第51話 謁見の間
「イデアお嬢様、旦那様がお呼びです」
静かに告げる執事長の声は、いつもと寸分違わぬ穏やかさを保っている。けれど、その奥に含まれた緊張の糸を、私は聞き逃さなかった。
「……すぐに参りますわ」
自分でも驚くほど、声は平静だった。だが、胸の奥では小さな鼓動が早鐘のように鳴っている。
屋敷へ戻れば、父に呼び出されるだろうことは予想していた。むしろ、呼ばれない方が不自然だ。
ライリー=レガリアントが聖女の力を行使した――その事実は、私とシュベルッツベルグ家にとって、看過できぬ出来事なのだから。
書斎の前に立つと、重厚な扉がひどく巨大に見えた。
――入らなければ。
軽く息を整え、ノックをする。
「入りなさい」
低く、短い声。
中へ足を踏み入れた瞬間、焚きしめられた香木の匂いが鼻をくすぐった。壁一面の書架、分厚い絨毯、窓辺に落ちる夕暮れの光。その中心に、父は座している。
「座れ」
言われるまま、私は対面の椅子に腰を下ろした。
父の要件は明白だった。
――ライリー=レガリアントが聖女の力を使った件について。
――私の見立てでは、彼女が“真の聖女”である可能性はどの程度か。
淡々とした問いかけ。
しかしその一つ一つが、刃物のように鋭い。
「……本日、彼女が力を行使したのは事実ですわ」
喉の奥が乾く。だが、視線は逸らさない。
「そして……わたくしと同じく、聖具を所持している可能性がございます」
父の指が、机を一度だけ、軽く叩いた。
表情は読めない。怒りも、焦りも、何も見せない。
「そうか」
たった、それだけ。
短い一言が、部屋の空気を重く沈めた。
「下がれ」
命じられ、私は椅子を引く。脚が絨毯を擦る音が、妙に大きく響いた。
扉に手をかけた、そのとき。
「明日、王城へ赴く」
背後から、低く告げられる。
心臓が、ひときわ強く打った。
「……かしこまりましたわ」
振り返らずに答える。振り返れば、何かが顔に出てしまいそうだった。
王城。
それはすなわち、審判の場。
覚悟していた。遅かれ早かれ呼ばれると分かっていた。それでも、実際に告げられると、全身が鉛に変わったかのように重くなる。
まるで、胃の奥に冷たい石を詰め込まれたようだった。息を吸っても、胸の奥まで届かない。
廊下へ出ると、窓から差し込む夕陽が長い影を落としている。赤く染まる光が、どこか血の色に似て見えた。
――逃げ場はない。
王城で何が待ち受けているのか。問い詰めか、試練か、それとも……。
私はゆっくりと歩き出す。
シュベルッツベルグ家の名を背負う者として。
そして――偽りの聖女として。
明日、運命が動く。
その足音が、もうすぐそこまで迫っている気がした。
翌朝――。
シュベルッツベルグ家の屋敷は、いつになく張りつめた空気に包まれていた。
廊下を行き交う使用人たちは、足音を立てぬよう慎重に歩き、囁き声ひとつ漏らさない。誰もが平静を装ってはいるが、その顔色は冴えず、どこか蒼白だ。
父の機嫌が悪いのではない。
それ以上の何かを、彼らは察しているのだ。
まるで、これから死刑台へ向かう罪人を送り出すかのような、重く沈んだ朝だった。
「イデアお嬢様……」
控えめな声に振り向くと、アールが立っている。いつも通り背筋を伸ばしてはいるが、瞳の奥に隠しきれぬ不安が滲んでいた。
「私にできること……何かございませんか?」
その言葉には、従者としての義務だけでなく、私個人を案じる気持ちが込められている。
「ありがとう。……でも、大丈夫ですわ」
私はできるだけ穏やかに微笑んだ。
本当は、大丈夫などではない。
だが、ここで弱さを見せれば、屋敷全体の不安が決定的なものになる。公爵令嬢とは、そういう立場だ。
「留守を、お願いいたしますわ」
「……かしこまりました」
アールは深く一礼する。その姿を胸に刻み、私は踵を返した。
玄関前には、既に父の馬車が待っている。黒塗りの車体が、朝の光を鈍く反射していた。
父は何も言わず、先に乗り込む。
私も続いた。
扉が閉まり、車輪が動き出す。
王城へ向かう道のりは、決して長くはない。だが、その短さがかえって息苦しかった。
車内は沈黙に満ちている。
父は窓の外を見たまま、一言も発しない。横顔は硬く、感情の影すら窺えない。
何を考えているのだろう。
家の存続か。
王家との駆け引きか。
それとも――次なる一手か。
喉の奥がひりつく。
やがて、馬車は王城の正門をくぐった。
重厚な石造りの城壁。高く掲げられた王家の紋章。朝の光を浴びて輝く白亜の塔。
逃れようのない、権威の象徴。
馬車が止まり、御者が扉を開ける。
地面へ足を下ろした瞬間、視界の先に一人の男が立っているのが見えた。
「お待ちしておりました。シュベルッツベルグ公」
低く、よく通る声。
白髪混じりの頭髪に刻まれた深い皺。だが、その身体は老いを感じさせぬほどに鍛え上げられている。衣服越しにも分かる鋼のような体躯。
老騎士――バデラッド=ゴルドン。
「……ゴルドン卿か」
父は一瞥し、わずかに頷くだけだった。
労いも世辞もない。
その素っ気なさに、両者の距離が透けて見える。
父は彼を好いていないのだろう。
私もまた、初対面の折に向けられた、値踏みするような鋭い視線を忘れてはいない。あの時の居心地の悪さが、微かに蘇る。
「イデア様も、よくぞお越しになられましたな」
しかし今の彼は、好々爺といった風情で目を細めている。
「殿下も、イデア様にお会いになるのを心待ちにしておられましたぞ」
一瞬、胸が跳ねた。
「アレン王太子殿下が、私に――?」
思わず声が弾む。
その瞬間。
背後から、鋭い気配が突き刺さった。
父の視線である。
浮かれるな。
ここへ来た理由を、はき違えるな。
言葉にせずとも、その叱責は明確だった。
私ははっとして表情を引き締める。
「恐れ入りますわ。殿下のお心遣い、光栄に存じます」
淑やかに一礼し、公爵令嬢としての仮面を被り直す。
私がここへ来たのは、王太子に会うためではない。
裁かれるためか、試されるためか――いずれにせよ、甘い期待を抱く場ではないのだ。
「こちらへ」
バデラッドは踵を返し、謁見の間へと続く回廊を進む。
高い天井に、赤い絨毯。壁に並ぶ歴代国王の肖像画が、無言のままこちらを見下ろしている。
私は父の半歩後ろを歩く。
適切な距離を保ち、視線は伏せすぎず、上げすぎず。
背筋を伸ばしながらも、胸の内では別の鼓動が鳴っていた。
――いよいよだ。
視界の先に、謁見の間の重厚な扉がそびえていた。濃い飴色の木肌に刻まれた王家の紋章が、静かにこちらを見下ろしている。
父の姿を認めた兵士が、槍を打ち鳴らし、恭しく扉を押し開いた。
軋む音が、やけに大きく響く。
私は父の半歩後ろを保ったまま、敷居をまたいだ。
高い天井。磨き上げられた床。左右に並ぶ柱の間を、淡い光が差し込んでいる。空気はひやりとして、張りつめていた。
その中央に、すでに彼女は立っていた。
ライリー=レガリアント。
いつもよりも背筋を伸ばし、凛と顎を上げている。その瞳には迷いがない。昨日見たときと同じ、確信に満ちた光が宿っていた。
まるで――ここが自分の立つべき場所だと知っているかのように。
その隣には、父君であるデイビッド=レガリアント公。壮年の威厳を纏い、微動だにせず玉座を見据えている。
私と父が入室したことに気づいているはずなのに、彼は一度もこちらを振り返らなかった。
父とデイビッド公の仲は悪くなかったと記憶していたが、今回の件で、父とデイビッド公の仲にも亀裂が生じたのだろう。
それだけ、聖女問題は重大なのだ。
視線を巡らせる。
玉座には国王陛下。金色の髪を戴き、その眼差しは静かでありながら、底知れぬ重みを湛えている。
その一段下に、大臣たち。そして――。
アレン王太子殿下。
端正な顔立ちに、柔らかな微笑を浮かべている。姿勢は正しく、指先まで隙がない。まさしく王族の佇まい。
不意に、彼と目が合った。
一瞬だけ、ほんの僅かに、表情が和らぐ。
胸が小さく跳ねたが、私はすぐに視線を伏せた。今は、それどころではない。
そして、もう一人。
見慣れぬ赤髪の少年が、壁際に寄りかかるように立っている。
歳は私やライリーと同じほどだろう。整った顔立ちをしているが、その態度はいただけない。腕を組み、遠慮もなく欠伸を噛み殺している。
――場違いだ。
そう思った瞬間、彼と目が合った。
退屈そうだった瞳が、ほんの僅かに細められる。値踏みするような、あるいは面白がるような視線。
私は何事もなかったかのように、ゆるやかに目を逸らした。
それにしても。
謁見の間にしては、人数が少ない。
本来ならば、近衛騎士や重臣がずらりと並び、儀礼の形式を整えるはずだ。だが、今日は違う。
最小限。
選び抜かれた者だけが、この場にいる。
――情報漏洩を避けるため、か。
聖女問題が公になれば、国は揺れる。
本物は誰か。
偽物は誰か。
それは信仰と権威、その根幹に関わる。
ゆえに、ここは密室。
静かな裁きの場。
私はゆっくりと息を吸う。
父が一歩進み、深く頭を垂れた。
「シュベルッツベルグ公、並びに息女イデア。御前に参上いたしました」
その声が、広い空間に低く響く。
続いて、私も淑やかに礼をとった。
顔を上げると、真正面にライリーの姿がある。
彼女もまた、こちらを見ていた。
その瞳に宿るのは、嫉妬か。覚悟か。あるいは――純粋な敵意か。
胸の奥で、鼓動がひとつ強く打つ。
逃げ場はない。
ここで偽物だと暴かれるようなことになれば、私も、お父様も――シュベルッツベルグ家は終わる。
一族の存亡が私の双肩にかかっている以上、なんとしても聖女を演じきるしかない。
ぎゅっと指先を握りしめる。爪が掌に食い込む痛みが、かえって私を現実に引き戻した。
――処刑台に送られるわけにはいかない。
「――双方、よく来てくれた」
玉座の上から、国王陛下の声が落ちてくる。
決して大きくはない。だが、不思議と謁見の間の隅々まで行き渡る、重く澄んだ声音。
私はゆっくりと顔を上げた。
陛下の双眸は、老いてなお鋭い。そこには怒りも断罪もなく、ただ冷静な観察者の光が宿っている。
値踏みされている。
私も。
ライリーも。
その瞬間、謁見の間の空気がさらに沈んだ。
誰もが息を潜めている。
大臣たちは微動だにせず、レガリアント公は直立したまま、まるで彫像のようだ。父もまた、石のごとく表情を消している。
ふと、横目に映るライリー。
彼女は怯えていない。
まっすぐに陛下を見据え、その姿は不思議なほど堂々としていた。
――どうして、そんな顔ができますの。
一瞬、胸の奥で黒い感情が揺らぐ。
けれど私は、ゆっくりと呼吸を整えた。
大丈夫。
ここで私が“偽物”だと知られれば、“本編”は始まらない。
私が偽物だと暴かれる可能性は低いはず、そうマヤも言っていた。
いまは彼女の言葉を信じるしかない。
陛下の視線が、静かに私へと移る。
その一瞬が、永遠のように長く感じられた。




