第39話 ゴルドフの母
「……なんか、全然“聖女”って感じがしねぇんだよな」
ぼそりと呟かれたその一言は、妙に耳に残った。
私を聖女ではなく、悪役貴族のようだと評した少年――名をゴルドフという。
彼は地の民の村へ向かう道すがら、終始こちらへ疑惑の眼差しを向け続けていた。
その視線は、単なる警戒というより、まるで最初から答えを知っている者のそれに近い。
意思疎通の腕輪を通じて、マヤから聞いた話が脳裏をよぎる。
――この少年こそが、未来において“聖女の仲間”となる存在。
皮肉な話だ。
私と敵対する運命にある者ほど、最初から私を拒むよう、女神に仕組まれているのではないか。
そんな疑念すら、胸の奥に芽生え始めていた。
「……ここが、我らの村です。ゴホッ、ゴホ……」
若き族長――ゴルドフの父の声が、咳と共に途切れがちに響く。
「聖女様がお越しくださったというのに、何のおもてなしもできず……申し訳ない」
そう頭を下げる彼に導かれ、私たちは村の中へと足を踏み入れた。
深い森の奥。
巨木の根と枝に抱かれるようにして、その村はひっそりと息づいていた。
家々は木と蔦で編まれ、幹に寄り添うように建てられている。
小川が静かに村を横切り、丸木橋と石段が人々の生活動線を形作っていた。
樹上や軒先には、小さな飾りや護符が吊るされ、風に揺れるたび、森と共に生きる部族の穏やかな祈りが伝わってくる。
――ここは、人の手で征服された土地ではない。
森に許され、溶け込み、共に在ることで成り立つ村。
その空気は、どこか神域に近い静けさを帯びていた。
「聖女様が来てくださるとは……ありがたや……」
マヤの余計な一言のおかげで、私は今や聖女として正式に迎え入れられている。
村人たちは、私をひと目見ようと集まり、次々に頭を垂れ、手を合わせる。
――居心地が悪すぎますわよ!
「おい、あっちに重病人が集められてる――痛っ!?」
突然、乾いた音が響いた。
「何で殴るんだよ!」
「聖女様に向かって、なんだその態度は!」
「……まだ聖女だって、決まったわけじゃねぇだろ」
「お前は、まだそんなことを言っているのか!」
ゴルドフは、父親からげんこつを落とされ、しぶしぶ頭を下げた。
「……悪かったよ」
だが、その視線だけは、私を恨めしそうに睨みつけてくる。
――その顔。
思わず一つ、平手を叩き込みたくなって身を乗り出した、その瞬間。
「(聖女様らしく振る舞わなきゃ、ダメだよ)」
意思疎通の腕輪越しに、即座の警告。
「(……分かっていますわよ)」
私は内心の暴力衝動を必死に押し殺し、口元に作り物の微笑みを貼り付けた。
――ああ、本当に。
聖女という役柄は、こんなにも忍耐を要求するものなのですのね。
◆
「……すごい数ですわね」
案内された建物の中には、簡素な寝具に横たえられた地の民の姿が幾重にもあった。
薄暗い室内に満ちるのは、湿った空気と、断続的に響く咳の音。
誰もが一様に胸を押さえ、浅い呼吸を繰り返している。顔色は土気色に近く、健康とはほど遠い。
――想像していた以上ですわね。
その中でもひときわ衰弱の色が濃い女性のもとへ、ゴルドフが駆け寄っていった。
「おかぁ……起きてきちゃダメだろ」
少年にそう言われながらも、女性は無理に身を起こし、こちらへと深く頭を下げる。
栗色の髪は艶を失い、頬は痩せこけていた。
歳は――ゴルドフの父と同じくらい。見た目から察するに、二十代前半といったところだろう。
――若すぎますわ。
「見たところ……彼女の容態が、一番悪そうですね」
耳元で、私にだけ届くよう低く囁かれたアールの声。
私は小さく頷いた。
――ええ。かなり衰弱しています。
それに――。
私はふと、部屋の片隅へと視線を走らせた。
無造作に積まれた、大量の茸。
「……マヤ」
名を呼ぶと、マヤも同じものを目にしたのだろう。
一瞬、表情が強張り、口元がわずかに引き結ばれる。
――間違いありませんわね。
「おい! お前、聖女なんだろ!」
沈黙を破るように、ゴルドフの声が響いた。
「だったら早く! おかぁを診てくれよ!」
切羽詰まった叫び。
その声に、先程まで礼儀を重んじていた父親が咎めることはなかった。
否――それどころではなかったのだろう。
「……聖女様」
彼は苦しげに咳き込みながら、私を見下ろした。
「妻を……診てやっては、もらえないだろうか」
縋るような視線。
村を率いる族長ではなく、ただの夫としての顔だった。
「……ええ」
短く答え、私は女性の隣へと腰を下ろす。
――診たところで、分かることなど、ほとんどありませんのに。
そう思いながらも、今さら真実を口にすることはできなかった。
「……で、おかぁは、治るのか?」
まっすぐ向けられた問い。
その声に、私は即座に答えることができなかった。
「……」
――どう答えるのが、正しいのですの。
視線だけでマヤを探る。
「(ゴルドフのお母さん、かなり危険な状態かも。聖女の指輪の力で治せる?)」
「(……やってみないことには分かりませんわ。でも、一人だけというわけにはいきませんでしょう?)」
この部屋には、彼女以外にも多くの病人がいる。
咳に苦しみ、床に伏し、回復の兆しすら見えない人々が。
一人を救うということは、この場にいる全員を見捨てないということだ。
そして――それは、私には重すぎる。
全員を癒そうとすれば、間違いなく私は倒れる。
以前と同じように、意識を失うことになるだろう。
その懸念を察しているのか、先程からアールの表情は硬く、鋭さを帯びていた。
「(それは分かる。でもね)」
マヤの声が、静かに割って入る。
「(ここで聖女の力を見せておいた方がいいと思う。ゴルドフには、できるだけ恩を売っておきたい)」
――……それは、確かに。
ゴルドフは、最初から私を疑っている。
その視線は今も変わらない。
彼の心を動かすには、言葉よりも、直接奇跡を見せつける必要がある。
けれど。
「(それをやるなら……結局、全員を助ける必要がありますわよね)」
それは、無理だ。
「(大丈夫)」
即答だった。
「(ここにいる全員を治す必要はないよ。とりあえず、ゴルドフのお母さんだけ治しちゃお)」
「(……そんなことをしたら、他の人たちに不満が出るのでは?)」
「(そこは、なんとでも言えるかな)」
「(……言える?)」
「(一番危険な状態だったから、先に聖女の力を使ったって言えばいい)」
「(……“先に”、ですの?)」
「(うん。他の人たちは、すぐにミゼルが何とかしてくれると思う)」
――なるほど。
私は小さく息を吐いた。
ここへ来たのは彼を――ゴルドフを聖女から引き離すため。
なら、今は多少無茶でもやるしかない。
私は立ち上がり、集まった地の民へと向き直る。
「彼女の容態は、非常に危険ですわ」
室内が、しんと静まる。
「このままでは……命に関わりますわ。ですから、その……まず彼女を救うため、聖女の力を使わせていただきますわ」
ざわめきが、微かに広がった。
それを振り切るように、私は左手を差し出す。
指輪が、応えるように脈打った。
「……っ」
七色の光が、私の掌から溢れ出す。
柔らかく、しかし抗いがたい輝き。
「す、すげぇ……」
ゴルドフの声が、震えた。
疑惑に満ちていたその瞳が、今はただ、目の前の光を映している。
――これで、私に向けられていた疑惑も晴れますわ。
「おかぁ!」
「ゼネア!」
母の顔色が明らかに戻ったのを見て、ゴルドフは堪えきれず、その胸に飛び込んだ。
続いて父も、感極まっては妻の身体を強く抱き寄せる。
三人の呼吸が重なり、安堵の空気がそこに満ちた。
やがて彼らは、はっとしたように私たちの存在を思い出し、気恥ずかしそうに視線を向ける。
親子三人の頬には、同じ色の赤みが差していた。
「……感謝いたします、聖女様!」
父親は床に膝をつき、額が板に触れるほど深く頭を下げた。
それとは対照的に、ゴルドフは後頭部を掻きながら、どこか居心地悪そうに立っている。
「……悪かった。疑って」
そう言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。
「……って、お前、顔色悪くないか? 大丈夫か?」
彼の母が血の通った頬で笑っているのとは対照的に、私の視界はわずかに白く滲み、身体の芯が冷えていくのを感じていた。
――やはり、相応の代償はありますわね。
けれど、以前のように胸を締めつける激痛がないのは、力を使った時間が短かったからだろう。
「お嬢様!」
アールがすぐさま駆け寄り、白いハンカチーフを差し出してくる。
気を失うほどではないが、鼻血は相変わらず素直に出てしまう。
私はそれを受け取り、軽く鼻を押さえながら微笑んだ。
「大丈夫ですわ。少し、立ちくらみがしただけです」
それが精一杯の虚勢だということは、アールには伝わってしまっているだろう。
「聖女様……!」
「ありがとうございます……!」
「こんな奇跡を……!」
奇跡を目の当たりにした地の民たちが、次々と押し寄せ、口々に感謝を告げながら頭を下げる。
そして、次は彼らをと――熱気が一気に部屋を満たしていく。
「――その前に」
マヤが一歩前に出て、場を制した。
「この病の原因と、今後どうすべきかを説明するよ」
こうなることは、最初から分かっていた。
だからこそ、マヤは奇跡の余韻が残るこの瞬間を選んだのだろう。
彼女の話によれば、病の原因は寄生茸によるものであり、今この時も、ミゼルが解毒薬の調合に取りかかっているという。
――聖女の力は必要ない。
あとは、正しい知識と、地に足のついた対処が必要なのだ。




