第56話 偽物であろうと
「そこを退いてくださいまし!」
思わず、声が鋭くなる。
視界の端で兵たちが戸惑いの色を浮かべた。
だが構わない。
ここで私が何もしなければ――
きっと誰かが書いた運命の通りに事は進む。
七色の光はやがて静まり、ライリーは静かに息を止め、命の炎は燃え尽きてしまう。
そして。
偽聖女という私への疑いも、霧が晴れるように消えるだろう。
めでたし、めでたし。
――その代償が、彼女の命であることを除けば。
胸の奥がひりつく。
『人は、何かの犠牲なしに大地に立つことなど、決してありえん』
かつて父が語った言葉が、耳の奥で蘇る。
冷厳で、揺るぎない真理のように。
確かにそうなのかもしれない。
国は兵を犠牲にして守られ、
家は誰かの忍耐によって保たれ、
物語は誰かの涙の上に成り立つ。
それが世の理だと、私は教えられてきた。
けれど。
それでも。
一度くらいは――
何も犠牲にせずに、大地に立ってみたいと思ってしまう。
そんな願いは幼稚だろうか。
愚かだろうか。
茨の道だと分かっている。
血を流すかもしれない。
笑われるかもしれない。
それでも。
最初から「誰かを差し出すこと」を前提にした生き方よりも――
みっともなく、
無様に、
時に地面を這いつくばってでも、
自分の足で立とうともがく方が――
よほどエレガントだ。
そう、私は思う。
それが私だ。
誰かの掌の上で、あらかじめ決められた通りに踊る人形。
都合よく光を浴び、都合よく疑いが晴れ、都合よく生き残る。
そんなものは偽物の私だ。
私はそんな私を選ばない。
七色の光が脈打つ。
床に伏すライリーの小さな体がかすかに震えた。
――まだ、終わっていない。
ならば。
「退いてくださいまし!」
今度は、微塵の揺らぎもなく言い切った。
胸の奥がひりつく。
これが自分の首を絞める行為だと、分かっている。
それでも――。
私は、自分の心にだけは嘘をつきたくない。
私はイデア=シュベルッツベルグ。
誇り高き公爵令嬢。
家名に泥を塗ることはあっても、己の矜持に泥を塗ることだけは決してしない。
私の人生に、妥協の二文字は必要ない。
「おい、待て!」
室内へ踏み出そうとした瞬間、腕を強く掴まれた。
振り返ると、ルーク殿下が立っている。
紅玉のような赤い瞳が、まっすぐに私を射抜いていた。
「何をする気だ」
低く抑えた声。
「彼女を助けます」
即答だった。
「……助ける? あれは、あのようなモノを体に埋め込んでまで、お前を陥れようとした女だぞ」
責める口調ではない。
むしろ、理解できぬという戸惑い。
私を止めたいというより、確かめているのだ。
本気なのか、と。
「あれは聖女を偽った重罪人だ。仮にお前の力で救えたとしても、その先に待っているのは死罪。よくて国外追放だ」
冷徹な現実。
王族としての視点。
正しい。あまりに正しい。
「聖女を偽ることは、確かに重罪ですわ」
私は静かに言う。
「しかし――聖女でありたいと願うことも、重罪なのでしょうか?」
「……それは」
「彼女は怪我をしていた侍女を癒そうとした。そうですわよね?」
視線を向けると、アレン殿下が神妙に頷いた。
「うん。そう聞いているよ」
私は息を整え、再びルーク殿下を見つめる。
「誰かの傷を癒したい。そう願った気持ちまでも嘘だったと、殿下は仰られますか?」
七色の光が天井を焦がさんばかりに揺らめく。
その光の中で、ルーク殿下は言葉を失った。
開きかけた唇がわずかに震え、閉じられる。
その表情は、先程謁見の間で陛下が見せた迷いと、よく似ていた。
「陛下も、殿下も、誰も見ていない場所で癒しの力を使った彼女の心は――少なくとも、その瞬間だけは、本物の聖女だったのだと、私は思いますわ」
「気持ちだけでは聖女は務まらん。世界に混乱を招くだけだ」
正論だ。
私も理ではそう思う。
だが。
「世界を平和にしたい――誰もが安全に暮らせる世を築きたい――そう願った者がいたとして」
私は一歩、彼に近づいた。
「その者が魔王に立ち向かうことは罪なのでしょうか? 勇者でもない者が、世界を救おうとすることは罪なのでしょうか?」
「罪ではない。だが、力なければ魔王は倒せん」
「では――力さえあれば、勇者になれると? 聖女にもなれると?」
問いは静かに放ったはずだった。
けれど、廊下に落ちた瞬間、それは思いのほか鋭く響いた。
ルーク殿下の顎がわずかに強張る。
噛みしめた歯の奥で、何かが軋んだ音がした気がした。
「……少なくとも、力無き者よりはなれるだろう」
低く、押し殺した声。
その言葉が落ちると同時に、殿下の視線が一瞬だけ逸れる。
向けられた先には――アレン殿下。
かつて勇者の資質を期待されながら、選ばれなかった者。
王太子の座を継ぐはずだった未来を、腹違いの弟に奪われた者。
ルーク殿下の横顔には、消えぬ傷の影が差していた。
――似ている。
私は、そう思ってしまった。
選ばれなかった者の眼。
届かなかった未来に、未だ指を伸ばしている人の眼。
それはライリーにも似ていた。
そして――マヤから聞かされた、未来の“私”にも。
胸の奥にじわりと熱が灯る。
怒りか、悔しさか、それとも――否定したい何かか。
私は一歩、踏み出した。
「……私は」
声が震えぬよう、喉を締める。
この言葉は、殿下を糾弾するためではない。
もしかすると私は、ルーク殿下に伝えたかったのかもしれない。
選ばれなかったからといって、価値が消えるわけではないと。
力だけが、勇者や聖女を定めるわけではないと。
それはきっと、
未来の自分へ向けた言葉でもある。
胸の奥の熱を逃がさぬように。
私は、言葉にする。
「力があることと、選ばれることは、同じではございません」
広間の空気が、わずかに揺れた。
「勇者とは、力を持つ者の名ではない。
聖女とは、癒せる者の称号ではない」
視線を、まっすぐにルーク殿下へ向ける。
「それでも誰かのために立つと決めた者を、そう呼ぶのではありませんか」
静寂が落ちる。
誰もが、息を呑んでいた。
……これが正しいかどうかは、分からない。
だが、少なくとも私は、
“力がないから選ばれない”未来を、受け入れるつもりはない。
「遠く離れた場所で魔王を倒す勇者よりも、すぐそばで手を差し伸べてくれた人を、勇者と呼びたい」
光がまた弾ける。
「偉大な賢者の傷を癒やした聖女よりも、目の前で大切な人の傷を癒やしてくれた人を、人は聖女と呼ぶのだと思います」
私は視線を、床に伏すライリーへ落とす。
苦悶に歪んだ顔。
胸の奥ではいまも光を放ち続けている。
「彼女が傷を癒そうとした侍女にとっては――」
一拍、置く。
「ライリー=レガリアントこそが、本物の聖女に見えたことでしょう」
静寂が落ちた。
光の明滅だけが場を支配する。
私は、ルーク殿下の手をそっと外した。
「殿下。私は、自分の目で見たものを信じますわ」
例えその結果、私が再び疑われることになろうとも。
誰かの命を犠牲にしてまで――
私は生きたいとは思わない。
――バッドエンド、上等ですわ!
「イデア=シュベルッツベルグ!」
背後から、鋭く名を呼ばれる。
ルーク殿下の声だ。
しかし、私は振り返らない。
「お前に、ライリー=レガリアントが救えるのか?」
低く、押し殺した問い。
その奥にある本音が痛いほど伝わる。
――偽物のお前が、本当に救えるのか。
彼の視線は、先程からずっと私の左手に注がれている。
聖女の指輪。
初代聖女が生前身に付けていたとされる聖具。
振り返らずとも分かる。
疑念と、期待と、そして恐れ。
すべてがあの赤い瞳に宿っている。
七色の光が室内を灼く。
床に伏すライリーの呼吸はもう浅い。
時間はない。
私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「私は聖女――イデア=シュベルッツベルグ!」
声が、思いのほか高らかに響く。
「私に癒せぬものなど、ありませんわ!」
それは宣言だった。
虚勢かもしれない。
思い上がりかもしれない。
それでも。
私は、聖女を演じる。
父に言われたからではない。
家のためでもない。
ましてや、物語の筋書きのためでもない。
いまこの瞬間――
私は、本心から聖女でありたいと願っている。
偽物でもいい。
仮初めでもいい。
女神が決めた器でなくともいい。
ただ。
彼女を救いたい。
ライリー=レガリアント。
かつて私を友と呼んでくれた少女。
大嫌いなはずの少女。
それでも、胸に芽生えたこの感情だけは、偽物ではない。
「……殿下」
私は、前を向いたまま告げる。
「私にとって本物か偽物かは、それほど重要ではありませんわ」
光が、強く脈打つ。
「誰かを救いたいと願った瞬間――その人はもう、聖女なのです」
足を踏み出す。
熱が肌を刺す。
それでも止まらない。
彼女を救いたい。
その気持ちに偽りはない。
たとえ私が偽物であろうと。
この願いだけは、本物だ。




