第44話 公爵令嬢の悪意
時は遡る。
それは、イデア=シュベルッツベルグが生涯で初めてのお茶会を開いた、その同じ刻限――。
北の地、ミソエル地方。
三方を深い森と連なる山々に閉ざされた、外界から切り離されたような静寂の田舎である。かつては人の営みで賑わったであろう鉱山も、今は久しく放置され、魔物の噂とともに人々の記憶から遠ざかっていた。
その忌避の地へ向かい、ひとつの小さな人影が歩を進めていた。
外套を深く被り、足音さえ慎むように。
「……かび臭くて、辛気臭い場所ですこと」
吐き捨てるような呟きとともに、人物はフードを外す。
陽光を受けて、プラチナブロンドの髪がきらめいた。両側を結い、丹念に巻かれたその髪は、貴族趣味の粋を凝らしたものであり、どこか芝居がかった華やかさを帯びている。
ライリー=レガリアント。
アストラル王国四大公爵家のひとつ、レガリアント公爵家が誇る令嬢であり、イデア=シュベルッツベルグと同じ血脈に連なる少女だった。
その髪型はあまりに特徴的で、当のイデアからは「チョココロネ」と揶揄されたこともある。だが、ライリー自身はその評価を微塵も気に留めていない。誇りと矜持が、幼い身の内に過剰なほど詰め込まれていた。
「……確か、この辺りのはずですわね」
視線の先。
龍の背骨と呼ばれる鉱山の入口――その奥へと続く坑道の壁や地面を覆い尽くすように、巨大な笠を持つ茸が群生していた。異様なほど生命力に満ち、湿り気を含んだ空気に、得体の知れぬ匂いを漂わせている。
「……本当に、気持ちが悪いほど生えてますわ」
嫌悪を隠そうともせず、ライリーは一歩踏み込む。
懐から取り出したのは、一枚の写し絵。そこに描かれた茸と、今まさに目の前にあるそれとを、慎重に見比べた。
「……これで間違いありませんわね?」
指先で摘まみ上げた茸は、見た目に反してずしりと重い。
それが何をもたらすのか――彼女は詳しく知らない。ただ、知っているのは、これが“あの女”を貶めるための道具である、という一点だけだった。
「本当に、こんなもので……あのいけ好かない女に一泡吹かせられるのかしら」
不満と疑念を滲ませながらも、ライリーは茸を手に引き返す。
頼りにしているのは、出所も定かでない地図一枚。舗装などされていない山道を、六歳の少女が歩くにはあまりにも心許ない。
やがて、木々の合間から小川が見えてきた。
水音に混じり、甲高い笑い声が響く。
ライリーは咄嗟に足を止め、大木の陰へと身を寄せた。
視線の先では、地の民と呼ばれる原住民の子供たちが、無邪気に水遊びに興じている。裸足で水を蹴り、互いに水を掛け合い、世界に疑いというものを知らぬ顔をして。
「……あれが、“彼ら”ですのね。噂に聞く、地の民……」
胸の奥に、名状しがたいざわめきが生じる。
好奇心か、それとも恐れか。あるいは、そのどちらでもない、貴族として刷り込まれた距離感。
ライリーはそっと息を潜め、衣嚢からひとつの指輪を取り出した。
黒く沈んだ地金に、精緻な意匠。金色の文字で刻まれたそれは、彼女の知るいかなる言語とも異なっていた。
「……本当に、これで……大丈夫ですの?」
自問する声は、かすかに震えていた。
だが、指輪を嵌める動作に迷いはない。
次の瞬間、ライリーの姿が揺らぐ。
六歳児の身体は、蜃気楼のように輪郭を歪め、別の像を映し出す。だが、それは完全な変化ではなく、現実と虚構の境目を曖昧にした、不安定な姿だった。
今にも解けて消えてしまいそうな、その存在。
「――そこの、あなた達」
声をかける。
だが、子供たちは振り向きこそすれ、その違和感に気づくことはなかった。
指輪が放つ不可思議な力が、彼らの認識を静かに歪めている。
目に映るものを、あるがままに理解できなくなる――それが、この小さな宝飾に秘められた呪いであり、祝福だった。
そしてこの出会いが、後にミソエル地方に小さな、しかし確かな波紋を広げていくことを、まだ誰も知らない。
「……本当に食えるのか――これ?」
乾いた声が、山裾の冷たい空気に溶けた。
差し出された茸に、見た目の異常はない。毒々しさもなく、形も色も、ごく普通の茸だ。
それを差し出した見知らぬ人物――ライリーは言った。
――これは食用だ。
しかも、山の奥には、まだいくらでも生えている、と。
その言葉に、子供たちの瞳が揺れた。
疑念よりも先に、かすかな光が宿る。
その年、ミソエル地方は不作だった。
地の民は慢性的な食糧不足に喘ぎ、腹を満たすことさえ容易ではない。
夜になれば、大人たちは囲炉裏を囲み、声を潜めて食糧の話をする。
その重たい会話を、子供たちは息を殺して聞いていた。
だからこそ。
「食べられる」と断言された茸は、怪しさよりも先に、救いに見えた。
縋るように。
祈るように。
子供たちは、その茸から目を離せずにいた。
近くにいた大人の袖を引き、彼らは茸を見せた。
そして同時に紹介した――
その茸を持ってきた、ライリーが扮する“謎の人物”を。
それが、すべての始まりだった。
――数日後。
地の民とロブフ村の人々は、目に見えて衰弱していく。
力を失い、声を失い、ただ横たわる者が増えていった。
原因が何であるかを突き止める余力すら、彼らには残されていなかった。
その元凶。
それは、同学園に通う少女――
ライリー=レガリアントによる、周到に仕組まれた“悪意”だった。
◆
「……パソネス家が、鉱山の採掘を再開した?」
自邸のサロン。
磨き上げられた調度品と、淡い香りを放つ紅茶に囲まれた空間で、ライリーは優雅に脚を組んでいた。
使用人がそっと近づき、耳元で報せを告げる。
その瞬間、彼女の口元に浮かんでいた余裕の笑みが、ひび割れるように歪んだ。
「……そう。そう、ですの」
声は静かだったが、内に孕んだ苛立ちは隠しきれていない。
憎きイデア。
彼女が主催した茶会に招かれたという、パソネス男爵家の娘。
なぜイデアが、没落寸前の男爵家と親しくする必要があったのか――その理由は表に出ていない。
だが、懇意であることだけは、疑いようがなかった。
レガリアント家の情報網は正確だ。
パソネス家の財政は逼迫しており、このままいけば自壊する――それが共通認識だった。
そこへ手を差し伸べたのが、あの性悪女と名高いイデア=シュベルッツベルグ。
それだけでも十分に異様だというのに。
ライリーがミソエル地方に赴いている間、事態はさらに進んでいた。
パソネス家の絹糸は、シュベルッツベルグ家、そしてバンブレッド商会と新たな契約を結び、社交界の話題をさらっていたのだ。
嗅覚の鋭い貴族たちは、次々と仕入れ先をパソネス家へと切り替えているという。
「……パソネス家が傾くことで、イデアにとって致命的となる“何か”があったのは間違いなさそうですわね」
ライリーはカップに口をつけることなく、紅茶の水面を見つめた。
だからこそ、彼女はミソエル地方にまで足を運んだ。
だからこそ、あの茸を地の民に与える計画に、迷いなく加担した。
本来ならば――
それでパソネス家は衰退し、守ろうとしていたイデアにも何らかの不利益が及ぶはずだった。
だというのに。
現実は正反対だ。
家は持ち直し、負の遺産でしかなかった鉱山は再び息を吹き返している。
ライリーの指先が、無意識にカップの縁をなぞる。
「……これでは」
低く、吐き捨てるように。
「話が、違いますわよ」
計算違い。
それは、彼女にとって何よりも許し難い裏切りだった。
ライリーは募る苛立ちを抑えきれず、手にしていたティーカップを床へと叩きつけた。
白磁は甲高い悲鳴を上げ、飛び散った紅茶が絨毯に醜い染みを描く。
そのまま彼女は一言も発さず席を立つ。
傍らに控えていた侍女は、音が鳴った瞬間に小さく肩を震わせ、視線を床へと落とした。主人の機嫌に触れぬよう、息を殺すようにして頭を垂れる。その仕草だけで、主従の力関係が雄弁に物語られていた。
不機嫌を隠そうともしないまま、自室へ戻ったライリーは、扉を閉めかけたところでふと足を止める。
寝台――その枕元に、覚えのないものが置かれていた。
「……?」
反射的に周囲へ鋭い視線を走らせる。
広い室内に人の気配はなく、窓も扉も閉じられたままだ。
しばしの沈黙の後、ライリーは警戒を含んだまま、そっと手を伸ばした。
それは一通の手紙だった。
そして――その脇に、飴玉ほどの大きさの宝石が添えられている。
「……なんですの、これは」
宝石はダイヤモンドにも似ているが、どこか異質だった。光を受けるたび、透明な内部に七色の煌めきが走る。まるで意思を宿しているかのように、角度を変えるごとに色彩を変えた。
だが、宝石の山に囲まれて育ったライリーは、たいして感動もしない。
興味を示すこともなく、無造作に宝石から手を離すと、先に手紙へ目を落とした。
静かな部屋に、紙をめくる微かな音だけが響く。
読み進めるにつれ、彼女の表情が変わっていく。
訝しさは愉悦へ、そして確信に満ちた歪んだ笑みへと――。
「……ふふ」
最後の一文を読み終えた瞬間、ライリーの唇が大きく吊り上がった。
「うふふ……私が、聖女」
先ほどまで見向きもしなかった宝石を、今度は大切そうに拾い上げる。
七色の光が彼女の白い指に反射し、頬を淡く照らした。
その光に見惚れるように、ライリーは恍惚とした溜息を漏らす。
「ええ……そうに決まっていますわ」
宝石を胸元に引き寄せ、囁く声には、もはや疑いの色はない。
「あんな女より……私の方が、ずっと聖女に相応しい」
己が“選ばれた存在”であると、疑う余地すら与えぬ傲慢な確信。
その笑みは、祈りとは程遠い、甘く濁った欲望の色を帯びていた。
こうして――
イデア=シュベルッツベルグと、マヤ=キリングの知らぬところで、運命は静かに、しかし確実に、予期せぬ方向へと舵を切り始める。




