第49話 二年前の夜会
二年前――
四歳になるまで、私とライリーの関係は、驚くほど穏やかなものだった。
あの頃の私にとって、ライリーは友であり、同時に――どこか放っておけない、妹のような存在でもあった。
年は同じ。
けれど、生まれ月は違う。六月生まれの私に対し、ライリーは二月の早生まれだった。
ほんの八ヶ月。
大人にとっては取るに足らない差だが、子供にとっての八ヶ月は、世界の見え方そのものを変えてしまうほど大きい。
身長は、私のほうが一回り高かった。
座学も、ダンスも、礼法も――何を習っても、私のほうが覚えは早く、出来も良かった。
それは努力というより、どうしようもない“差”だった。
マヤの言葉を借りるなら、この世界において私は生来、際立った才を与えられているらしい。
であるならば、私とライリーの間に差が生まれるのは、避けようのない必然だったのだろう。
そして何より――
私たちは、同じ公爵家の令嬢だった。
並べられる。
比べられる。
測られる。
それがどれほど幼い心を削る行為かを、当時の私は理解していなかった。
四歳になった年。
両公爵家合同の、小さな夜会が開かれた。
格式ばった大舞台ではなく、親しい者同士が顔を合わせる、穏やかな集まり。
そのため、子供である私たちも同席を許されていた。
そして――
そこで、すべてが変わる。
ライリーの父が、ワインを片手に、冗談めかしてこう口にしたのだ。
周囲に十分聞こえる、しかし咎められにくい声量で。
『いや、まったく……イデア嬢が、我が家の娘であったなら。どれほど誇らしいことか』
場は、笑いに包まれた。
大人たちはそれを、ただの社交辞令だと理解していた。
だが――
ライリーだけは、違った。
その瞬間、彼女は理解してしまったのだ。
父が誰を見て、
誰を評価し、
そして、誰を選んでいるのかを。
四歳なりに。
あまりにも、鮮明に。
そして――
私もまた、その言葉を、確かに聞いていた。
私は、何も言わなかった。
否定もしなかった。
困ったように笑って誤魔化すことすら、しなかった。
それは、“公爵令嬢として正しい反応”を選んだ結果だった。
余計な言葉は場を乱す。
即座の否定は相手の家の顔を潰す。
幼いとはいえ、私はそれを理解していた。
――だから、沈黙した。
だが、その沈黙は。
ライリーの目には、こう映ったのだ。
否定しなかった。
受け入れた。
自分は友に見下されたのだ、と。
正しさは、いつも誰かを救うとは限らない。
そのことを、私はまだ知らなかった。
夜会が終わったあと。
人の気配がすっかり引いた回廊で、私はライリーに呼び止められた。
絨毯に吸われるように、私たちの足音だけがやけに大きく響いていたのを、今でも覚えている。
「……イデアは」
立ち止まったライリーが、ぽつりと口を開く。
「さっきのこと……ああ言われて、嫌じゃなかったの?」
その声は、幼いながらも必死だった。
責める調子ではない。
ただ、自分の気持ちを肯定してくれる言葉を、必死に探している――そんな響き。
振り返った彼女の瞳は、揺れていた。
怯えと期待がないまぜになった、壊れやすい光。
――その光を、私は見誤った。
一瞬、言葉に詰まる。
胸の奥で、いくつもの選択肢がせめぎ合う。
「嫌だった」と言えば、彼女は救われただろう。
「そんなことない」と言えば、夜会は無事に終わっただろう。
けれど、私は考えてしまったのだ。
公爵令嬢として、どちらが正しいかを。
そして――選んでしまった。
「……どう答えるのが、正しいのかしら」
口に出した瞬間だった。
ライリーの瞳から、すっと光が消えた。
まるで、灯されたばかりの蝋燭が、息ひとつで吹き消されるように。
失望。
そして、理解。
彼女の中で、何かが音を立てて折れるのが、はっきりと分かった。
ライリーは悟ってしまったのだ。
私は、自分の味方ではない。
私は、彼女よりも――
“公爵令嬢としての正しさ”を選ぶ人間なのだと。
それからの彼女は、少しずつ私から距離を取るようになった。
笑顔は消え、言葉は減り、視線すら合わせなくなった。
やがて――
その距離は、明確な敵意へと変わる。
そして皮肉なことに。
私もまた、敵意を向けてくる相手に、優しくする術を知らなかった。
守るべき立場があり、譲れぬ矜持があった。
だから私は、退かなかった。
こうして私たちは、完全にすれ違った。
水と油。
交わることのない存在。
――不倶戴天の敵となる運命を、その夜、静かに確定させてしまったのだ。
「……本当に、意地の悪い人が考えた│運命らしいね」
夕焼けに染まる屋上で、マヤはぽつりとそう呟いた。
その声には、いつもの軽さはない。諦観と疲労が混じった、妙に大人びた響きだった。
「嫌になるよ」
続けてそう言った彼女の横顔は、オレンジ色の光に縁取られ、どこか遠くを見ている。
「それで……ライリーは、どうして殺されますの?」
言葉にした途端、胸の奥がきしむ。
ライリーのことを好いているかと問われれば、答えは否だ。
けれど、死を望んだことなど、一度たりともない。
“殺される”と聞かされた瞬間、張り裂けそうになったこの胸の痛みも、確かに本物だった。
「ライリーはね……ずっとイデアに憧れているんだよ」
マヤは静かに告げる。
「たぶん……それはいまも変わっていないよ」
「……いまも?」
思わず、聞き返してしまった。
彼女が私に向ける感情は、憎悪と敵意だけだと、そう信じ込んでいたから。
「うん。でも同時に――」
マヤは一拍置く。
「凄まじいほどの嫉妬も、抱えているかな」
「……嫉妬、ですの」
胸に、鈍い痛みが落ちる。
思い当たる節は、確かにあった。
幼い頃から、ライリーは私の持つものを欲しがった。
才能、評価、期待――
私が持ち、自分が持たないものすべてが、彼女の心を蝕んでいったのだ。
「だからね、前日譚に出てくるライリーは……手に入れようとしたんだ」
「……一体、何をですの?」
マヤは私から視線を逸らさない。
逃げ場を与えないように、真っ直ぐに。
「聖女の称号と――アレン王太子殿下を」
「――――っ!」
その瞬間、内臓をぎゅっと掴まれたような、耐え難い不快感が走った。
視界が一瞬、揺らぐ。
思わず足下がふらつき、フェンスに手をつく。
「その結果、ライリー=レガリアントは聖女の首飾りを盗み出す計画を立てる。知り合いだった闇ギルドのマスターに、盗みを依頼するんだ」
マヤの声は淡々としていた。
だが、それは感情がないからではない。
何度も思い返し、何度も噛みしめた末の、静けさだった。
ライリーは、聖女の首飾りを手に入れる。
けれど、そこで事態は終わらなかった。
その首飾り――
かつて、それを身につけていた聖女こそが、歴代最強にして真の聖女だと狂信する男がいたのだ。
前日譚では、ただ“狂信者”とだけ記されているその男は、盗まれた首飾りを追い、たった一人で闇ギルドに乗り込み――壊滅させた。
そして、たどり着く。
首飾りを手にした、ライリーのもとへ。
「……聖女を冒涜したとして、ライリーは殺される」
その言葉が、重く空気に沈む。
「この事件はね、【The Shining Destiny〜愛と光のメモリー】前日譚で、こう語られている」
マヤは静かに締めくくった。
「――もう一人の、偽聖女の末路、って」
夕陽はすでに沈みかけ、屋上には長い影が落ちていた。
その影の中で、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
これは、誰か一人の悪意で生まれた悲劇ではない。
憧れと嫉妬、正しさと沈黙、そして意地の悪い運命。
――すべてが噛み合った結果なのだと、否応なく理解してしまった。




