第46話 仲間
「――傷が、傷が……あっという間に治ってしまいましたわ!」
流血する少女を支えていた取り巻きの一人が、まるで稽古を重ねた舞台女優のように、よく通る声で叫んだ。
その言葉が合図だったかのように、廊下は一瞬遅れて爆発する。
歓声。
拍手。
驚嘆のどよめき。
「うおおおおおおおおおお!!」
奇跡という名の火種に、生徒たちの感情が一斉に燃え上がる。
「すごいわ! 本当に、どこも痛くないの!」
つい先ほどまで血を流していた少女は、軽やかに立ち上がると、見せつけるようにその場で一回転してみせた。
衣擦れの音すら、喝采に飲み込まれて消える。
そして、天井に叩きつけるかのような大声で宣言する。
「ライリー=レガリアントこそ――真の聖女様だったのね!」
その言葉に呼応するように、別の取り巻きがライリーの腕を掴み、ぐいと持ち上げた。
「この手よ! このお手が、奇跡を起こしてくださったの!」
どっと、廊下が揺れる。
称賛の波が幾重にも重なり、誰もが競うようにライリーの名を呼んだ。
「――ライリー! ライリー!」
当の本人は、まるで当然の栄誉であるかのように、余裕の笑みを浮かべて手を振っている。
「――ライリー! ライリー!」
光の中心に立つ者の、疑いのない振る舞い。
――そして。
不意に、その視線がこちらへと向けられた。
「……っ」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
ライリーの顔は、これまでで最も醜く――そして最も美しく歪んでいた。
嘲笑と愉悦が溶け合ったその表情は、まるでこう囁いているかのようだった。
――見たでしょう?
――これが、真実よ。
私はその視線を受け止めたまま、動くことができなかった。
歓声に満ちた廊下の中で、ただ一人、音のない場所に取り残されたように。
「随分と薄情な聖女様もいらしたものですこと――オーホッホッホッ」
耳障りな甲高い笑い声が、頭蓋の内側を引っかくように響いた。
その余韻が消えきらぬうちに、周囲の空気が一斉に冷える。
――視線。
突き刺すような白眼。
露骨な軽蔑と、裏切られた者の失望が混じった眼差しが、私へと向けられていた。
違う。
そうではない、と喉まで言葉がせり上がる。
私はてっきり、あれは――私を陥れるために用意された、卑劣な小細工。
床に広がった赤は、芝居のためのケチャップか何かだと、そう信じていた。
けれど。
光が消えたあと、そこに残っていたのは――紛れもない現実だった。
ライリーが放ったあの眩い光によって、少女の傷口は確かに塞がっている。
血は止まり、皮膚は何事もなかったかのように元の形を取り戻していた。
奇跡は、起きたのだ。
……しかし。
分からない。
どうしても、腑に落ちない。
なぜ、ライリーが聖女の力を使えるのか。
仮に、彼女が本物の聖女であるならば。
この奇跡を目にしても、私はここまで困惑しなかっただろう。
けれど――私は知っている。
未来を知るマヤから、何度も、何度も聞かされている。
本物の聖女は、彼女ではない。
ライリー=レガリアント。
彼女は【The Shining Destiny〜愛と光のメモリー】本編に、登場すらしない存在だ。
――重要人物ではない。
物語の運命に名を刻むことすらない。
だとすれば。
考えられる答えは、ひとつしかなかった。
ライリーもまた、私と同じ。
――歴代聖女の力が宿る、“聖具”を所持している。
「――――」
だが、その推論は、次の瞬間に躓く。
……おかしい。
歴代聖女の力が宿る聖具は、例外なく“銀”を用いた装身具だ。
指輪、ネックレス、耳飾り――形は違えど、素材だけは決して変わらない。
私は無意識のうちに、ライリーの身なりを目で追っていた。
指輪。
ネックレス。
ピアス。
どれも見覚えがある。
昔から身に付けている、高価だが、ごくありふれた装身具。
――それらが、聖具であるはずがない。
「……っ」
喉の奥で、息が詰まった。
では――先程の、あの光は何だったのか。
見間違いなど、あり得ない。
あれは紛れもなく、聖女の光だった。
幾度となく目にしてきた。祈りと共に溢れ出る、あの温度。
世界を肯定するような、柔らかくも揺るぎない輝き。
それを、私は――否定できない。
「偽りの聖女であることが露見した途端に、だんまりですの?」
甘く歪んだ声が、容赦なく耳に突き刺さる。
「いつもの威勢は、どこへ行ってしまいましたのかしら?」
「……こんなの……おかしい……ですわ」
「え?」
ライリーが、わざとらしく首を傾げた。
「今、なにか仰いまして? 声が小さすぎて、まったく聞こえませんこと」
口元に嘲りを浮かべ、さらに続ける。
「金魚のように口をぱくぱくさせるだけではなくて、もっとハキハキお話しになってくださらない? 皆さまも、そう思いませんこと?」
その問いかけに応じるように、周囲の生徒たちが一斉に頷き合った。
ささやきは波紋のように広がり、やがて悪意を孕んだ声へと変わっていく。
「……やっぱり、嘘だったのね」
「聖女様を騙っていたってこと?」
「しかも国王陛下を欺いて、勇者様と婚約までしたとか……」
「信じられない……」
「それ、重罪じゃないか?」
「天下のシュベルッツベルグ家も、もう終わりだろ」
言葉が、刃になる。
――まずい。
胸の奥で警鐘が鳴り響く。
言い返さなければならない。
何でもいい、私は本物の聖女なのだと、ここで否定しなければ。
このままでは――
シュベルッツベルグ家は、確実に破滅する。
それだけは、絶対に。
何としても、阻止しなければならない。
「……っ」
けれど。
声が、出ない。
今さら私が聖女だと叫んだところで、つい先刻、ライリーの奇跡を目の当たりにした彼らに届くはずもない。
それは、まさしく糠に釘。
無力な足掻きに過ぎなかった。
「あら……?」
ライリーが、私の顔を覗き込む。
「随分と顔色が悪いですわね」
そして、慈悲深い聖女を気取るように、微笑んだ。
「……よろしければ、私の“せ・い・じょ・の力”で、癒して差し上げましょうか?」
その手が、こちらへ伸びてくる。
――触れられる。
そう思った瞬間、体が先に動いた。
ばしっ。
乾いた音が廊下に響く。
私は、とっさにライリーの手を払い除けていた。
「――――」
生徒たちが、一斉に息を呑む。
ざわめきは嘘のように消え、廊下は凍りついた。
私とライリー。
視線と視線が、真正面からぶつかり合う。
そこへ――
「通してくださいまし!」
凛と澄んだ声が、重苦しい空気を真っ二つに裂いた。
人垣が割れ、その奥から現れたのは、見慣れた三つの影。
アメリア=ワルドナルク。
ミゼル=ドリスマン。
フェンダ=パソネス。
いずれも――
わたくし、イデア=シュベルッツベルグの取巻きと呼ばれる少女たち。
彼女たちは周囲の視線を意に介すことなく、まっすぐこちらへ歩み寄ってくる。
その威風堂々たる佇まいに、集まった生徒たちですら、思わず道を空けていた。
「ごきげんよう、イデア様。……ライリー様」
先頭に立つアメリアが足を止め、スカートを軽く持ち上げる。
寸分の乱れもない、完璧な礼。
その所作の美しさに――ライリーでさえ、わずかに息を呑んだのが、私には分かった。
「あなたは……確か、ワルドナルク家のご令嬢でしたわね」
値踏みするような視線が、刃物のようにアメリアの全身をなぞった。
その眼差しには、品位を装った敵意と、相手の価値を量ろうとする露骨な算段が滲んでいる。
――けれど。
「アメリア=ワルドナルクと申します。ライリー様」
彼女は、微塵も怯まなかった。
声音は澄み、姿勢は真っ直ぐ。まるでその視線など、春風ほどにも感じていないかのようだ。
その唇に浮かぶ微笑みには、恐怖も、不安も、まして迎合の色もない。
ただ、確かな自負だけがあった。
そして――私に向けられた、ミモザ色の瞳。
遅れてしまって、ごめんなさい。
そう語りかけてくるような、柔らかくも力強い眼差しに、胸の奥がわずかに熱を帯びる。
背後に控えるミゼルとフェンダも同様だった。
いつもの控えめな佇まいとは違う。そこには、名門の名に恥じぬ気品と、自分たちは正しい場所に立っているという確信が、静かに満ちている。
「さすがは伯爵家、と言ったところかしら。立ち振る舞いも見事ですわね」
「お褒めいただき、光栄ですわ」
アメリアは一歩も引かず、優雅に応じた。
「……ですが。偽聖女を名乗る女と親しくするのは、感心いたしませんわね」
ライリーは、わざとらしく溜め息をつき、薄く笑う。
「……あなたさえよろしければ、わたくしのサロンに招待致しましてよ?」
「それは、とても素敵なお誘いですわ」
にこり、と。
アメリアは、完璧な社交辞令の微笑みを返した。
「ええ、ええ。そうでしょうとも」
勝ち誇ったように、ライリーは口角を吊り上げ、私を一瞥する。
まるで、すでに勝敗は決したと言わんばかりに。
――だが。
「……ですけれども」
アメリアの声は、柔らかいまま、しかし確かに鋭さを帯びた。
「イデア様を“偽聖女”と呼ぶのは、さすがのライリー様でも、よろしくありませんわ」
その瞬間だった。
ライリーの顔から、すっと笑みが消えた。
残ったのは、感情を削ぎ落としたような無表情――まるで、道端の小石でも見るかのような冷たい視線。
だが、アメリアは動じない。
その無言の圧を正面から受け止めながら、彼女は静かに周囲へと視線を巡らせた。
「皆さまの言動も、少々問題ですわね」
ざわり、と空気が揺れる。
生徒たちの間に、不安と戸惑いが波紋のように広がった。
それでもアメリアは続ける。
「国王陛下がお認めになられた聖女様は、ライリー=レガリアントではなく――イデア=シュベルッツベルグ。その事実を、お忘れなのかしら?」
「それは……」
言葉に詰まる生徒たちに、彼女は容赦なく、しかし理路整然と言葉を重ねた。
「皆さまがご存じなくても無理はありませんわ。ですが――すでに今代の勇者様、アレン王太子殿下は、イデア様と直接お会いになっています。そしてイデア様が、女神様に選ばれし聖女であることを、ご自身の目でお確かめになられておりますのよ」
「え、そうなの!?」
「王太子殿下が直接……?」
「じゃあ、聖女の力も確認したってことだよな?」
「それ以外、考えられないだろ……!」
一気に、潮目が変わった。
疑念が、動揺へ。動揺が、戸惑いへと変わっていく。
――さすが、アメリアですわ。
たった一言。
たった一つの“事実”を示しただけで、この場の空気をひっくり返してしまう。
アメリア=ワルドナルク。
彼女は、私の数少ない――真の仲間。
マヤの言う通りだ。
彼女は、本当に頼りになる。
……けれど。
「では、先程はなぜ、力を使わなかったのかしら?」
水を差すように、その声が響いた。
ライリー=レガリアント。
彼女はもはや隠そうともせず、アメリアへ剥き出しの敵意を向けていた。
その圧に、フェンダが思わず半歩、後ろへ下がる。
「彼女は流血していましたのよ!」
ライリーの声が、甲高く廊下に反響する。
「聖女ならば、傷ついた者を癒すのが義務でしょう? それとも――都合の良い時だけ、聖女を名乗るおつもりかしら?」




