第37話 託された茸
「アメリア! 悪いんだけど、これをミゼルに渡してくれないかな?」
マヤはそう言うと、何の躊躇もなく手にしていた茸を、アメリアの前へと差し出した。
「……え?」
一瞬、時間が止まったかのように、アメリアの瞳が瞬く。
「わ、わたくしが……これを、ミゼルに……?」
声が、わずかに裏返っていた。
無理もない。彼女は由緒正しき伯爵家の令嬢であり、マヤは成り上がりの男爵令嬢。
社交界であれば、立場は明確だ。
――本来、命じられる側と命じる側が、完全に逆なのである。
しかも、手渡されたのは得体の知れない茸。
困惑と困難が、同時に押し寄せてきた表情だった。
「見て分かる通りさ」
そんな空気など意にも介さず、マヤは軽い調子で続ける。
「この村の人たち、みんな体調を崩してるよね。たぶん、その原因が――この茸だよ」
「……っ」
アメリアの喉が、小さく鳴った。
「……で、どうして、それをわたくしがミゼルに?」
「簡単な話」
マヤは指を一本立てる。
「あたしはこれから、この茸の出処を確かめるために、あの山に入ろうと思ってるんだ」
「……山、ですの?」
アメリアだけでなく、私の背筋にも、ひやりとしたものが走る。
「でもさ」
マヤはわざとらしく自分の身体を指さした。
「あたしみたいな、か弱くて非力な六歳児が、一人で山に入るのは危険でしょ?」
「……その自己評価は少々疑問がありますけれど」
「またまた」
私の指摘を笑顔でかわすマヤ。
「だから、シュベルッツベルグ家に仕えるアールにも同行してもらおうと思ってる」
「……つまり」
嫌な予感が、確信へと変わる。
「そうなると当然、イデアも一緒に来てもらうことになるよね?」
「……ええ、そうなりますわね」
否定の余地はなかった。
アールを動かすには、私を動かすしかない。それは、もはや覆ることのない主従関係なのだ。
「だから今、この茸をミゼルに届けられるのは――アメリアだけ、ってわけ」
論理としては、筋が通っている。
通ってはいるが、納得できるかどうかは別問題だった。
「……」
アメリアは茸とマヤを交互に見つめ、眉を寄せる。
「……どうして、ミゼルに渡す必要がありますの?」
ようやく絞り出された疑問に、マヤは首を傾げた。
「アメリア、知らないの?」
「……何を、ですの?」
「ドリスマン家といえば、アストラル王国でも有名な薬師の家系だよ。ミゼルの叔父さん、王宮にも仕えてたはずだけど」
「それは存じていますけど――」
「それにね」
マヤはさらりと、とんでもないことを付け足した。
「ミゼル本人も、小さい頃から薬師の教育を受けてる。そこらの薬師より、よっぽど腕利きだよ」
空気が、凍りついた。
――そんな話、聞いたことがない。
ドリスマン家が薬師の名門であることは、私もアメリアも知っている。
だが、ミゼル自身がそこまでの腕を持っているなど、一度も耳にした覚えはなかった。
特にアメリアは、ミゼルとは幼い頃からの付き合いだ。
その彼女でさえ知らなかった事実を――。
「……な、なぜ」
アメリアの声が、震える。
「なぜ、そんなことを……あなたが知っていますの?」
「……」
「わたくしですら知らなかったのですわよ。それを……ついこの間、知り合ったばかりのあなたが……どうして……!」
怒りよりも、困惑よりも。
その瞳に宿っていたのは――理解不能な存在に対する、純粋な恐れだった。
私は黙ったまま、マヤに視線を向けた。
彼女はそれに応えるように、口角をわずかに、しかし確かに吊り上げる。
まるで、今この瞬間を待っていたかのような――そんな笑みだった。
「言ってなかったっけ?」
軽い調子で、だが逃げ場のない言葉が落とされる。
「あたし、予言者だよ?」
「……予言者?」
その言葉を反芻するように、アメリアは小さく鸚鵡返しに呟いた。
信じがたいものを見る目でマヤを見つめ、次いで助けを求めるように、私へと視線を移す。
「……」
私は何も答えなかった。
肯定も、否定もせず、ただ沈黙を保つ。
その沈黙が、彼女にとっては何より雄弁だったのだろう。
アメリアは顎先に指を当て、深く思案するように視線を伏せる。
そして――。
「……そういうことでしたの」
独り言のように、ぽつりと呟いた。
何が“そういうこと”なのか、私にはさっぱり分からない。
だが彼女の中では、すでにすべてが一本の線で繋がってしまったらしい。
「イデア様が……あなたのような、礼儀もわきまえない令嬢を、なぜお傍に置いていらっしゃるのか……以前から不思議でしたの」
失礼な言い分だが、訂正する気にもなれない。
「ですが、予言者ですか――なるほど、腑に落ちましたわ」
彼女は納得したように、深く頷いた。
――彼女はきっと大きな勘違いをしているわね。
私はマヤの無礼を“許している”のではない。
単に、諦めているだけだ。
「パソネス家の絹糸を、シュベルッツベルグ家へ売り込んだのも……」
アメリアの声が、徐々に熱を帯びていく。
「フェンダのご実家が、いずれ危機的な状況に陥ることを――あらかじめ予言していらしたから、なのですわね!」
それは、半分は正しい。
だが、半分は致命的に間違っている。
フェンダの実家を救うことは、あくまで副次的な結果にすぎない。
本来の目的は――本物の聖女。その“仲間”が揃う条件を、満たさせないこと。
そのために必要だったのが、絹糸であり、パソネス家であり、そして――この村だ。
当然、そんな真実を。
アメリアが知るはずもなかった。
私は胸の奥に渦巻く思考を押し隠し、ただ静かに、マヤの横顔を見つめ続ける。
彼女は相変わらず、すべてを見通しているかのような――
あるいは、何も分かっていないような顔で、そこに立っていた。
「アメリア……本当に、一人で屋敷まで戻れますの?」
念を押すようにそう尋ねると、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「お任せください、イデア様! わたくし、一度でいいから……このような冒険をしてみたかったんですの!」
胸の前で拳を握りしめる姿は、いっそ微笑ましいほどだ。
ロブフ村からパソネス家の屋敷までは、ほぼ一本道。
徒歩でも三十分ほどの距離にすぎない。
――冒険、と呼ぶには、少々大げさではある。
だが、その言葉を口にするほど無粋でもなかった。
彼女にとっては、これが間違いなく“人生で初めての冒険”なのだ。
「私にしかできない、この大役……必ず、果たしてみせますわ!」
その声音には、誇らしさと高揚がない交ぜになっていた。
まるで勇者が魔王討伐へ旅立つかのように、アメリアは茸を大事そうに抱え、振り返りもせず屋敷への道を歩き出す。
その背中が次第に小さくなり、やがて道の曲がり角に呑まれて消えた。
「さて、と」
ぽつりと、場違いなほど軽い声が響く。
マヤは何事もなかったかのように踵を返し、山へと続く森の方角へ歩き出した。
足取りは軽く、鼻歌でも口ずさみそうなほどだ。
「それじゃ――未来の聖女様の“仲間”にでも、会いに行こうか」
その言葉に、冗談めいた響きはある。
だが、そこに含まれる意味の重さを、私は理解していた。
森は深く、影は濃い。
私は無言のまま、マヤの後ろ姿を追って、森の中へと足を踏み入れた。




