第47話 公爵令嬢と伯爵令嬢
「聖女ならば、傷ついた者を癒すのが義務でしょう? それとも――都合の良い時だけ、聖女を名乗るおつもりかしら?」
言葉は、鋭利な刃のように放たれた。
次の瞬間、空気が凍りつく。
まるで誰かが、見えない鐘を打ち鳴らしたかのように、重苦しい沈黙が廊下を支配した。
視線が、一斉にこちらへと集まる。
好奇、期待、猜疑、そして――わずかな愉悦。
胸の奥で、心臓が鈍く、重く脈を打った。
鼓動のたびに、血が冷えていくのが分かる。
――さて。
どう切り返すべきか。
感情に任せれば、言葉は剣になる。
だが、ここで剣を振るえば、こちらが“悪役”として断罪されるだけだ。
私は思案しながら、わずかに視線を落とす。
そのとき――。
ミモザ色の瞳が、静かに、しかし確かに、私を射抜いた。
揺らぎのない眼差し。
そこにあったのは、怯えでも逡巡でもない。
――ここは、私に任せてくださいまし。
声なき意思が、はっきりと伝わってくる。
……信じるべきか。
一瞬の躊躇が、胸をかすめた、そのときだった。
「(時には、仲間を信じることも大切だとおもうよ?)」
その声は柔らかく、けれど確かな重みを伴って、頭の奥に響いた。
「(――マヤ!)」
私は思わず、周囲へと視線を走らせる。
集まった生徒たちの列、その隙間に――
見慣れた濡羽色の髪を揺らす少女の姿を見つけた。
マヤ=キリング。
相変わらず、状況の核心にだけ、するりと現れる。
「(一体、今までどこにいましたの! 私、かなりのピンチだったのですわよ!)」
「(うん、知ってる。でもね、これに関してはあたしも想定外だったんだ)」
彼女は困ったように、けれどどこか楽しげに肩をすくめる。
「(だからさ。この場に、いちばん相応しい人物を連れてきたんだよ)」
……相応しい、人物?
その瞬間、思考が追いつくより先に、腑に落ちた。
――まさか。
しかし、その理由までは、まだ見えない。
その疑問を察したのだろう。
マヤは、私の内心をなぞるように、続けた。
「(相手は公爵令嬢。しかも、ここに集まってるのは、それなりの貴族家系ばっかり。ぽっと出の男爵家のあたしが前に出たところで、一蹴されて終わりだよ)」
確かに、その通りだ。
この場は、身分と血統が、言葉の重さを決める。
「(でもね)」
マヤの視線が、すっと一人の少女へと向かう。
「(ワルドナルク家は、伯爵家の中でも指折りの名門。しかも、彼女自身の評判も申し分ない。さすがのライリーでも、彼女を無下に扱うことはできない)」
――なるほど。
ようやく、すべてが一本の線で繋がった。
これは、感情のぶつかり合いではない。
貴族社会の論理で、貴族社会を制する一手。
「(最強の仲間――アメリア=ワルドナルクのお手並み拝見と、洒落込もうよ!)」
いつもと変わらぬ、軽やかな口調。
けれど、その采配は驚くほど冷静で、的確だった。
私は、マヤにだけ分かるよう、ほんの僅かに口元を緩める。
――本当に、頼もしい友人ですわ。
そして、改めて彼女へと視線を向ける。
アメリア。
静かに佇むその姿には、揺るぎない気品があった。
声を荒げずとも、場を制するに足る存在感。
私は、小さく頷いた。
この場を託すに、これ以上ない相手だと――
迷いなく、信じて。
アメリアは一度、胸の奥まで空気を送り込むように深く息を吸う。
それから、澄んだ声で言葉を紡ぎはじめた。
「そもそも“義務”と仰られますが――」
その口調は柔らかい。
だが、内に秘めた芯は、鋼のように揺るがない。
「聖女に与えられたお役目は、世界から混沌を取り除くことですわ。怪我をするたびに、その力を行使していては……きりがありません」
言い切った。
曖昧さも、逃げ道も残さぬ断言だった。
刹那。
――ぎりっ。
奥歯を噛みしめる、はっきりとした音が響いた。
「――あなたは、彼女を見殺しにしろと! そう仰るのッ!」
怒鳴り声だった。
感情を剥き出しにしたライリーの声には、焦りと苛立ちが混じっている。
だが、アメリアは眉一つ動かさない。
冷静さを失った相手を前にするほど、彼女の声は淡々と、研ぎ澄まされていく。
「私は、実際の怪我の程度を存じ上げません」
そう前置きしてから、静かに続ける。
「ですが……彼女は、友人に肩を借りながら、ここまで歩いて来られたのですわよね?」
一瞬の間。
「それに――私たちがこの場へ来るまでの間、廊下に血痕は一切見当たりませんでしたわ。ただ一箇所を除いて。……御手洗いを」
「御手洗い……?」
「そこで怪我をしたっていうのか?」
「頭を? どうやって……?」
不可解な指摘に、生徒たちの間で再びざわめきが起こる。
疑念が、形を持ち始めた瞬間だった。
「――こ、転んだんです!」
今にも泣き出しそうな顔で叫んだのは、先ほどライリーに癒やされていた少女だ。
「どこでだって転べば怪我くらいしますわよ!」
「ええ。おっしゃる通りですわ」
アメリアは、即座に肯定した。
だが、それは相手を受け入れたからではない。
論を進めるための、一歩目だ。
「……それでも、怪我をしたのなら医務室へ運ぶのが一般的ですわね。ここは王立ヒステリック学園。医師も薬師も、常に在中しております」
「だから!」
声を荒らげて割り込んできたのは、ライリーの取り巻きだった。
「聖女であるライリー様がお近くに居られたんだから、そっちに行って何が悪いんですか!」
熱を帯びた視線が、アメリアに集中する。
だが彼女は、微笑みさえ浮かべたまま、穏やかに首を傾げた。
「私、ダメだなんて、一言も申し上げておりませんわ」
そして――さらりと、刃を差し込む。
「それと……あなた方は、ライリー様が“聖女様である”ことを、事前に知っていらしたのですね?」
「……え……?」
言葉が、詰まった。
取り巻きたちは互いに視線を交わし、明らかに動揺している。
そこへ、待っていたかのように――
「彼女たちには、あらかじめ申し付けてありますの」
ライリーが、すかさず割って入った。
「なにかあれば、私の元へ来るように、と。もちろん――私が聖女の力に目覚めたことも、きちんと伝えておりますわ」
胸を張るその姿は、誇らしげで。
同時に――どこか、焦りを隠しきれていなかった。
「――ライリー様は、彼女たちを深く信頼しておられるのですね」
確かめるような、しかし否定も肯定も含まぬ声音だった。
「当然ですわ」
ライリーは胸を張る。
「彼女たちは、私が信用するに値する友ですもの」
「ライリー様……!」
その言葉に、取り巻きたちは感極まったように瞳を潤ませ、感嘆の吐息を漏らす。
まるで、美談を聞いたかのような反応だった。
――けれど。
アメリアだけは、その光景を一歩引いた位置から眺め、やれやれと小さく頭を振った。
「……非常に申し上げにくいのですが」
前置きの丁寧さとは裏腹に、次に紡がれた言葉は、容赦がなかった。
「ライリー様には、彼女たちとのお付き合いを、一度お考え直しになられたほうがよろしいかと。まことに勝手ながら、進言させていただきますわ」
一瞬。
――時が、止まった。
空気が凍りつき、誰もが言葉を失う。
そして次の瞬間、抑え込まれていた感情が、堰を切ったように噴き出した。
「あなた、一体何様なの!」
「伯爵家の令嬢か何か知らないけど、ライリー様に対して失礼じゃない!」
「身の程をわきまえなさい!」
怒号。
非難。
感情だけで撃ち出される言葉の嵐。
だが、アメリアは眉ひとつ動かさなかった。
その表情には、怒りでも恐れでもなく――ただ、淡い呆れが滲んでいる。
「……わきまえるべきは、あなた方のほうですわ」
静かに、しかしはっきりとそう告げると、アメリアは一拍置いた。
その沈黙が、場を再び支配する。
「よろしいですか」
諭すような口調。
けれどその中身は、厳然たる事実だった。
「本来、“聖女”とは――レイヴァス教会が正式にお認めになられた方にのみ与えられる称号です」
ざわり、と空気が揺れる。
「このように多くの者の目がある公の場で、教会の正式な認可が下りていないにも関わらず、聖女の力を行使すれば……どうなるか、お分かりになります?」
誰も答えない。
「不確かな情報は、人々に混乱をもたらします。最悪の場合――教会の権威と沽券に関わる事態にまで、発展しかねませんわ」
淡々と、だが一語一語が重く落ちていく。
「だからこそ」
アメリアは、すっと私のほうへ視線を向けた。
「イデア様は、怪我の状態を瞬時に見極め、その程度であれば命に別状はないと判断なされたのです」
――え?
そんな高度なこと、考えていませんでしたが?
ケチャップと間違えただけですが?
「軽率に奇跡を振りかざすのではなく、必要な場面を見極める。これこそが――女神様に選ばれし、“真の聖女様”だけに許された在り方」
胸を張り、断言する。
「いわば――“聖女ムーブ”ですわ」
――。
――そんなこと、まったくこれっぽっちも考えておりませんでしたけれど。
というか。
真の聖女ムーブって、なんですの?
内心でそう突っ込みながらも、私は必死に表情を取り繕った。
――アメリア。
あなた、盛りすぎですわ。
でも……。
グッジョブです。
「……確かに」
ライリーは一瞬、唇の端を引き結んだ。
「まだ正式に聖女として発表されていない身。少々――配慮に欠けておりましたわ」
殊勝とも取れるその言葉とは裏腹に、彼女の視線は鋭く、まるで憎き仇でも見るかのように、アメリアを射抜いていた。
謝罪の体裁を取り繕っただけで、内心の怒りは、かえって露わになっている。
「ですが――」
低く、しかしはっきりとした声が、再び空気を震わせる。
「あなたとアレン王太子殿下との婚約の件につきましては、レガリアント家より、正式に抗議させていただきますわ」
その宣言に、周囲が息を呑む。
「勇者様の婚約者に相応しいのは――女神に選ばれし、真の聖女たる、このわたくしですもの」
吐き捨てるように言い放つと、ライリーは踵を返した。
裾を翻し、取巻きたちを従えて、そのまま去っていく。
「お退きなさい。邪魔ですわよ!」
苛立ちを抑えきれぬまま、行く先に立つ生徒たちを睨みつけ、言葉を投げつける。
当てつけのような態度に、集まっていた生徒たちは我先にと顔を伏せ、視線を逸らし、まるで災厄から逃れるかのように散っていった。
――嵐が、過ぎ去った後。
残されたのは、妙に広く感じられる廊下と、まだ冷えきらぬ空気だけだった。
「……助かりましたわ、アメリア」
そう告げると、アメリアは肩をすくめ、何でもないことのように微笑む。
「この程度であれば、伯爵家の嗜みの範疇ですわ」
軽口めいているが、その眼差しは油断なく澄んでいる。
「それにしても……」
ふと、ミゼルが顎に手を当てた。
「ライリーが“聖女の奇跡”を演じるにあたって、どんな方法を使ったのかしら。少し、出来すぎていますわね」
「ライリーが力を使うところ、イデア様はご覧になったんですよね?」
フェンダの問いに、私は小さく頷いた。
「ええ。確かに……見ましたわ」
ただし、何を“どうやって”行ったのかまでは、はっきりしない。
マヤなら何か知っているかもしれない――そう思い、視線を向ける。
けれど彼女も、顎先に指を添えたまま、難しい顔で思案していた。
今回の出来事は、彼女にとっても想定外だと、先ほどはっきり言っていた。
だとすれば。
――またもや、運命が、私たちの一歩先を行っているということか。
胸の奥に、嫌な予感が澱のように溜まっていく。
レガリアント家が“聖女の力”を理由に、国王陛下へ進言することになれば――事態は非常に厄介だ。
考えただけで、胃の辺りがきりりと痛む。
この調子では、そのうち私の胃が、蜂の巣のように穴だらけになってしまうかもしれない。
「さあ、教室へ参りましょう」
アメリアの穏やかな声が、現実へと引き戻す。
「……そうですわね」
私は小さく息を整え、頷いた。
こうして私たちは、何事もなかったかのような顔をして、教室へと向かう。
――嵐の火種を胸に抱えたまま。




