第40話 今すべきこと
イデアたちが地の民の村を目指し、険しい山道へと足を踏み入れていた、まさにその頃。
アメリア=ワルドナルクは、胸に大切そうに茸を抱えたまま、パソネス家の重厚な門をくぐろうとしていた。
外套の裾には山道の土が付き、息はわずかに乱れている。
それでも彼女の瞳だけは、確かな決意の光を宿していた。
「アメリアお嬢様! 一体、どちらへ行かれていたのですか!」
扉を押し開け、玄関ホールに足を踏み入れた瞬間。
悲鳴にも似た声が、突風のように吹き荒れた。
声の主は、ワルドナルク家に仕える侍女――セビィである。
今回の滞在に際し、アメリアの身の回りを世話するために同行していたにもかかわらず、彼女は主の行方を知らぬまま、屋敷で半日近くを過ごしていた。
朝食の後、部屋を出たきり戻らないアメリアを案じ、セビィは数時間にわたって広い屋敷の中を駆けまわったのだろう。
前髪は汗で額に張り付き、呼吸も荒い。
「セビィ……あなた、顔色が真っ青ですわよ」
気遣うように言うアメリアに、セビィは震える声で返す。
「……だ、誰のせいだと……思っているのですか……」
その言葉を最後に、緊張の糸が切れたのか、セビィはその場にへたり込んだ。
主の無事を目の当たりにした安堵が、一気に身体を支配したのだ。
しかし、アメリアはそれを気遣うよりも先に、胸に抱いていたものをそっと差し出す。
「そんなことより、これを――すぐにミゼルに渡さなければなりませんの」
「……これは……茸、ですか?」
あまりにも真剣な表情で差し出されたそれを見て、セビィは一瞬、お嬢様が無理を重ねすぎておかしくなってしまったのでは、と不安を覚えた。
だが、アメリアの眼差しは冗談や気まぐれとは程遠い。
「冗談ではありませんわ。時間がないのです」
そう言ってミゼルの部屋へと歩き出す。
「すぐにミゼルの部屋へ向かいますわよ!」
その背中には、貴族令嬢らしからぬ切迫と、何かを“間に合わせねばならない者”の覚悟がはっきりと刻まれていた。
セビィは慌てて立ち上がり、額を流れる汗を拭う間もなく、アメリアの後を追った。
「ミゼル! あなたにお願いがありますの!」
切迫した声と同時に、扉が勢いよく開け放たれる。
普段のアメリアであれば、必ず一度はノックをし、呼吸を整えてから入室しただろう。
だがこの時ばかりは、礼節よりも時間が優先された。
「……へ?」
「……え?」
短く、間の抜けた声が重なる。
寝台の上。
ミゼルはドロワーズ姿のまま、うつ伏せになり、片肘をついて果物を口に運んでいた。
陽の差し込む室内で、果汁の滴るフルーツと、あまりにも無防備な体勢。
それは淑女として――いや、人としても――できれば誰にも見られたくない光景であった。
そして、その目撃者が、よりにもよって親友のアメリアである。
アメリアは一瞬、言葉を失い、次いで「見てはいけないものを見てしまった」という自覚が、ゆっくりと視線を逸らさせた。
視線は壁へ、天井へと逃げていく。
「ち、違うのこれは――」
慌てて弁明しようと、ミゼルは身を起こしかける。
「――痛っ!?」
次の瞬間、短い悲鳴が上がった。
不用意な動作が、持病の痔を直撃したのだ。
尻を押さえて悶絶する子爵令嬢。
気品も理知もかなぐり捨てた姿に、アメリアは思わず額に手を当てた。
(……本当に、この子で大丈夫ですの……?)
予言者マヤの言葉を疑うつもりはない。
彼女が「凄腕の薬師」と断じた以上、それはきっと真実なのだろう。
――だが。
寝台の上で果物を食べ、痔の痛みに悶えるこの姿から、ロブフ村を救う解毒薬を作り上げる英才を想像せよというのは、さすがのアメリアにも、いささか酷な話であった。
「……それで。ノックもせずに、いったい何事ですの? あなたらしくありませんわ、アメリア」
尻をかばいながら椅子に腰掛けたミゼルが、やや呆れを滲ませて言った。
先ほどまでの混乱が嘘のように、声色だけはいつもの落ち着きを取り戻している。
「イデア様と、予言者マヤから……これを、あなたに渡すよう頼まれましたの」
アメリアは胸に抱えていた一本の茸をそっと差し出した。
「……予言者……マヤ……?」
聞き慣れぬ名に、ミゼルは首を傾げる。
だが次の瞬間、その茸を手に取った途端、彼女の表情から血の気が引いた。
「――これは……寄生茸だわ」
声が、わずかに低くなる。
「こんなもの……非常に危険ですの。胞子が体内に入れば、内臓に根を張り、じわじわと生命を蝕む……。どうして、こんなものが……」
「ここから少し行ったところに、ロブフ村という小さな村がありますの」
アメリアは息を整えながら続けた。
「そこの村人たちが、皆、体調を崩していましたわ。予言者マヤは……この茸が原因だと仰っていましたの」
「……それで、私に?」
問いかけに、アメリアは迷いなく頷いた。
「ミゼルなら、これを見せれば何とかしてくれるはずだと。そう、はっきり言われましたわ」
ミゼルは思わず眉を持ち上げた。
驚きというより、戸惑いに近い。
ドリスマン家は代々薬師の家系ではある。
だが、六歳の自分が密かに薬学を学んでいることは、家の者以外には伏せられていたはずだった。
「……よく、そこまでご存じでしたわね」
一瞬の沈黙の後、ミゼルは茸を見つめたまま言った。
「可能かどうか、で言えば……可能ですわ。必要な素材さえ揃えば、解毒薬は調合できます」
「本当ですの!?」
アメリアの顔が、ぱっと明るくなる。
「セビィ!」
「は、はい!」
「すぐにフェンダと、パソネス男爵にお伝えして。必要なものを用意していただくよう、お願いしますわ!」
「畏まりました!」
ミゼルが記したメモを手に、侍女が駆け足で部屋を出て行くのを見届けてから、ミゼルは小さく息を吐き、そっと腰に手を当てた。
そして、気を取り直すように、アメリアへと視線を向ける。
「……それで、ひとつ聞かせてくださいな」
声音は穏やかだが、その瞳は鋭い。
「どうして、私が薬学を学んでいると知っていましたの?」
問いに、アメリアは即答しなかった。
代わりに、少しだけ困ったように微笑む。
「そのお話は……フェンダと男爵様が揃ってからにさせてくださいまし。同じ説明を何度もするのは、時間の無駄ですもの」
ほどなくして、工場視察から戻ったばかりのパソネス男爵とフェンダが、セビィに伴われてミゼルの部屋へ姿を現した。
全員が揃ったのを確認すると、アメリアは一歩前に出る。
ロブフ村で目にした光景、村人たちの衰弱、予言者マヤの言葉、そしてこの寄生茸の存在――。
彼女は、身振り手振りを交えながら、見聞きしたすべてを、ひとつ残らず語り始めたのだった。
◆
「――なんですと!?」
アメリアの話が終わるや否や、パソネス男爵の口から荒い声が弾けた。
常日頃、領主として穏健を旨とするその顔は、見る間に険を帯び、眉間には深い皺が刻まれる。怒りという感情が、長く押し殺されてきた分だけ、今になって噴き出したかのようだった。
「あの連中……まだ、あの山に巣食っていたというのか」
低く唸るような呟きには、個人的な嫌悪だけではない、長年にわたる確執の重みが滲んでいた。
かの山は、もとは地の民と呼ばれる原住民が暮らしていた土地である。
しかし数代前、国王より正式にこの地を賜ったことで、パソネス家は新たな領主として統治を始めた。
居住を認める代わりに税を納めよ――それは為政者として、あまりにも当然の要求だった。
だが、地の民はそれを拒んだ。
「祖先の地は、誰のものでもない」と。
話し合いは決裂し、小競り合いはやがて流血を伴う争いへと変わった。
時代が移ろい、表立った衝突は減ったものの、火種は決して消えてはいなかったのだ。
そして今回――
その因縁が、領民の健康被害という形で再び姿を現したと知り、男爵の理性は限界に達していた。
「今すぐにでも――奴らを山から叩き出してくれる!」
椅子を蹴立てる勢いで立ち上がり、扉へと向かおうとする男爵。その背には、領主としての責任と、父としての怒りが色濃く宿っていた。
「お待ちください!」
鋭く、それでいて幼い声が、その歩みを遮る。
ミゼルだった。
小さな体で一歩前に出た彼女は、痔の痛みをこらえるように背筋を伸ばし、真っ直ぐ男爵を見据える。
「今、最優先すべきは薬の調合です。感情で動いては、救える命も救えませんわ」
「それに――」
ミゼルの言葉を継ぐように、今度はアメリアが静かに、しかしはっきりと口を開いた。
「イデア様が、すでに原住民のもとへ向かわれていることも、お忘れなく」
その一言に、男爵の肩がわずかに揺れた。
アメリアは続ける。
もし今ここで武力に訴えれば、イデアが人質として利用される可能性は否定できない。
その現実を、あえて言葉にして突きつけるように。
「軽率な行動は、イデア様の身を危険にさらしますわ」
「しかし……!」
なおも言い募ろうとする男爵を、アメリアは一歩も引かぬ眼差しで制した。
「向こうには、予言者マヤがいますのよ」
その名を口にした瞬間、室内の空気がわずかに張り詰めた。
「マヤは、未来を見越して動く方です。イデア様を無防備に送り出すような真似は、決してなさらないはず」
断言する声には、迷いも不安もない。
ただ、信じ抜くという強さだけがあった。
「ですから――」
アメリアは、全員を見渡し、静かに言い切った。
「私たちが今すべきことは、怒りをぶつけることではありません。薬を作り、ロブフ村の人々と、イデア様のもとへ確実に届けること。それだけですわ」
その言葉は、剣よりも鋭く、同時に理性という名の楔として、男爵の胸に深く打ち込まれた。
しばしの沈黙ののち――
パソネス男爵は、重く息を吐き、ゆっくりとその場に立ち尽くすのだった。




