第45話 本物の聖女
【勇者誕生!】
【アストラル王国王太子――アレン=ロードナイトこそが、今代の勇者であることがレイヴァス教会によって発表――】
朝食を終え、まだ湯気の残る紅茶を口に運びながら、私は何気なく朝刊を手に取った。
――その瞬間だった。
視界に飛び込んできた大きな見出しに、思考が一拍遅れて凍りつく。
ついに、来るべきものが来たのだ。
アレン=ロードナイト王太子。今代の勇者。
レイヴァス教会が、その名を公にした。
「……っ」
喉が、ひくりと鳴った。
私は紅茶のカップを卓上に戻し、新聞を掴み直す。指先に、嫌なほど力が入っているのが自分でもわかる。
隅から隅まで。
一行たりとも見落とすまいと、私は必死に文字を追った。
心臓が、早鐘を打つ。
胸の奥で、薄い氷が軋むような感覚がした。
――聖女。
その二文字が、どこかに紛れ込んでいないか。
私は祈るような気持ちで紙面を睨み続けたが、やがて――
「……」
見当たらない。
どこにも、聖女誕生の記事はなかった。
気づけば、肺の奥に溜め込んでいた息を、私はゆっくりと吐き出していた。
同時に、新聞を握る指先が、ひどく冷え切っていることに気づく。
もしも。
もし、アレン殿下の勇者認定と同時に、聖女誕生まで発表されていたとしたら。
それだけで、私は逃げ場を失っていた。
注目という名の光に晒され、各国の教会に招かれ――あるいは、命じられ。
癒しを求める者たちの前に立ち続ける巡業など、想像しただけで眩暈がする。
そんなことになれば、私の身体がもつはずがない。
私は、無意識のうちに指輪へと視線を落とす。
ほんの少し力を借りただけで、鼻血が出るほどの反動。
闇属性の私にとって、この“聖女の力”は、あまりにも相性が悪すぎる。
マヤは「成長すれば多少はマシになる」と軽く言っていたけれど――
私自身は、最初から分かっている。
この力を、自在に扱える日など、決して来ない。
そこまで考えたところで、ふと、ある事実が脳裏をよぎった。
「……そもそも」
私は、独り言のように呟く。
「教会が、私を聖女として認定することなんて、ありませんわよね」
レイヴァス教会には、女神の神託を受け取れる者がいる。
神託なくして、聖女の認定は行われない。
つまり――
女神に選ばれぬ私が、正式な“聖女”として世に出ることは、永遠にない。
その単純で、揺るがぬ理屈に行き着いた瞬間。
胸の奥に残っていた不安が、嘘のようにほどけていった。
「……心配する必要は、ありませんでしたわね」
私はそう呟き、ようやく紅茶に口をつける。
少し冷めてしまったその味は、けれど不思議と、先ほどよりもずっと穏やかに感じられた。
――そう、思っていたはずだったのだが。
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
――見られて、いる?
いつもと変わらぬ朝だった。
ホリバンが御者を務める馬車に揺られ、学園の正門をくぐる。
その一連の流れは、もはや私の日常だ。
それなのに、今朝に限って空気が違う。
「……」
視線が、刺さる。
勘違いなどではない。
すれ違う生徒たち――学年も立場も関係なく、誰もが一瞬、あるいは露骨にこちらを見て、そして目を逸らす。口元を覆い、肩を寄せ合い、ひそひそと囁き合うその仕草。
学園とはいえ、社交の縮図だ。
その中で、この振る舞いはあまりに無作法だった。
……まったく。
本来であれば、公爵令嬢として一言申し上げてもいい。
視線を正しなさい、と。
噂話を慎みなさい、と。
だが――脳裏をよぎったのは、今朝の新聞の見出し。
【勇者誕生】
【アレン=ロードナイト王太子、今代の勇者に】
あの記事が出た以上、彼らの関心がどこへ向かうかなど、考えるまでもない。
勇者の婚約者。
聖女と噂される女。
――つまり、私だ。
……仕方が、ありませんわね。
マヤからも、学園内では極力“悪役令嬢ムーブ”は控えるよう釘を刺されている。
余計な火種を撒くな、という意味だ。
だから私は、背筋を伸ばし、唇に薄く微笑みを乗せる。
淑女の仮面を完璧に整え、何も聞こえていないふりをして歩き続ける――そのはず、だった。
「……偽聖女って話だぜ」
「アレン王太子殿下に近づくために、聖女だって言い張ったらしいな」
「普通、公爵家がそんなことするか?」
――カチリ、と。
足が止まった。
身体よりも先に、言葉が意識に突き刺さったのだ。
偽聖女。そのたった三文字が、耳鳴りのように反響する。
……偽、ですって?
辛うじて、表情は崩していない。
鏡の前で何度も練習した“聖女の微笑み”は、まだ私の顔に貼りついている。
だが、内側は違った。
心の奥で、地面が割れ、雷が落ち、津波が押し寄せ、火山が噴き上がる。
四大天変地異が一度に襲いかかるような衝撃に、頭が真っ白になる。
……誰が、そんな……。
喉の奥までせり上がってきた言葉を、私は必死に飲み込む。
ここで声を荒げれば、それこそ彼らの思う壺だ。
――大丈夫。
聖女の指輪なら、ちゃんとここにある。
左手中指にそっと指を当てる。冷たい感触が、確かに存在を主張していた。
そもそも偽物だと悟られるようなミスはしていない。
そう、私は何一つ失敗していない。祈りも、振る舞いも、言葉遣いも――すべて、聖女として求められるものを過不足なく演じきってきた。
私は、私自身にそう言い聞かせるように息を整え、再び歩き出した。
その時だった。
「……あら。どこのオオカミ少女かと思えば、イデア=シュベルッツベルグじゃない?」
ねっとりと耳に絡みつくような声。
呼び止められたのだと理解した瞬間、胸の奥がひやりと冷える。
振り返ると、そこに立っていたのは――嫌味なチョココロネこと、ライリー=レガリアント。
「――――」
一瞬、言葉を失う私に、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「あら、そういうあなたはライリー=レガリアント。……相変わらず、ひどいくせ毛ですわね」
「巻いていますのよ! どこをどう見たらこれがくせ毛に見えますの! 一度、眼球を取り出して医師にお見せすることをおすすめ致しますわ」
「まあ、とても素晴らしい提案ですこと。でも、ごめんなさいね。わたくし、あなたと違ってリビングデッドではありませんの。……そのような器用な真似はできませんのよ?」
「誰が生きる屍ですって!」
「あら、ご自分で仰ったのではなくて?」
「言っていませんわよ! 一体どういう耳をしておりますの!」
互いに一歩も引かぬまま、視線がぶつかり合う。
空気が張り詰め、火花が散るような錯覚すら覚えた。
周囲の生徒たちは、察したように距離を取る。
いつの間にか、廊下の中央には不自然な空白が生まれ、そこに私とライリーだけが対峙していた。
――相変わらずだわ。
彼女は、私を見つければ必ず噛みついてくる。
余程、私のことが気に入らないのだろう。
原因は分かっている。
すべては二年前――あの夜会が、始まりだった。
「それはそうと、聞きましたわよ」
ライリーが、ふっと声の調子を落とした。
不敵な微笑み。獲物を見つけた蛇のように、細められた目が私を絡め取る。
「今代の勇者様――アレン王太子殿下と、婚約なさったとか」
「……でしたら、なんですの?」
「いえ。ただ、少し不思議に思っただけですわ」
「私とアレン殿下が婚約することの、どこが不思議だと仰るのかしら?」
「だって、不思議ではありませんこと?」
ライリーは、急に声を張り上げた。
あからさまに、周囲へ聞かせるために。大仰な身振りを交え、舞台役者のように。
「歴代の勇者様方のパートナーといえば――レイヴァス教会がお認めになられた、聖女様と決まっているでしょう?」
――その言葉が放たれた瞬間。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
まるで内側から強く叩かれたような衝撃。
私は咄嗟に奥歯を噛みしめ、拳をそっと握る。
動揺を悟られてはいけない。顔に出しては、終わりだ。
「……それが、なんだと仰るの」
精一杯、平静を装ったつもりだった。
けれど、声はわずかに震えてしまう。嘘を吐いているという自覚が、胸を締め付け、公爵令嬢としての矜持を脆く揺さぶった。
一方で、ライリーの表情は変わらない。
いいえ、むしろ楽しげですらあった。
まるで追い詰めた獲物が、いつ悲鳴を上げるのかを待つ猛獣のように。
その眼差しが、まっすぐ私を射抜いていた。
「――では、単刀直入にお尋ね致しますわ。イデア=シュベルッツベルグ。あなたは、本当に聖女なのかしら?」
その一言が放たれた瞬間、廊下の空気が凍りついた。
ざわめいていた生徒たちの気配が、潮が引くように遠のき、代わりに重たい沈黙が落ちる。
――来た。
私の内心を見透かしたかのような問いかけだった。
集まってきた生徒たちが、息を呑むのがわかる。
誰もが興味津々といった様子で、視線は一斉に私へと注がれていた。
彼らが知りたいのは、ただ一つ。
噂は真実なのか、それとも――虚飾なのか。
「噂によれば、ですけれど」
ライリーはわざとらしく指先を顎に当て、朗々と続ける。
「あなたのお父様が、国王陛下に“娘は聖女である”と進言なさったとか。そして心優しき陛下はそれをお信じになり、あなたを勇者様――アレン王太子殿下の婚約者にお選びになった。……そう、お聞きしていますわ」
噂、などという言葉は建前にすぎない。
王城にレガリアント家の内通者がいる――そう考える方が、よほど自然だった。
ならば、ここで曖昧な態度を取るのは愚の骨頂。
私はすでに決めている。
偽りであろうと、最後まで“聖女”を演じきる、と。
――自ら聖女を名乗ることなど、今さらである。
「如何にも」
私は背筋を伸ばし、胸を張る。
「私こそが、女神に選ばれし聖女ですわ。陛下がそれをお認めになられたからこそ、アレン殿下との婚約に至った――ただ、それだけのことです」
はっきりと言い切る。
揺らぎは見せない。
「おお……」
「やっぱり……」
生徒たちの間から、感嘆とも安堵ともつかぬ声が漏れた。
――その、刹那。
「――急患です!」
切迫した叫びが、廊下の奥から響いた。
人垣の向こうから、慌ただしい足音が近づいてくる。
「こ、こちらに聖女様がいらっしゃると聞きまして!」
大げさなほど慌てた様子で現れたのは、ライリーの取り巻きの一人。
その背後から、別の取り巻きが、さらに一人を支えながら姿を現す。
――血。
抱えられている少女の頭部から、おびただしい量の赤が滴っていた。
「ど、どうなさったのですの!?」
ライリーは芝居がかった悲鳴を上げ、真っ先に駆け寄る。
その横顔には、隠しきれない愉悦が滲んでいた。
――ああ、なるほど。
「まあ、なんという偶然でしょう」
彼女はゆっくりと振り返り、私を見る。
「ここには“自称聖女”を名乗る、イデア=シュベルッツベルグがおりますのよ?」
にたり、と口角が吊り上がる。
敵意と確信に満ちた、あの笑み。
「さあ――聖女の力で、癒して差し上げてくださいまし」
――聖女の力など、私にはない。
そう思っているのだろう。
怪我人を前に、私が怯み、逃げ出すとでも?
……浅はかだ。
私には、聖女の指輪がある。
この力を使えば、多少の怪我など、跡形もなく癒せる。
もっとも――代償は重い。
闇属性である私と、聖女の力の相性は最悪だ。
ここで行使すれば、倒れる可能性すらある。
癒しを行って気絶した聖女。
そんな噂が広まれば、父がどう出るか……考えるまでもない。
それに、あまりにも出来すぎている。
このタイミングで、ライリーの取り巻きが重傷?
――どうせ、頭からケチャップでも被ったのだろう。
結論は一つ。
無視。
それが、最善。
「……馬鹿馬鹿しい」
私は踵を返した。
背後から、甲高い罵声が飛んでくるが、構わない。
教師が来れば、すぐに偽装だと暴かれる。
――そう、信じていた。
「おおっ……!」
「やっぱり……!」
「見たか……!」
「ライリー=レガリアント公爵令嬢こそが――」
「本物の聖女様だ!!」
歓声。
耳を疑い、私は振り返った。
「……え?」
視界を覆い尽くす、七色の光。
ライリーの手のひらから放たれたそれは、何度も目にしてきたものだった。
取巻きの少女の傷が、みるみるうちに塞がっていく。
――癒しの奇跡。
聖女にのみ許された、紛れもない力。
「……ありえない……」
言葉が、震えた。
私はただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。




