第43話 Xの可能性
「これはこれは、イデア様。今朝もなんとご機嫌麗しゅうございますな」
そう声を弾ませて迎えてきたのは、鼻歌まじりのタップ=パソネス男爵だった。
――あの話し合いから、まだ一日しか経っていないというのに。
私はいま、パソネス家の屋敷へ戻り、朝食の用意が整ったとの知らせを受けて食堂へ足を運んだところだった。
大きな窓から差し込む朝の光はやけに柔らかく、一昨日までこの屋敷を覆っていた重苦しさが、嘘のように消え去っている。
テーブルの主である男爵は、椅子に深く腰掛けながら終始上機嫌で、まるで長年の宿痾が一夜にして癒えたかのような顔つきだった。
「お父様、あれからずっとあの調子なんですよ」
小声でそう教えてくれたのはフェンダだ。
呆れ半分、しかしどこか嬉しそうなその表情から、事の重大さが窺えた。
「ここ数年で、いちばんのご機嫌らしいですわよ」
アメリアも微笑を添えて頷く。
なお、ミゼルは二日間の無理が祟ったのか、本日も客室で静養中だ。
お尻に大病を患った身でありながら、よくぞあれほどの働きをしてくれたものだと、胸の奥がじんと温かくなる。
――昨日の朝を思えば、まるで別の世界である。
甲冑を身にまとい、地の民の村へ怒気を纏って乗り込んできた男爵の姿を思い返すと、今のこの光景は少々出来すぎているようにも感じられた。
だが、結果として。
パソネス男爵も、地の民の代表であるアモスも、私の提案を予想以上に――いや、想像以上に気に入ってくれたのだ。
当然といえば当然だった。
私が示したのは、双方が等しく利益を得る、理に適った“道”だったのだから。
魔物の出没により長らく放置されていた鉱山。そこに、戦いと力仕事を生業としてきた地の民を鉱夫として迎え入れる。
鉱山にほど近い山中に暮らす彼らならば、住居の問題はない。食料もこれまでと同じ生活圏で賄える。問題視されていた魔物についても、日頃から山で討伐を行っている彼らならば、むしろ適任と言える。
何より――金銭を得る手段を持たなかった彼らにとって、鉱山での仕事は生活を根底から支える柱となる。
ロブフ村との細々とした取引だけでは、いずれ限界が来ていたのは明白だった。
一方、パソネス家にとっても利は大きい。鉱山の再稼働により新たな収入源が生まれ、頭を悩ませていた鉱山所有税の問題も解消される。加えて、地の民から正式に税を徴収できるようになるのだ。
――まさに、一石二鳥。
……これでよかったのですわ。
湯気の立つ紅茶に口をつけながら、私は胸の内でそっと頷いた。
昨日まで張り詰めていた因果の糸は、いま、ようやく無理のない形で結ばれつつある。
ちなみに、地の民たちの体調については、薬師ミゼルが調合した薬の効果により、すでに回復の兆しを見せている。
寄生茸は日に日に勢いを失い、咳や衰弱に苦しんでいた者たちの顔にも、ようやく生気が戻りつつあると聞いた。
今回の騒動の元凶であるキノコ蜘蛛についても、対策は決まった。
この地の領主であるパソネス男爵と、地の民が手を組み、合同での駆除を行うという。
剣と知恵、双方が揃った以上、もはや脅威ではないだろう。
――それでも。
すべてが解決した、とは言い切れなかった。
どうしても腑に落ちない点が、ひとつ残っている。
キノコ蜘蛛が発生した時期が、あまりにも早すぎたのだ。
本来であれば、まだ数か月は先のはずだった。
地の民に寄生茸の存在を教えたという“誰か”が、何らかの手を加えたことはほぼ間違いない。
だが、その目的が見えない。
有力な手がかりもないままだ。
そして、もうひとつ。
それ以上に、私の胸をざわつかせる疑問があった。
予想外の事態が続き、打つ手がないと語っていたマヤ。
だが、冷静に振り返ってみれば――本当に、彼女は“何も分からなかった”のだろうか。
今になって思えば、彼女は終始、答えそのものではなく、答えへ至るための“道標”だけを示していたように思える。
そうでなければ、あの日の朝、わざわざ鉱山の話題を持ち出す必要があっただろうか。
あれはきっと、パソネス家が抱える問題を、私自身の目で見させ、考えさせるための布石だったのではないか。
――そんな考えが、頭から離れなかった。
「――で、本当のところはどうですの?」
私は自室にマヤを呼び、向かい合わせに腰を下ろしていた。
紅茶の湯気が静かに立ち上り、午後の陽光がカーテン越しに揺れている。
問いかけられた当の本人は、相変わらずだった。クッキーに手を伸ばし、頬をふくらませ、まるで冬支度をするリスのように無邪気な顔をしている。
「……そうだね。地の民を鉱夫として迎えられたら、パソネス家の問題は一気に片付くかも、とは思ってたよ」
「……“かも”、ですの?」
「うん。でも、あそこまで綺麗にまとまるとは思ってなかった。正直、そこはイデアの手腕だよ。胸を張っていい」
思いがけない評価に、ほんの一瞬だけ言葉を失う。
だが、それ以上に、胸に溜まったものがあった。
「……そこまで分かっていたのなら、どうして教えてくださらなかったんですの?」
私は思わず、睨むような視線を向けていた。
けれどマヤは気にも留めず、一度紅茶で口をすすぎ、ゆっくりと話を続ける。
「あたしが、いつまでイデアのそばに居られるか、分からないでしょ?」
「……どういう意味ですの?」
その言葉に、胸の奥がひやりと冷えた。
「今回の件で、はっきりしたよね。運命には、強制力がある」
「……ええ」
「となるとさ、あたしの想定外の出来事が、これからも起こるかもしれない」
「……」
「そんな時、あたしに頼りきりだったら――未来のイデア、考える力が衰えちゃうかもしれないでしょ?」
冗談めかした口調。
だが、その奥にある真剣さは、はっきりと伝わってきた。
「……つまり、私の思考力が鈍らないように、敢えて私に考えさせた、と?」
「それもある」
「それも……?」
他にも何かあるのか。
「もし運命を、本来あるべき形――正しい形に戻そうとするなら」
マヤは私を真っ直ぐに見て、静かに問いを投げる。
「イデアなら、どこを正す?」
――難問だった。
今回のように、改変が加えられる前に物事が進められてしまうのは、いわば奇襲。成功すれば、それだけでこちらに致命的な打撃を与えられる。
運命を“先に動かす”という手は、あまりにも強力だ。
幾通りもの未来を知るマヤでさえ、起きてしまった事実を無かったことにはできないのだから。
「……確かに、そうだね」
マヤは軽く肩をすくめる。
「でも、それなら今回みたいに、先回りすればいいだけじゃない?」
言葉にすれば簡単だ。
だが、現実はそう甘くない。
「……もっと、確実な方法があるとしたら?」
――もっと、確実な?
「……そんな方法、ありますの?」
私はカップをテーブルに置き、少しだけ意地悪な女神になったつもりで考えてみる。だが、いくら思索を巡らせても、答えは浮かばなかった。
私が言葉を失ったままでいると、マヤは視線を横へ流し、傍らに立つアールへと同じ問いを投げかけた。
「ねえ。アールも、あたしがどういう存在なのか……もう何となく察してるんじゃない?」
軽い調子とは裏腹に、その言葉は静かな刃のように空気を切った。
「あなたは――未来を、知っているのですね」
アールの問いに、マヤは答えなかった。
否定も、肯定もせず、ただ真っすぐに彼女の瞳を見返す。その視線に曇りはない。
アールは一瞬だけ眉間に皺を刻んだが、それもすぐに消えた。感情を削ぎ落とすように表情を整え、ゆっくりと瞼を閉じる。思考のための、ほんの短い沈黙。
「――もし私が、未来を知る者を仲間にした敵と対峙するとしたら」
そこで一拍置き、淡々と続ける。
「真っ先に、その者を殺します」
あまりに冷静な声だった。
合理だけで編まれた答えに、情も躊躇も含まれていない。
それを聞いたマヤは、ほんのわずか、唇の端を緩めた。
「正解、かな」
その声には、不安も焦りも、恐怖すらなかった。まるで自分の死すら含め、すべてを織り込み済みで立っている者の声音だった。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
私は無意識のうちに拳を握りしめていた。
「それにね」
マヤは続ける。
何気ない雑談の延長のように。
「あたしみたいな存在が、この世界に一人だけとは限らないんじゃない?」
――マヤのような存在が、他にも?
その発想は、今まで一度も頭に浮かんだことがなかった。
だが、言われてみれば。
いない、と断言できる材料のほうが、圧倒的に少ない。
「しかもさ。そいつ、本物の聖女が好きなんじゃないかな?」
「……」
言い換えれば。
そいつは――私のことが嫌いということだ。いや、それどころか、明確な敵である可能性が高い。
もし、それが事実だとしたら。
状況は、致命的に不利だ。
何をしても死亡フラグが立つ私。
そして、この世界の“物語の中心”とも言える、本物の聖女。
その時点ですでに勝ち目が薄いというのに、さらにこちらの唯一のアドバンテージ――未来の知識まで奪われるとしたら。
……もはや、勝負にならない。
「もちろんね」
私の沈黙を遮るように、マヤは肩をすくめた。
「まだそうだって決まったわけじゃないよ。あくまで、可能性の話」
だが――今回の件。
もし、マヤと同じく未来を知る人物。
仮に“X”と呼ぶべき存在による犯行だとしたなら。
不自然だった点。
噛み合わなかった違和感。
そのすべてが、恐ろしいほど綺麗に――辻褄が合ってしまうのだ。
「でもね、最悪の事態は、あらかじめ想定しておいた方がいいと思ったんだ」
マヤは、まるで天気の話でもするような軽さでそう言った。
けれど――その言葉の裏に含まれる意味を、私は否応なく理解してしまう。
胸の奥が、きり、と小さく軋んだ。
気づけば、唇を強く噛みしめている。
「あたしが死んでしまったり。あるいは、あたしのいない場所で、物語が大きく動いたとき」
さらりと「死んでしまったり」などと言ってのける、その無神経さが、今はひどく残酷だった。
「そのときイデアは、自分の力だけで状況を把握して、運命を変えるための対処をしないといけないんだよ」
それは助言であり、訓告であり――
同時に、「私がいなくても生きろ」と言われているようでもあった。
今回の一件は、そのための予行演習。
マヤはそう位置づけていたのだ。
「……アメリアとミゼルを連れて来ることも、すべて計画の内、でしたのね」
確認するように問いかけると、マヤは悪びれもせず頷いた。
「うん。その通り」
あっさりと、あまりにもあっさりと。
「前にも言ったけどさ、彼女たちは数少ない、イデアの“本当の仲間”なんだ」
その言葉に、胸の奥が微かに揺れる。
「だから運命の強制力が働いても、イデアを裏切ることはない。……そういう意味でも、イデアは彼女たちのことを、もっと知らなきゃいけない」
「……彼女たちを、知る……」
私の呟きに、マヤは少しだけ目を細めた。
「あんまり綺麗な言い方じゃないかもしれないけどさ。――“使い方”を、知ってほしかったんだ」
胸に、冷たいものが落ちた気がした。
けれど同時に、それが現実的な判断であることも、否定できない自分がいる。
アメリアは責任感が強く、三人の中でもっとも私に忠実だ。理解力も高く、今後、学園内や社交界での情報収集において、大きな力となるだろう。
ミゼルは薬師として一流であり、私が(偽)聖女であるがゆえに抱える欠落を、技術で補ってくれる可能性を秘めている。
フェンダは人当たりがよく、商才にも長けている。三人の中で最も柔軟で、行動力がある。乗り物酔いもなく、持病――痔を患っていないという、どうでもいいが実務的には重要な利点まで備えていた。
……なるほど。
確かに、よく“選ばれている”。
それでも。
私の胸に残ったのは、仲間を得た安堵よりも――
マヤが、いつか本当に私の前からいなくなる未来を、当然の前提として語った、その事実だった。
「あ! そんな顔しちゃダメ!」
突然、マヤが大げさに声を張り上げた。
「あたしはね、イデアのハッピーエンドを見るまでは、絶対に死なないよ。ゴキブリ並みの生命力、全力で発揮するつもりなんだから!」
「……ゴキブリ、ですの?」
あまりに即物的な比喩に、私は言葉を失った。
横では、はっと息を詰めるアールの姿がある。
「淑女がゴキブリなどと口にするものではありませんわよ」
私がそう告げると、アールは即座に頷いた。
「お嬢様の仰るとおりです。……お嬢様の教育に、あまりよろしくありませんから」
「はーいはい。二人そろってお説教ですか」
マヤは肩をすくめ、悪戯っぽく舌を出した。
けれど、その軽さの裏で、彼女が無理に明るく振る舞っていることも、私にはわかってしまう。
――だからこそ、余計に胸の奥がざわついた。
笑い声の消えたあと、ふと静けさが落ちる。
旅の終わり特有の、取り残されるような空気。
僅かな不安を抱えたまま、私たちのミソエル地方の旅は、静かに終わりを迎えた。




