎない。
一歩間違えれば。
ほんの少し、歯車が狂っていれば。
私の正体は露見していた。
焼け爛れた左手が脈打つ。
サロンの窓から差し込む夕陽が、机上の手紙を赤く染める。
まるで血に濡れているかのように。
「……必ず、見つけ出しますわ」
私は静かに言った。
「あなたを操り、地の民を利用し、そして――私を“偽”と断じた者を」
それは誓いであり、宣戦布告でもあった。
紅茶はとうに冷めていた。
だが、私の胸の内では、ようやく何かが熱を帯びはじめていた。
◆
「……イデア。わたくしたちはまた、友達になれますでしょうか?」
別れの刻限が迫る廊下で、ライリーは不意に足を止め、振り返った。
窓から差し込む夕暮れの光が、彼女の睫毛を淡く縁取っている。その影がわずかに震えていた。
出会ったばかりの頃の――まだ自分の価値を測りかねていた、あの頼りない少女の面影が、そこにあった。
「バカなことをおっしゃい」
私は即座に言った。
すると彼女は、はっと息を呑み、俯く。
「……そう、ですわよね。わたくし、都合が良すぎま――」
その先を、私は言わせなかった。
一歩踏み出す。
包帯に巻かれた左手が痛むのも構わず、私は両腕を伸ばし、思いきり彼女を抱きしめた。
華奢な肩が、びくりと震える。
「ずっと友達ですわ」
耳元で、はっきりと告げる。
「……ずっと?」
信じきれぬ、といった声。
「ええ、ずっとですわ。たとえ遠く離れていたとしても、あなたが修道院に入っても、私が王都に残っても――私たちは友達ですわ」
「いっぱい……酷いこと、言いましたのに?」
胸元に顔を埋めたまま、彼女は嗚咽混じりに問う。
「私も、あなたにたくさん酷いことを言いましたわ」
思い出せば、棘のある言葉ばかりだ。
意地を張り、優位に立とうとし、心にもない皮肉を重ねた。
あれはきっと、互いに弱さを見せる勇気がなかっただけなのだ。
「喧嘩をしても、何度だって仲直りすればよろしいだけではありませんか」
私は少しだけ身体を離し、彼女の顔を覗き込んだ。
「……イデア」
大粒の涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。
その涙を、私は指先でそっと拭った。包帯越しの感触が、かえって切なかった。
「あなたは、私のはじめての友達ですもの」
その言葉を口にした瞬間、自分の胸の奥が熱くなるのを感じた。
聖女だの、家名だの、責務だの。
そんなものを抜きにして、ただ“イデア”として隣に立てた存在は、彼女が最初だった。
「……ゔん」
声にならぬ返事。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも必死に頷く。
「待っていますわ。もう一度、あなたとお茶を飲める日を……いつまでも」
それは約束というより、祈りに近かった。
修道院の静かな回廊で、彼女がこの日を思い出すことがあるだろうか。
王都の喧騒の中で、私が彼女の名を口にすることがあるだろうか。
それでも、友情とは――
会えぬ時間に耐える強さを含めて、そう呼ぶのだと、私は信じたかった。
「……ありがどゔ、イデア」
涙声のまま、彼女は笑った。
その笑顔は、まるでアルストロメリアの花のようだった。
繊細で、しかし折れぬ強さを秘めた花。
その花言葉は、“持続”――そして“幸福な日々”。
どうか、あなたに幸福が訪れますように。
心の内で、そっと祈る。
夕陽はすでに沈みかけていた。
けれど、別れは終わりではない。
私たちの友情が、幾度の夜を越えてもなお、静かに咲き続けますように。
その願いを胸に、私は彼女に大きく手を振った。
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