第52話 疑惑の眼差し
「イデア=シュベルッツベルグ。そなたは何者だ」
陛下の声は低く、澄んでいた。
断罪の響きはない。疑いも感じられない。
ただ、真実を量る者の問い。
それが、かえって重い。
謁見の間の空気が、わずかに張りつめる。
「私は聖女。この世界の闇を祓うべく、女神テイアより使命を授かり、光の加護を受けし者にございます」
言い切った。
逃げ場のない、大嘘を。
陛下の双眸が、静かに私を射抜く。
逸らしてはならない。
ここで目を伏せれば、それだけで終わる。
胸の奥に、鈍い痛みが広がる。罪悪感か、恐怖か、それとも覚悟の重さか。
――どうか。
私は視線を保ったまま、心の内で祈る。
信じてくださいませ。
沈黙が落ちる。
やがて陛下は、ゆるやかに視線を横へ移した。
「ライリー=レガリアント。そなたは何者だ」
同じ問い。
同じ声音。
だが、場の温度がわずかに変わる。
「私こそが真の聖女。――この力をご覧くださいませ!」
迷いのない声だった。
ライリーが両手を高く掲げる。
次の瞬間、掌から光が溢れ出した。
七色の輝きが、波紋のように広がる。やがてそれは彼女を中心に半球を描き、謁見の間をやわらかく包み込んだ。
暖かい。
それでいて、侵しがたい清浄さがある。
だが、それは私にとっては毒となる。
私は思わず息を詰め、半歩横にずれた。
陛下の目が、わずかに見開かれる。
アレン殿下も、バデラッドも、明らかに動揺している。
赤髪の少年だけが、面白い玩具を見つけたように口端を上げていた。
光は静かに消えていく。
余韻だけが、場に残る。
この力。
偽りではない、と誰もが思うだろう。
だが。
その中で、眉ひとつ動かさなかった者がいる。
デイビッド=レガリアント公。
そして――お父様。
二人は、微動だにしない。
感嘆も、驚きも、焦りも見せない。
まるで、この展開を織り込み済みであるかのように。
私は焦燥を押し殺し、横目でライリーを窺った。
光は消えた。だが、余韻は残っている。
彼女の手元、首元、腰元――視線を静かに走らせる。指輪、腕輪、首飾り。どこかに聖具らしきものがあるはずだ。
しかし、やはり見当たらない。
露骨な装身具はない。隠しているのか。
それとも――。
――このままではまずい。
その時だった。
「(いまよりも左目に意識を集中してみな)」
嗄れた声が、頭蓋の奥に直接響いた。
「!」
心臓が跳ね上がる。
反射的に体が強張るが、寸前で抑え込む。ここで動揺を見せるわけにはいかない。
「(……だ、誰ですの!?)」
「(鈍い子だね。威張ることしか脳がない人間らしいと言えば、らしいがね)」
この声音。
ざらついた嘲り。
忘れるはずがない。
スラムの道具屋で、老婆に化けていた悪魔。
「(どうやって話しかけていますの!)」
脳内に直接響く声。
マヤの“疎通の腕輪”なら可能だ。だが、あれには距離の制限がある。十五メートル以上は届かない。
しかもこの悪魔は、地下スラムから出られぬはず。
「(もう忘れたのかい? あたしゃとあんたの左目が繋がってるってことを)」
「(……!)」
咄嗟に左目へ手が伸びかける。
「……?」
アレン殿下がわずかに首を傾げた。
私はまつ毛を指先で払い、何事もない顔を作る。
「(左目を介せば、話しかけるくらい造作もないさ)」
「(だからって、いきなりはやめてくださいませ! 心臓が止まりかけましたわ!)」
ほんの一瞬、視界が歪む。
左目が“あの目”に戻りかけた感覚。
ここで露見すればすべて終わる。
偽聖女どころの話ではない。
悪魔憑き。
即、断罪だ。
この悪魔は、その危険を理解しているのだろうか。
「(……ルール? あたしゃそんな契約を交わした覚えはないね。それに好き好んでお前なんぞに話しかける趣味もないさ)」
棘のある言い方。
心底めんどうくさいといったもの言いだ。
――どういうことですの。
その時。
「(イデア、聞こえる?)」
別の声が割り込んだ。
「(マヤ!?)」
頭の中に、二つの声。
混線する感覚に、思わず呼吸が浅くなる。
「(お婆さんを通して、イデアの頭の中に話しかけてるんだ)」
マヤの声は落ち着いている。
「(この悪魔の“目”は、イデアと繋がってるでしょ? そこを中継点にしてるんだよ)」
中継。
つまり。
悪魔と、私と、マヤ。
三者が、今この瞬間、一本の線で結ばれている。
王城の謁見の間で。
国王の御前で。
私は表情を崩さぬまま、静かに息を整える。
外から見れば、ただ沈黙している令嬢。
だがその内側では、悪魔と友人の声が交錯している。
――なんという状況。
けれど。
利用できるものは、利用するしかない。
私は視線を動かさぬまま、心の中で問いかけた。
「(それで? 左目に意識を集中しろとは、どういう意味ですの)」
謁見の間の空気は、依然として異様な静けさに包まれていた。
重たい沈黙が天井の高みにまで張り付き、息をするのさえ躊躇われる。
玉座の陛下は、困惑を隠しきれぬ様子で眉根を寄せ、大臣の耳打ちに耳を傾けていた。
何が告げられているのかは聞こえない。
だが、その短い囁きのたびに、陛下の指先が肘掛けを強く叩くのが見える。
――嫌な予感が、背筋をなぞった。
王の決断ひとつで、私とライリーの運命が変わる。
その事実が場を満たしている。
「(説明するのが面倒だ。黙って左目に意識を集中しな)」
悪魔の声が淡々と告げる。
私はわずかに視線を細め、左目へ意識を沈めた。
奥へ。
さらに奥へ。
「(そのまま、そこの偉そうな小娘をよく見てみな)」
――瞬間。
世界の輪郭が、わずかに変わった。
ライリーの立つ場所だけ、空気が歪んでいる。
否。
歪んでいるのは、彼女自身。
体内から、凄まじい光が噴き上がっていた。
先ほど見せた七色の輝きとは違う。
もっと濃い。
もっと生々しい。
まるで器の内側に収まりきらぬ光が、無理やり押し込められているかのように。
――なんですの、これは。
「(その小娘はね、聖女の力を直接体内に取り込んでいるのさ。……本当に馬鹿な人間だよ)」
直接、取り込む?
聖具を介さずに?
「(つまり……ライリーの力は、私の指輪のような聖具によるものではない、ということですの?)」
「(そういうこと)」
マヤの声が、はっきりと肯定する。
「(聖具を装備したところで、体内から聖属性の光が溢れ出すことはないよ。あくまで聖具に宿った力を外に解放しているだけだからね。もし自然にああなるなら、それは本物の聖女だけだよ)」
本物。
その言葉が、胸に刺さる。
「(この娘の言う通りさね)」
悪魔が鼻で笑う。
「(そこの愚かな娘は、聖女の力を内側から取り込み、無理やり自分のものにしているのさ。人工的に聖女になろうとでもしているんだろうね)」
人工的に。
聖女に。
――そんなことが。
「(可能なんですの?)」
「(不可能だよ)」
マヤは即答した。
迷いがない。
「(普通の人間の器で、あんな量の聖属性を恒常的に保持できるはずがない。均衡が崩れれば、いずれ内側から壊れるよ)」
内側から。
壊れる。
私は改めて左目でライリーを視る。
光は、確かに美しい。
だが同時に、不安定だ。
揺れている。
脈打つように、膨張と収縮を繰り返している。
まるで、爆ぜる寸前の灯火。
「(……長くはもたないさね)」
悪魔の声が、冷ややかに続く。
「(このまま力を使えば、身体が先に悲鳴を上げるだろうね)」
悪魔の声は淡々としていた。
胸が、ひどくざわつく。
勝機がある――そう思ったからではない。
もっと鈍く重い感情。
もしそれが真実なら。
ライリーは自らの命を削っていることになる。
ほんの一時、聖女の名を得るためだけに。
彼女は、そのことを理解しているのだろうか。
私はそっと視線を正面へ戻した。
「――陛下!」
澄んだ声が、沈黙を裂く。
自信に満ちた響き。
ライリーだ。
「私こそが、真の聖女にございます。イデアは――彼女は聖女を偽っております!」
鋭く伸びた指先が、私を指し示す。
その唇は勝利を確信した者の形に歪み、瞳は燦然と輝いている。
あれは勝利を疑わぬ者の光。欲望の光だ。
玉座の上の陛下は、ゆっくりと彼女を見つめ、やがて視線を私と父へ移した。
「シュベルッツベルグ公、何か言うことはあるか?」
静かな問い。
だが、その一言にこの国の重みが宿っている。
父は一歩も動かぬ。
氷像のような無表情のまま、淡々と応じた。
「……以前お伝えした通り。それ以上、申すことはございません」
「……そうか」
陛下は小さく頷く。
そこに疑念は見えない。父を信じている者の目だ。
――父と陛下。
この二人のあいだに流れるものは、忠誠か、盟約か。
あるいはもっと古い、血よりも濃い絆か。
「イデアよ。そなたからは何か申すことはあるか?」
「特にございませんわ」
迷いなく言い切る。
逡巡は罪。
揺らぎは疑念を呼ぶ。
私は背筋を伸ばし、胸を張る。
自信は演じるものではない。示すものだ。
「私の聖女の力につきましては、以前我が家にお越しになった際、アレン王太子殿下自らがお確かめになっております」
視線を向ける。
アレン殿下は静かに頷き、陛下へと向き直った。その所作には迷いがない。
勇者の名に相応しい、澄んだ気配。
「彼女の力は本物でした。バデラッドも確認しております」
名を呼ばれたバデラッドも、落ち着いた動作で頭を下げる。
「殿下のお言葉の通りです。イデア嬢は確かに聖女の力を行使されました」
その瞬間、隣の空気がひり、と震えた。
ライリーだ。
彼女はバデラッドを睨みつけ、私にしか聞こえぬほど小さく舌打ちを鳴らす。
焦り。
苛立ち。
そして――追い詰められた者の、獣じみた影。
「聖女が二人、誕生した――そのようなことが過去にあったのか?」
気怠げな声が割り込む。
今の今まで壁にもたれ、退屈そうに事の成り行きを眺めていた赤髪の少年。
王妃と同じ燃えるような髪。尊大な態度。
――元王太子。
その名を出さずとも、そう推測するのは難しくない。
「どうなのだ?」
陛下が大臣へ視線を送る。
大臣は慌てて分厚い書物を繰り、紙の擦れる音が妙に大きく響いた。
それはアストラル王国における歴代勇者・聖女の記録。
「は、はっ。いつの時代も、聖女はお一人のみと記録されております。……二人同時に存在したという例は、確認できません」
「では――偽物が現れた例は?」
少年は口角を吊り上げる。
「聖女でなくともよい。勇者でもよい。……名乗った者は、いなかったのか?」
その視線は、まっすぐにアレン殿下へ向いている。
挑発。
だが殿下は動じない。
微笑すら崩さぬ。
偽物は証明を恐れるが、本物は証明を恐れない。
正真正銘の勇者である者に、揺らぎはない。
「どうなのだ?」
重ねて問われ、大臣は額に汗を滲ませながら分厚い書物を繰る。
重みのある頁が、ぱらぱらと音を立てる。
「……仮に、そのような事例があったとしても……記録に残すことは……その……」
歯切れが悪い。
「つまり」
少年は楽しげに言葉を継ぐ。
「過去にも偽聖女、あるいは偽勇者を名乗る者が現れた可能性はある、ということだな」
「……いかにも」
大臣は汗を拭いながら、観念したようにうなだれる。
その返答に、少年は満足げに笑う。
愉快そうに。
まるで、この混乱そのものを楽しんでいるかのように。
場の均衡がわずかに揺らぐ。
聖女は一人。
だが、偽物が現れぬとは限らない。
その前提が、今この場に置かれた。
「案外――二人とも偽物だったりしてな」
軽く放たれたはずのその一言は、刃のように鋭かった。




