第48話 屋上
「……なんだか、とても疲れましたわ」
ぽつりと零れたその言葉は、夕暮れに沈みゆく空気の中へ、するりと溶けていった。
本日の授業をすべて終えた私は、気づけば初等部校舎の屋上へと足を運んでいた。
石畳よりも柔らかく、教室よりも静かなこの場所は、いつも思考を整えるのに都合がいい。
近くにいるのはマヤだけ。
それをいいことに、私は少々はしたないと自覚しつつも、ベンチへ深く腰を沈めた。
肺の奥に溜まっていた空気を吐き出すように、長い息をつく。
一日中、好奇と猜疑と期待が入り混じった視線の雨に晒され続けた肩は、石のように凝り固まっていた。私は指先でとんとんと叩き、ようやく人心地を取り戻す。
隣に腰かけるマヤは、そんな私を少し意外そうな顔で見ていた。
放課後、あえて二人きりで屋上を選んだのには理由がある。
未来の話――人に聞かれてはならない話をするには、ここ以上に相応しい場所はない。
聞かれたくない話。
それは言うまでもなく、今朝のライリー=レガリアントの件だ。
彼女が見せた“聖女”の力。
その奇跡が、どこから来たものなのか。
私の予想では、彼女もまた、私と同様に――歴代の聖女が生前に身につけていた遺物、すなわち聖具を所有している可能性が高い。
だが。
あの時、私は確かに確認した。
気づかれぬよう、しかし決して見逃さぬよう、ライリーの全身に視線を走らせたが――それらしい物は、どこにも見当たらなかった。
それが、どうにも引っかかっている。
耳の早い父のことだ。
屋敷へ戻れば、真っ先にライリーの話を振られるだろう。
問題はその時、私は何を――どこまで話せばいいのか。
私は、マヤから“彼女が本物の聖女ではない”という事実を聞かされている。
だが、父はまだ知らない。誰が真に女神に選ばれし存在なのかを。
かと言って、マヤから聞いた話を、そのまま父に伝えることなど出来るはずもない。
そんなことをすれば――
マヤの、ひいてはキリング家の命が危険に晒される。
シュベルッツベルグ家の秘密は門外不出。
血よりも重く、契約よりも鋭い。
それを知る者が増えれば増えるほど、消される可能性もまた増える。
――知られたとなれば、確実に命を狙われる。
屋上を吹き抜ける風が、ふいに冷たくなった気がした。
私は無意識に背筋を正し、夕焼けに染まる空を見上げる。
静かな場所を選んだはずなのに、胸の内では、嵐の前触れのような不安が、静かに渦を巻いていた。
「……イデアが聞きたいのは、ライリーの件だよね?」
遠くを見つめたまま、マヤが独り言のようにそう呟いた。
夕焼けに照らされた横顔には感情の色が薄く、彼女が何を思っているのか、読み取ることは出来ない。
私はただ、静かに頷いた。
「わたくし、ライリーが聖具を使用しているのだと思いまして……彼女が身につけていた装飾具を、注意深く観察しましたの」
思い返すだけで、胸の奥がざわつく。
「……ですが、それらしき物は、何ひとつ身につけていませんでしたわ」
あの時、彼女が身につけていた装飾品は、どれも幼い頃から変わらず身につけているものだった。
新しい指輪も、護符も、隠し持てそうな細工もない。
それなのに――
彼女は、確かに聖女の力を使ってみせた。
だからこそ、理由を知りたかった。
知らずにいることが、ひどく危険な気がしてならなかった。
「……ライリーが、聖女の力を……」
マヤはぽつりと呟くと、ゆっくりと立ち上がった。
思案するようにフェンスへ歩み寄り、手すりに肘を預ける。その背中は、どこか小さく見えた。
しばらくの間、言葉はなかった。
校舎の影が長く伸び、屋上を渡る風だけが、沈黙を埋めていく。
やがて、夕陽をぼんやりと眺めていたマヤが、ようやく口を開く。
「……これまでね。あたしが、ライリーのことを詳しく話さなかったのには、理由があるんだ」
「理由……?」
問い返すと、マヤはゆっくりと振り向いた。
その表情は、ほんのわずかに――けれど確かに、悲しみを帯びていた。
「ライリーが【The Shining Destiny〜愛と光のメモリー】の本編に登場しないことは、言ったよね?」
「……ええ」
思い出す。
かつて、私は尋ねたことがある。
悪役令嬢に相応しいのは、私ではなくライリーではないのか、と。
そのとき、マヤははっきりと言った。
ライリー=レガリアントは、本編には登場しない、と。
特別気にする存在ではない。
そう、教えられていた。
「それはね……」
マヤは言葉を詰まらせた。
一度、息を吸い込み、吐き出す。その仕草は、決意を固めるようにも見える。
そして――
悲しみを振り払うように、彼女は声を張り上げた。
「ライリー=レガリアントは、死ぬんだよ!」
「――――」
言葉の意味を理解するよりも先に、身体が反応していた。
私は、いつの間にか立ち上がっていた。
「……死ぬ? ライリーが……死にますの?」
声が、わずかに震える。
「うん。ライリー=レガリアントは、前日譚の小説に少しだけ登場するキャラクターなんだけど……今から二年後、彼女が八歳の時に殺されるの」
「――殺される!?」
思わず口元に手を当て、息を呑んだ。
胸の奥が、ひどく冷える。
「……いったい、誰に……?」
「――狂信者」
その言葉は、短く、重く、断定的だった。
狂信者……?
「本当のライリーはね」
マヤは再び背を向け、沈みゆく夕陽を見つめたまま語り続ける。
「ずっと、イデアという“コンプレックス”を抱えてるんだ」
「……わたくし、ですの?」
私の名が、こんな形で告げられるとは思わなかった。
「イデア、覚えてる?」
「……何を、ですの?」
「ライリーが、イデアを敵視するようになった理由」
「……」
覚えている。
忘れるはずがない。
なぜなら――
ライリー=レガリアントは、私にとって初めての友であり、
そして、初めて明確な憎悪を向けてきた相手でもあるのだから。




