第50話 生きること
「――もう一人の、聖女の末路……」
マヤの言葉を、なぞるように口にした。
喉の奥に、ざらりとした違和感が残る。
決して口にして心地よい響きではない。
けれど――前日譚におけるライリー=レガリアントの未来。
その全貌を、私は確かに知ってしまった。
知ったからこそ、拭えない違和感が胸に沈む。
「今朝のライリーは、“聖女の首飾り”……そのような物は身につけていませんでしたわ」
「……そうだね」
マヤは小さく頷き、視線を伏せる。
「あたしも、あの後でライリーの周辺を探ってみたんだけど……聖女の首飾りらしき物はどこにもなかったよ」
冷たい風が屋上を吹き抜け、制服の裾を揺らした。
私の中で、思考がゆっくりと組み上がっていく。
そもそも――
歴代聖女が身につけていた聖具が盗まれたとなれば、世界が黙っているはずがない。
王都はもちろん、各国を巻き込む大事件となり、連日紙面を賑わせるだろう。
それこそ、この指輪の時のように……。
だが、今朝の朝刊を思い返しても、目に入ったのは【勇者誕生】の記事だけだった。
聖女の首飾りが盗まれた、という報は――どこにもない。
「では……ライリーが見せた、あの力は……?」
自分の声が、ひどく遠く感じられた。
「……うーん」
マヤは腕を組み、眉を寄せる。
「正直、ライリーが使った聖女の力については、あたしにも分からないんだよね。あ、でも――」
「でも……?」
「これって、ミソエル地方の時と同じだと思うんだよね」
胸の奥が、ひやりと冷える。
「……何者かが、運命を先回りしている……そういうことですの?」
「……そうなるね」
短い肯定。
それだけで、十分すぎるほどだった。
だが――ミソエル地方の時と、今回とでは決定的な違いがある。
あの時は、私たちが動いていた。
運命に定められた結末を変えるため、意識的に抗っていた。
そして、まるでそれに反発するかのように、運命は歪み、“書き換えようとする意志”――名もなき“X”が姿を現した。
だが、今回は違う。
私たちは、何もしていない。
運命を改変するための行動を、何ひとつ起こしていなかった。
それにもかかわらず――
運命はすでに大きく変質している。
静かに、確実に。
誰にも気づかれぬまま、物語の歯車が、予定外の音を立てて軋み始めている。
「……でも、一体、なんのためにですの?」
「警告、かな?」
マヤの口から、あまりにもあっさりと放たれたその言葉。
私は胸の奥で、それを何度も反芻した。
――警告。
耳にしただけで、空気が一段冷たくなる響きだった。
「これ以上、運命を改変するようなら、容赦はしない……そんな警告にも受け取れるんだよね」
「…………」
「もしくは――」
マヤは少しだけ言葉を切り、こちらを横目で見た。
「あたしと同じように、【The Shining Destiny〜愛と光のメモリー】に関する知識……“記憶”を持った何者かが存在していて。そいつが、イデア=シュベルッツベルグを毛嫌いしているのかもしれない」
「私を……毛嫌い、ですの」
思わず、眉が寄る。
マヤはさらりと口にしたが、言われた当人としては、到底平静ではいられなかった。
会ったこともない。
声も知らない。
存在すら定かではない誰かから、明確な敵意を向けられている。
それは想像以上に――不快で、そして、ひどく気味が悪い。
「本編が始まる前に排除してやろう、って考える“聖女派”の元プレイヤーがいたとしても、不思議じゃないよね」
「……」
「というかさ。【The Shining Destiny〜愛と光のメモリー】をプレイしたことがある人なら、大抵は聖女派だし」
「……そう、でしたわね」
自嘲にも似た息が、喉からこぼれそうになる。
わたくし――イデア=シュベルッツベルグは、不人気投票、不動の第一位。
【The Shining Destiny〜愛と光のメモリー】という物語において、私は徹頭徹尾、救いようのない“悪役”として描かれている。
存在するだけで疎まれ、
破滅することを望まれ、
物語の終盤では、喝采とともに排除される役どころ。
――好かれる要素など、どこにもない。
むしろ。
そんな私を“好きだ”と言い切る、この子のほうが――どうかしているのだ。
その事実に気づいてしまい、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
見えない敵意。
変質し始めた運命。
そして、誰よりも嫌われる運命を背負った、自分自身。
世界は静かに、けれど確実に、私を中心に歪み始めている。
「何れにしても――今回はイデア自身が何とかするしかないんじゃないかな」
あまりにも静かな声音だった。
「……私一人で何とかしろと?」
わずかに唇を尖らせる。
抗議の色を滲ませたつもりだったが、自分でも驚くほど幼い仕草だった。
マヤはそれを見て、困ったように、しかしどこか申し訳なさそうに微笑む。
「できれば、もちろん手助けはしたいよ。でもさ……レガリアント家が国王陛下に今回の件を報告したとなれば、真偽を確かめるためにも、イデアとライリーは王城に呼び出されるはずだよね?」
「……そう、ですわね」
王城。
その響きだけで、胸の奥がひやりと冷える。
白亜の回廊。
磨き上げられた大理石。
そして、無数の視線。
好奇、疑念、値踏み――あらゆる感情が、容赦なく突き刺さる場所。
そこへ赴くのは、私とライリー。
部外者であるマヤを同行させることなど、許されるはずがない。
つまり。
今回は、私一人で立ち回らねばならない。
マヤがいない状況での立ち回り――
いずれ訪れると覚悟していたその瞬間が、思いのほか早く、そして無慈悲にやって来たのだ。
「あたしも、できる限りサポートはするつもりだよ」
マヤは指先で髪を弄びながら、続ける。
「でもさ、今回はあたしにとっても“想定外”が多すぎる。はじめてのことばかりなんだ。上手く支えられる保証はないかな」
保証はない。
その言葉が、ずしりと胃に落ちる。
これまで私は、どこかで甘えていた。
マヤがいるから大丈夫だと。
運命を知る存在が道を示してくれるのだと。
ミソエル地方の時のように、事前にヒントが与えられているわけではない。
今回は、闇の中を手探りで進むようなものだ。
喉が、乾く。
――大丈夫。
そう自分に言い聞かせても、胃の奥がじわじわと痛む。
「ライリーが見せた聖女の力については……聖具とみていいんですわよね?」
話題を変えるように問う。
「今のところは、それしか考えられないかな」
真の聖女でない以上、歴代聖女の力を宿した聖具を介する以外に、聖女の奇跡を行使する術はない。
だが。
マヤの表情が、ふと曇る。
「……なんですの?」
「もしも、国王陛下の前で“聖女対決”みたいなことになったら――」
その言い回しに、ぞわりと背筋が粟立つ。
玉座の間。
王と重臣たちの見守る中、奇跡を示せと命じられる。
どちらが真の聖女に相応しいか――その場で証明せよ、と。
マヤは、まっすぐ私を見つめた。
逃げ場を与えぬように。
そして、覚悟を決めたように言い切る。
「間違いなく、イデアは負ける!」
「――――!」
瞬間、全身に力が走る。
否定の言葉が、喉元までせり上がる。
だが、出ない。
分かっているからだ。
私には、初代聖女の指輪を使いこなすことができない。
ほんの僅かに力を解放しただけで、視界は揺れ、鼻腔の奥が熱を帯びる。やがて赤いものが零れ落ちる。立っていることすらままならなくなる。
あれは本来、闇属性の私が使えるものではないのだと――身体が告げている。
けれど、今朝のライリーは違った。
彼女は迷いもなく力を振るい、揺らぐことも、血を流すこともなかった。
その姿はあまりにも自然で、あまりにも聖女然としていた。
まるで。
彼女こそが、本物であるかのように。
もし、国王陛下の御前で聖女の力を競うような事態になれば――。
マヤの言うとおり、私は負けるだろう。
それは予感ではない。確信だった。
では、負けたその先は?
聖女を偽ることは重罪。
王家を欺いた偽聖女の末路は――。
死罪――。
そこまで科されるだろうか、と一瞬思う。だがすぐに、その甘さを自ら打ち消す。
お父様は、この指輪を手に入れるためにパフテック枢機卿を暗殺している。
もし私が偽聖女だと露見すれば、調査は徹底されるだろう。
そしてこの指輪が盗品であることも、やがて白日の下に晒される。
そうなれば、断罪されるのは私だけではない。
シュベルッツベルグ家は終わる。
家名も、領地も、誇りも。
すべてが失われる。
――死。
その文字が、冷たい刃のように胸の内へ沈んだ。
「――イデア! 大丈夫? 真青だよ?」
はっとして顔を上げる。
マヤの瞳が、真正面から私を覗き込んでいた。
「……ええ」
声が、少し掠れた。
大丈夫なはずがない。
けれど、取り乱せば、それこそ終わりだ。
マヤのいない王城で、私は一人で立たねばならない。
ライリーと対峙し、退けなければならない。
だが――仮に退けたとして。
そのとき、ライリーはどうなるのだろう。
「……」
彼女のことは好きではない。
あの敵意に満ちた目も、私を突き落とそうとする底意地の悪さも、全部大嫌いだ。
けれど。
死を望んだことなど、一度もない。
私が生き残れば、彼女が危うい。
彼女が勝てば、私が終わる。
そんな結末しか許されていないのだろうか。
「今はね、自分が生き抜くことだけを考えようよ」
マヤの声は静かだった。
「……そう、ですわね」
私は小さく頷く。
沈みゆく夕陽が空を赤く染めている。
その色はまるで、避けがたい終焉を予告するかのようだった。
それでも。
まずは、生きること。
私はまだ、終わってはいない。
この運命がどれほど歪んでいようとも――抗わずに沈むつもりはない。




